背信者Ⅹ
怪物の機体が紙吹雪のように砕け散っていく。
ぼくは怪物へと駆け寄り、ニューストレムを拘束していた脚の関節をナイフで断つと、物理法則に従って落下する彼女をすかさず抱きしめて、舞台へと転がり込んだ。
彼女を横たえてから、ぼくは舞台から背後を振り返り、無残にもバラバラになったクモの怪物の上半身が、光とともに消え失せていく光景を見届ける。
やがて機能が完全に停止したあとで、彼女は目を覚ました。
「大丈夫かい」
「……ええ」
差し伸べた手を彼女がつかみ、ぼくは引き上げる。幸いにも、彼女は深刻な怪我を負っている様子はない。
「あれ、は」
半壊した怪物を見て、彼女は訊ねた。
「厄介な相手だった」
彼女は困惑した表情で苦笑すると、ぼくの脇腹を見るなりぎょっとして、
「はやく手当てしないと」
慌てふためく彼女を手で制して、ホールを見渡す。赤熱したパイプが落ちていたために、ぼくはそれを拾い、脇腹に押し付けて止血した。
その様子にニューストレムは両手で口元を隠した。
「大丈夫。痛みは感じないんだ」
と言ってぼくはパイプを放りやった。
「そういう問題じゃ,,,,,,」
「失礼だけど、ライラ・ニューストレムさん、であってるよね」
コンタクトで彼女を捉えたとき、骨格と動作認証がデータベースにある彼女の記録と一致したが、ぼくは念のためにたずねた。
「え、ええ」
彼女はためらいがちに首肯する。
「私は捜索対象になってたの」
「ああ」
ぼくは頷いて、
「セキュリティにまるで引っかからなかったから、ずいぶん苦労したよ。どうしてこんなところにいるんだい」
「追いかけていて、気づいたらここに」
「いったいなにを」
「それは……」
彼女は顔をこわばらせて、言い淀んだ。
「ひとまず機関に戻ろう。ここは危険だ。またいつ襲われるか分かったもんじゃない」
「待って」
歩き出そうとしたぼくに、彼女は声を張る。
そして、震えた声で、こう言った。
「私は戻れない」
ぼくらを取り巻く空気が凍り付いていく。どこかで遠くの方で、反響音が鮮明に聞こえた。
ゆっくりと振り向き、肩越しにニューストレムを見た。
「それは、どういう意味だろう」
ぼくは微笑んで、そう尋ねた。
彼女の瞳に込められた力強さ。その虚勢の裏に宿っていたのは恐怖だ。わずかに乱れた呼吸に、握りしめたそのこぶしは小刻みに震えている。
彼女に感づかれないよう、右手で握っている拳銃の撃鉄を起こす。
「私は機関には戻れない」
「君の自宅にあった、あのバッヂと関係があるのかい」
「……ええ」
「つまり君は」
ぼくは体ごと、彼女の方を振り向いた。
「宗教派だと、ぼくらの敵だと認識すればいいのか」
彼女は顔をゆがませてたじろいだものの、顎を引き、ぼくをにらみつけるように言った。
「違う。私は、宗教派じゃない」
「なら、どうして」
「自分でもうまく説明できない。だけど」
「あいつらのしたことが正しかったって」
「そうじゃない」
必死に否定しようとする彼女の透き通った声は、今にも消え入りそうだった。
「正しいとか、間違ってるとか、そんな単純な話じゃないの。根本はもっと複雑で、どうしようもない」
「話が見えないな」
「ごめんなさい……。今はうまく説明できない。でも、このままだと大変なことになる。それだけは確か」
「あれも君の言う、大変なことか」
そう言ってぼくは怪物の残骸を指さした。
彼女はそちらに目を向けたあと、ためらいがちに頷いて見せる。
「教えてくれ。いったいこの都市に何が起きてる」
「それ、は」
両肩をつかんで迫ったものの、顔をうつむかせて言いよどむ彼女に、ぼくはため息をついた。
果たして、これは演技なのか。
彼女が宗教派である可能性は捨てきれない。けれど、正義がどうの理想がどうのと、大仰な演説を口にする連中とは、彼女はどうにも異なっていた。
「申し訳ないけど、ぼくらには君を無事に連れ帰る義務がある。気持ちを落ち着かせてからでいいから、話を聞かせてほしい」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
半ば強引に彼女の手を取って出口へと歩き出そうとしたとき、さっきの戦闘で裂かれたのか、ポケットの裂け目からなにかが滑り落ちて、舞台の上を小さくはねた。
「これ……」
わずか数センチほどの、プラスチックで出来た薄っぺらい直方体。身分証だった。
彼女はそれとぼくを恐る恐る見比べるようにしてから、屈んで手に取った。
「ありがとう」
礼を言ったものの、彼女は屈んだまま、一向に動こうとはしない。
不審に思い、彼女へと歩み寄ろうとした。
「アラン・シエンツィア」
ぼくには視認できないが、身分証に触れている彼女には、指向性データの羅列が眼前に描き出されているはずだった。おそらくそれに刻まれたぼくの名を、彼女は読み上げたのだろう。
「あなたが」
ぼくを見上げる彼女の表情は、さきほどとはまるで変っていた。
「見つけた、ようやく」
立ち上がった彼女は、ぼくを見据えてそう言った。
「見つけたって、どういう」
「ずっと探していたの。あなたなら都市を救えるかもしれない」
鬼気迫る様相で彼女はぼくに迫る。
声を張り上げたのは、そんな彼女の様子に思わず後ずさりしてしまったからだ。
「ふざけるな」
「ふざけてなんかない」
彼女は声を張って喚いた。
「とにかく、私と来て」
「冗談言うなよ。ただでさえ君は」
「おねがいだからっ」
焦燥と憤然が込められた彼女の声がぼくを黙殺した。呼吸すらもはばかられる、鬼気迫る相貌。突如としてスポットライトが彼女にあてられたかのようだ。
「ぼくを探していたって、そう言ったな。どういうことだ。ぜんぶ説明してくれ。君が消えた理由も、あのバッジのことも、あの怪物の正体も、なにもかも」
意志が込められた彼女の眼光が、動揺するぼくを射抜いた。けれど、ぼくも引くわけにはいかなかった。
そうしてにらみ合ったまま、しばらくの沈黙を置いたものの、彼女はその瞳に刻まれた決意を揺るがすことはなかった。
なぜかは分からない。しかし、このまま彼女の眼を見つめていたら、気が狂いそうだった。
なす術もない。お手上げだ。
そんなときだった。
ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。
それは観客席の方からだった。
静寂の霧を払いのけるかのように、乾いた拍手の音が1つ、ホールに響き渡る。
その音にいざなわれるかのように、ぼくらはゆっくりとそちらを振り向いた。
なにかの回路がまるで命の灯のように点滅している半壊した怪物の、さらに向こう側。
観客席のシートにたった1人、足を組んで座っていた。レインコートに覆われたその表情は、何1つ読めない。落ち着き払った様子で両手を打ち鳴らしていた。
「あいつ……」
ぼくは恐る恐る彼女を見る。
彼女はというと、目を見開いたまま、じっとそれを見つめていた。
相変わらず奇妙なカーテンコールが鳴りやむことはない。
あるいはこれが演目であれば、その拍手は何の変哲もない賛辞だ。けれど、今この場において、ぼくにとってそれはあくまの嘲笑にしか思えなかった。
いつからそこにいて、いったい誰なのか。なにが目的なのか。
あいつはすべて見ていたのか。あの気味の悪い怪物との戦闘も、彼女とのやりとも、すべて。
渦となり暴れまわる思考に、脳はせわしなく処理をするものの、体は一向に言うことを聞かない。じっと濃い闇を見つめるだけだ。心臓は悲鳴を上げ、額に汗がにじむ。それは隣にいる彼女も同じようだった。
そんなぼくらをよそに、悪魔は嗤い続ける。そいつはいつまでも両手を打ち鳴らした。
そしてニューストレムは恐怖を必死に押し殺そうとした、震えた声で、
「あれが、あいつが、この都市のすべてを」
その言葉の続きを聞くことはなかった。
崩壊した怪物が眩い限りに発光したかと思うと、ぼくは爆風によって壁に叩きつけられていた。鼓膜は耳鳴りにやられ、視界は煙の波が黒く塗りつぶされた。
そして意識を手放した。
◇ ◇ ◇
どれほどの時間が経ったころか。
遠ざかった感覚が少しづつ戻ってくる。
脈が鼓動し、指先が息を吹き返す。わずかに開いた視界で、誰かが駆け寄ってくるのが分かった。なんとか意識の糸をつかみ取ったぼくは、現実へと引き戻された。
「生きてるか」
「ジャック、か……」
拳銃を構え、辺りを警戒する彼がぼくを見下ろした。
「さすがにしぶといな。どうだ。地獄のバカンスは」
「悪くなかったよ……。どれぐらい経った」
「爆発があってから数分ってところだ。飛んできたら、このありさまだ。ったくお前はイベントが絶えん奴だな」
あきれ果てたように言った彼は、ホールを見渡した。
「早いとこ脱出するぞ。このままじゃ、がれきアートの一部になっちまう」
そう言うと同時に、観客席側の方で天井から照明器具の雨が降り注ぐ。うつぶせに寝そべっていたぼくに強い衝撃が走った。
ジャックに支えられ、かろうじて立ち上がった。あれほどまで美しかったホール全体は激しく燃え盛り、天井の一部が落下して、荒れ放題に散乱していた。
「いったい何がなんだか。目も耳も使えなくなったと思ったら、お次はこれだ」
おどけた口調とは裏腹に、彼の表情は真剣そのものだ。
「不審なやつをみかけなかったか。ここから出て行ったはずだ」
無人の観客席を見渡しながらたずねた。
「いくらなんでも紳士淑女がこんなところにいるとは思えんがな」
と肩をすくめた。
「何があった」
ジャックの支えを払いのけ、ぼくは出口へと向かう。
「あとで説明する」
「何か当てでも」
「ニューストレムを探してくれ。まだここにいる保証はないけど」
「いたとして、これじゃ生きてるかどうか怪しいぞ」
「彼女はこの最高な事態について、確実になにかを知っている重要参考人だ。とはいえ、危険だと判断したらすぐに離脱してくれ」
返事をよこす代わりに、彼はひらひらと手で追いやる仕草を見せた。
体を引きずりながら、扉を押し開けてホワイエに戻ると、そこはさっきとなに一つ変わらない、芸術的な世界だった。
2階の大きな窓から見下ろすと、劇場前にはすでに野次馬が取り囲んでいた。
私服の青年、スーツ姿の女性。をスクープを逃さんとするマスコミ関係者に、困惑した表情で誰かと通話をするビジネスマン。
しかしその群れの中に、奴の姿はなかった。
『大尉、ご無事ですか』
ウィリアムからだった。
『ああ。今どこにいる』
『劇場の正面口の方に』
群衆の最後尾にいた彼が顔を上げ、こちらに向かって会釈する。
『正面玄関はご覧のとおりです。脱出は裏口からの方が賢明かと。それと、お伝えしたいことが1つ』
ウィリアムは矢継ぎ早に続けた。
『新都製薬の社長が自殺しました』
ぼくは目を閉じ、ため息をつく。
このタイミングで自殺。
ありえるはずがない。
『大尉からの言伝を受ける前、新都製薬本社にたどり着いたと同時でした。おそらく、すぐにでも大々的に報じられると思われます。申し訳ありません。自分がもっと早く向かっていれば……』
『ウィリアム、いつ頃ここに着いた』
ぼくが絞り出した声に、彼は少し呆気にとられながらも、すぐに答えた。
『5分ほど前です』
『中からだれか怪しいやつが出てこなかったか』
『いえ。そのような人物はいなかったかと。なにせこの人だかりですから』
すぐさま同時に、回線でチャーリーを呼び出す。
『裏口の方は』
『いや、見てないけど……。いったいだれを探してるんだ、アラン』
『レインコートに身を包んだやつをね』
『レインコート、ですか』
回線を切ろうとしたぼくを止めたのはウィリアムだった。
『もしかしたら、野次馬に混じって劇場を眺めていた方でしょうか。本日のプログラムは雨の設定ではないはずなので、不思議に思って』
『本当か』
『ええ。自分と入れ替わりにどこかへ行ってしまいましたが。去り際に、愉快そうに口笛を吹いていたのですが、それが妙に印象に残っています』
あきれたようにチャーリーはため息をつく。
『こんなときに、のんきに口笛ね。そのユーモラスあふれるお方は、いったいどんな素晴らしい曲を吹いていらっしゃったの』
『近頃街中でよく聞く、古いクラシックです。タイトルはたしか……』
『“新世界より”』
それを正確に発声できたかどうか、定かではなかった。
『そう、それです。それの第2楽章、だったかな。よくお分かりですね。そのレインコートの方も、それを吹いていました。大尉がお探しなのは、その人ですか』
『……いや。もういい。すぐに撤退しよう』
『了解しました』
ぼくは回線を切った。
外の熱狂が遠ざかっていく。感覚という感覚が消失し、音のない漆黒だけが取り残された。
あれが、あいつがこの都市のすべてを―
すべてを狂わした。
彼女の言葉の続きは、きっとこうだ。
機関が総力を挙げて調べているにもかかわらず、神秘の天蓋の陰に隠されたままの平和の象徴。「空想の産物ではないか」と、いつしか一部の間で疑念は渦を巻いた。「人々が生み出した、実体なき恐怖」だと。
ぼくはもう一度、野次馬の方にゆっくりと視線を向けた。無駄な行為だと分かっていても、なお。そこには残像すら残されてはいなかった。
ふと過去の惨事が引きずり出された。
あの業火が、あの悪夢が、はたして人々が生み出した、幻想の恐怖だったのか。
けれど、ぼくに刻まれたあの記憶は、まがい物などではない。
ぼくは、あいつを知っている。
たしかにあの日、レインコートに身を包んだそれはいた。
死の淵で立ち尽くしていたぼくの前を、雨上がりの街で嬉々として家路をたどる子供のように、それはしぶきを上げながら血だまりの上を横切った。
それが吹いていた曲は、ドヴォルザークの「新世界より」の第2楽章だった。