暗夜の礫Ⅲ
滝のような雨に眼前に広がる漆黒をも吹き飛ばしかねない風。
吹き荒れる波に流されないように膝をまげ体を反る。顔、手、足で、そして腹で、やがて体全体が風と同化していくのを感じた。
フェイスシールドで聴覚保護をしているために、ぼくの耳に届くのは静かに風が切っている音だけだ。
拡張視が光量を調整し、視界がいくらか鮮明になった。色鮮やかな街の明かりが宝石のように、荒れた空の底にちりばめられていた。
そろそろか、とぼくは拡張視でタイマーを呼び出す。落下してからすでに10秒近く経っていた。空気抵抗などを無視した単純計算では27秒で降下地点に到達するはずだ。目標までそうかからない。
『開傘』
ぼくが蝋の翼を展開させると、背中に取り付けてあったバックパックが翼の形状に変化した。
輸送機から送られてくる座標を読み込み、自動的に目標へとぼくらを運んでくれる。後続の仲間も展開を終えたようだ。
『今回はどういうプラン。屋根に飛び降りる気なの』
チャーリーが回線を通して訊ねる。
『この風だと空中から警備を狙撃するのは厳しいから、近くの降りられそうなところを』
といっていると、即座にウィリアムから新たな座標が送られ、翼の角度が調節された。冗談かと疑いたくなるほどの対応速度、優秀な部下を持てたことに感謝する。
緩やかに旋回し、ぼくらは地へと墜ちていく。地上が加速度的に近づいてくる。
どうやら屋敷から少し離れた湖のほとりに向かっているようだ。
翼を調節して落下速度を落とし、地面が間近に迫ったところで蝋の翼を閉じた。
強い衝撃。
全身の力を抜き、受け身の体勢をとる。
2,3回前転して自身にかかる衝撃を逃がし、すぐさま体勢を立て直した。
着地は成功のようだった。身体の異常を訴える様子は、今のところない。
昔はパラシュートという風船のようなものを使っていたそうだが、資料を見る限り、あんなものをつかって潜入任務をこなすなど自殺行為もいいところだ、と思った。
ぼくらはというと、伸縮性、衝撃緩和性にとんだ機動服を身にまとい、付属の蝋の翼を使うことでより素早く、より隠密に潜入できる。機動服の大部分は細経人工筋肉でできていて、跳躍力、瞬発力、握力といった身体能力を大幅に向上させることができる上に、細かい備品を収納でき、任務をこなす上で役立つ機能がいくつも搭載されている。現代科学の生み出した最高傑作の一つだ。
着地してすぐに蝋の翼を機動服から取り外すと、その名の通りに溶けてなくなった。細経人工筋肉で出来ているそれは、潜入した先で証拠として残らないよう、切り離すと自動的に朽ち果てる。
この仕事とは別に兵器開発も担当しているチャーリーはイカロスという名前が気にくわないと常々文句を言っていたが、地に落ち溶けてなくなる様は、個人的にはとても合っていると思う。
それよりも、とぼくは腐食している翼に目をやる。
テクノロジーの批判として言い伝えられてきたはずの神話が、最新兵器の名前にあてがわれているのはなんとも皮肉な話だ。
溶けた翼は雨で流され、やがて底の見えない湖の深淵へと吸い込まれていった。
『ごり押しでも楽勝だろうな。どうする、アラン』
洋館のある方角を見ながら、ジャックはぼくの判断を促す。
この天候で作戦に少し遅れが生じることを想定していたが、思いの外順調に事が運べたので時間には十分余裕がある。彼の言うとおり、ぼくらの装備なら多少強引な手を打っても差し支えはないだろうが念には念を入れた方がいい。
『いつも通りでいく。チャーリー、監視の目は』
『とっくに映像はすり替えてあるよ。ここら一帯じゃ、おれたちは亡霊さ』
『さすが。とはいえ今回は自律型の機兵が相手、感知の精度は高い。注意してくれ。さっそく移動開始だ』