背信者
16区南部、ウェルテクス。
活気あふれる歓楽街から少しそれた場所にある、低所得者の集う貧民窟。雑多なビル群に囲まれ日の届かない暗い道は複雑に入り組み、ちょっとした迷路を形成していた。
飲料水の容器の破片にすり切れた衣類が散乱した幅の狭い道、暗がりで壊れかけた自販機が不規則に点滅していた。
「相変わらずだ。ここは」
ジャックは顔をしかめて言った。
「おっ」
声を上げたジャックにつられ、ぼくも前方の闇に目を凝らす。
奥から現れたのは機関の偵察機だった。
暗闇でレーザーサイトを泳がせ、モーターの独特な駆動音を静かに響かせている彼らを見ると、まるで気味の悪い生物のように思え、無意識に身構えてしまう。怪しげに赤く光らせた目をぼくらに向けると、偵察機はゆっくりと近づいてきた。
「頼むから撃ってくれるなよ」
ジャックは間延びした声で軽く両手を挙げる。
しばらくぼくらの前で左右に揺れながら飛んでいたが、満足したように、今度は別の角を曲がり闇へと消えていった。
「おっかねえな、ったく」
メッシュの髪をたてがみのように逆立てている彼が眉間にしわを寄せてぶつぶつと呟く様子は、スーツを着ている今はまだしも、下手をすればガラの悪いゴロツキにしか見えない。
「どうしたらこんな物騒なとこに住もうなんて発想になんのかね」
「まあ、ここは自由だから。ある意味では」
「あんな冗談みたいな〝蜻蛉〟が飛び回ってんのにか」
機関の所有する自律駆動偵察機の一種。
〝鳥〟とは異なり高度からの監視は不向きなものの、機動性の点で大いに勝っている。尾の先端が銃口になっていて、ぼくらの使用する兵器と同様、レーザーが射出される仕組みだ。戦闘用、というよりは犯罪の抑止を目的に運用されていた。
「そんなことぼくに訊かれても困る」
「まさに異世界ってな。こんなとこが都市でいちばんの多文化社会を築いてるってのは、皮肉なもんだ」
たしかに彼の言うように、ここはまるで別世界だった。
本来溶け合うはずのない雑種多用な文化的要素がモジュールとなり混ざり合うことで、ある種の調和を生み出していた。
どこの地域の言語かも分からないような言葉が壁に、看板に、ありとあらゆるところにあふれかえっている。視界にそれらが入る度に翻訳され、さらに道標を示してくれる拡張視は、さながらアリアドネの糸だ。
そんな混沌とした迷宮の最深部に、ぼくらの目標はあった。
ひどく寂れた通りに面した、小さな西洋風の建物。塗料ははがれ落ち、くすんだ色をしている。ただでさえ暗いというのに、雨よけの合成樹脂できた半透明のアーチが通路を覆っているせいで、ますます辺りは暗鬱としていた。
「ここか」
事前にマップ上でピンを打っておいたため、コンタクトを通して見る建物は、光の波にコーティングされ、他と区別がつくようになっていた。
近づこうとした瞬間、緑がかった青色をした結界のようなものが、足下からせり上がり、視界いっぱいに「立入禁止」の警告がコンタクトによって投射された。
公安の電子障壁。1度目は警告、2度目は電流に身体を焼かれ、しばらくの間意識を失うハメになる。
ジャックの方を見ると、彼は肩をすくめてみせた。ぼくは右足を引っ込め、代わりに回線をつなぐ。
『障壁破りを頼む』
2秒後に『オーケー』と返事が返ってきてから、再び足を出すと「ID確認。お通り下さい」と表示された。
「さっすが天才クラッカー」
全然誠意のこもってない口調のジャックはぼくを横切って低い階段を上がる。
「ちゃっちゃと済ませますか」
誰にいうでもなく彼は呟き、ドアに手をかけた。
ぼくはふと横の壁に目をやる。
神はいつもそばに
薄汚れた壁に蛍光塗料のようなもので、そう書かれていた。
ぼろきれのような服を纏い膝をついて神に縋る様子がいやに生々しく想起される。ここで祈りを捧げた憐憫な人間は、果たして救われたのだろうか。いや、考えるだけ無駄かもしれない。
「おい、アラン」
ぼくは視線を戻す。
在りもしない存在に縛られ、賢明に頭を垂れる信徒たち。
まるで呪いだ、とぼくは思った。
◇ ◇ ◇
〈3日前、生命管理局の職員が失踪しました〉
彼女は単刀直入に切り出した。
招集されたぼくらを会議室待ち構えていたのは、生命管理局の最高責任者、ガブリエラ・ヴィンカート局長だった。
ナノスクリーン越しとは言え、まずお目にかかることのない予想外の来訪者にぼくらは違和感を抱きつつ、作戦室中央の長方形のテーブルを囲むように席に着いた。
〈名前はライラ・ニューストレム25歳。ソルキア大学を飛び級で入学し、5年前に生命管理局の医療技術群に入局しています〉
テーブルから光の筋が延びて空間に浮かび上がったのは、とある人物のプロファイル。
ウェーブのかかったショートボブのアッシュ。万人が振り向くほどではないが、整った容姿で、可憐というよりは凜々しいといった印象だ。
〈彼女は3日前の午後10時43分、16区のウェルテクスにいたことは確かです。それを最後に、彼女の巡回者の位置情報は消失しました〉
位置情報の消失。
手の甲、クローラーの核をえぐり出したのか、あるいは。
「ウェルテクス。ずいぶんとまた物騒なとこに」
人ごとのようにジャックは言った。
「事件当日までの彼女の行動記録は」
ウィリアムは律儀に挙手をしてから質問する。
〈それは公安局の刑事課の方で既に。後ほど、データをそちらへ送ります〉
「となると、この件はオレたちが引き継ぐって事ですか」
大佐相手にも砕けた口調のハンスが、場の空気を読み敬語を使っているのがどこかおかしかった。
〈引き継ぎではありません。公安局の方でも同時に調査を行っていただくつもりです〉
「それで、この美人さんは、人に言えない裏の顔でもあったんですか」
ニューストレムのデータを眺めていたチャーリーが尋ねる。
〈とんでもありません。本人は聡明で、とても優秀な職員だったと耳にしています。事故か、あるいは何かの犯罪に巻き込まれたのか。それは分かりかねますが、とにかく彼女の早期発見に尽力しなければなりません〉
だった、か。
この件の事態のおおよそは把握したものの、1つだけ、訊ねるべき謎を彼女に問う。
「先ほどのヴィンカート局長のお話から察するに、公安局が既にある程度の捜査を展開している。そう捉えたのですが、まちがいありませんか」
〈ええ。事件が発覚した2日前の深夜、つまりミス・ニューストレムの位置情報が途絶えた30分後、公安局に事情をお伝えしました〉
考えにくいが、クローラーの一時的な不具合とい場合もごく希にある。多少の経過観察に時間を割かれてしまうのは避けられない。その上で、彼女が何かにまきこまれた可能性が高いと判断がなされた、ということだろう。
「失礼を承知の上で申し上げますが、お話を聞く限り我々が本件に関与する要素が無いように思えてしまうのですが」
ぼくら哨戒班の本分は都市の安全を脅かすテロリストの監視、及び排除。
言葉は悪いが、現状1人の機関職員の女性が失踪したに過ぎなかった。
もちろん大事ではあるけれど、これは公安の分野であって、ぼくたちが手を出していい案件ではない。下手に顔を突っ込めば捜査の混乱を招く恐れがある。
そしてなにより引っかかっていたのは、失踪したニューストレムの所属する医療技術群の郡長が話を通せばそれで済む。にも関わらず、生命管理局のトップである彼女が直々に、こうしてぼくらと向き合っていることだ。
どうやらそう単純な事件ではないようだった。
〈それは―〉
いかにもやり手だと思わせる明朗な彼女が、言葉を詰まらせる。明らかに動揺していた。
少しの間を置いて画面越しにドアをノックする音が聞こえた。
〈局長、お時間よろしいでしょうか〉
と声が響き渡り、局長は慌てて視線をドアがあると思われる方向へと視線を外す。
すると先ほどまで一言も口にしなかった大佐がスクリーンに向かい、
「ヴィンカート局長。あとはこちらで」
〈……申し訳ありません、ケリー大佐。よろしくお願いします〉
助け船を出すかのように進言した大佐に、彼女は忍びない表情で言った。
そして映像が途切れ、真黒だけが取り残された。
ただならぬ雰囲気に、会議室に妙な緊張が走る。
ウィリアムは身体をこわばらせ、チャーリーは笑みを消して口をきつく結び、ジャックは座り直し顎を引く。普段なら自信にあふれた笑みを浮かべるはずのハンスの表情はどこか張り詰めていた。
ならず者たちを従えるマフィアのボスは見る影もない。圧倒的な威圧感を纏う、ぼくら特殊監査官を統べる者の風格。
「さて」
一層低く、そして重く響き渡る。
ぼくらは一斉に姿勢を正した。
「諸君もいくつか訊きたいはあるだろうが、ひとまずあとだ。これを見ろ」
テーブル側面のパネルを操作し、宙に浮かぶ映像が切り替わった。
「ニューストレムの部屋ですか」
「そうだ。先ほど公安から送られてきた」
続いて色々な角度、様々な物を映し出した画像が展開する。
「何も問題は無いように思えますが……」
ウィリアムがおずおずと口にする。
大佐は彼を見つめると、何も言わずに再度パネルを操作する。全ての映像が収束し、消えた。そして新たな光の線が延びる。
生命管理局局長が自ら、直接ぼくらに伝えなければならなかった理由。
線はやがて拡散し、一枚の写真が投影される。
そして全員が凍り付いた。
「彼女の自宅で発見された」
鏡のように磨き上げられたバッジ。
24年前にアステリアを地獄にたたき落としたテロリストたちのシンボルマーク。
かつて平和の象徴だったはずのそれは、いまや恐怖の記号でしかなかった。
「我々は彼女に裏切り者の烙印を押さなければならないかもしれん」
オリーブの葉の上で、一羽のハトは泰然と翼を広げていた。