背信者Ⅴ
厄介なことに、死を前にして悲痛の情を咲かせた相手の顔は、潜在意識の中にしっかりと刻まれていて、ふとした瞬間にその罪は姿を現す。それはやがて肥大化し、宿主をも食らう悪魔となる。
そして時代は巡回者を筆頭に変貌を遂げた。
眉間に穴をあけられる不安。
心臓を打ち抜くストレス。
一部の戦闘を避けられない職種に従事する者は、それらをクローラーによって抑制される。痛みを感じることはなく、機械的に敵を処理できる。人類は感情に打ち勝つことが出来たというわけだ。
もっともこの偉大さを実感するのは一部の人間のみではあるけれど、それでなくともクローラーによって、あらゆる決算は手の甲を機械に添えるだけで済み、病は早期発見、完治される。交通機関1つを利用するのにだってクローラーがないと面倒だ。
それでもなお、未だに都民の3割ほどが投与を拒むのは、人工物を体内に埋め込むことをよしとしない宗教的理由によるものであったり、自由を謳い監視社会を敬遠する若者たち、あるいは先進的なテクノロジーに疑念を抱く老人など、様々な思想が起因していた。
機関がデバイスの投与を強制することも不可能ではないが、そうしないのは自由を尊重するアステリアの意思であるから。そう断言できればいいのだが、最大の理由は実に現実的だった。
都市で知らない者などいない、最大手メーカー「HRI」社の会長を務めるシュタイン氏は、筋金入りの保守派として有名で、インタビューの記事では必ずと言っていいほどに「行き過ぎた科学は身を亡ぼす」とクローラーを含むAI技術についてしきりに苦言を呈していた。
メディアに一切素性をさらすことのないミステリアスな様もまた、批判を恐れず時代に逆行し続ける彼の言動が若者を中心に羨望の対象となった要因なのかもしれない。
「1つ聞きたい」
バーナビーは頷く代わりに眉を吊り上げてみせた。
3年前に10区で起きた事件。そして今回の失踪事件。ニューストレムは失踪前に生命管理局が公表しているクローラーの普及率を示した統計グラフを集積していた。それも数十年分という大量のデータを。
その用途は分からない。
確かなことは、3年前に新都製薬の男性社員は彼女と同じようにデータを集め、その結果用水路で溺死体となって発見されたということ。
「新都製薬は利益のためなら人殺しも厭わない輩か」
多少の動揺。あるいは、警戒。
そのどちらも示すことなく、情報屋は軽く眉をひそめただけで、しばらく考えるそぶりを見せたあと口を開いた。
「虚言を肴に酒をたしなむ趣味はねえ。が、まあ明日の朝刊の一面を罵倒で飾るような偉業を成し遂げたって、驚きゃしない」
いつ信用が失墜してもおかしくない企業。
彼の回答はつまるところ、そういうことだった。
不意に「緊急回線」という文字とともに視界が深紅に染まり、強制的に通話モードになった。
『5区にいる。すぐに来てくれ』
ハンスからだった。
『なんかあったのか』
『セントラルの店が1軒吹き飛んだ。詳しいことはまだ分かんねえが、ただの事故とは思えねえ』
反射的に拡張現実でモニタを呼び出し、報道番組にチャンネルを合わせる。情報局の主要報道をざっと見分けるが、情報はまだ入っていないようだった。
視線でジャックに合図すると、彼は頷いて席を立った。
「パーティーの知らせでも」
頭の後ろで両手を組んで見下すバーナビーをよそに、
「またな、情報屋。次会うまで捕まらないようにしとけよ。感動の再会が檻の中じゃあ決まりが悪い」
「言われるまでもねえが。そんな未来が来ないことを祈ってろ」
軽口をたたいて彼が外へと向かったあと、ぼくは端末をバーナビーに突き付け、
「口座番号だ。今後もあんたを頼るかもしれない」
「へえ。そりゃ光栄だ。なら初回は無料サービスにしといてやる。さっさとあの姉ちゃんを見つけ出してやるんだな」
「ああ」
端末を操作すると、宙に描かれた1枚の絵が収縮し、線となって画面へと吸い込まれていく。
「それにしても」
立ち上がろうとしたぼくに、まるでひとり言のようにつぶやく。
「王さまの臣下とあろうものが、クソッタレの情報屋と関わり合うなんて世も末だな。俺の記憶の筋書き上、あんたらは平和と協調性をこよなく愛する正義の味方。そんな役回りだったはずだがな」
テーブルの一点を見つめていた彼の様子には、さっきまでの人を食ったような態度は消えていた。
「ざんねんながら、主役を取り逃してね。残ってたのは、悪い奴を懲らしめるために悪魔に魂を売る類。典型的な汚れ役だけさ」
「毒をもって毒を制す。どこまで行っても冷酷で現実的。気分はまさにダークヒーローってな」
「理想を振りかざすだけじゃ、平和は来ない。それが現実って台本だ。だれもが望むようなハッピーエンドは童話の中でしかありえない」
そう言って立ち上がると、彼はあきれ果てた様子で罵った。
「どこのどいつだ。そんな三流の脚本を書いた大馬鹿野郎は」
「なんでもその脚本家は、神って名前らしい」
苦笑するバーナビーに、ぼくは出口へと歩きだす。
「またのご利用を」
どうすることもできないものを前にして途方に暮れたような、そんな声。
ぼくは振り返ることなく店を後にした。