符牒
静寂。
窓一つない深黒のフロア、中央に鎮座する装置の機械音、そして冷たく空虚な靴音がこだまする。
ぼくはそっと装置に触れる。すると空中にオレンジ色に発光するデジタル文字が無数に浮き上がった。死者の記憶だ。
海上都市という限られた地理条件のもと、死人は土の下ではなく、電子の海に埋められていく。複雑な計算式にも見える無数の文字列は、全て生きていたはずの名前。ポン、という軽快な音と共にまた1人、死者の行列に加わる。
背後で自動ドアが開き、光が闇を切り裂いた。振り返ると、開いた扉の前を、黒いシルエットが立っていた。影の主が三歩ほど歩み寄ると同時に扉が閉まる。そして世界は闇に戻り、デジタル文字の光だけが残った。
「おや、先客がいるとは」
声がフロアに低く反響する。容姿は不明瞭だがその声色から、物腰の柔らかな初老の紳士を想像した。
「それもまだお若い」
紳士はぼくの隣に立つ。
「ここに来る人がいるなんて思いもしませんでした」
「はは。それはこちらのセリフですな」
ハットをかぶり右手にはステッキを持って、左目にモノクルをかけている。まるで映画から飛び出したような紳士は上品にほほ笑んだ。
「ここへはよく来られるのかな?」
ぼくは少し迷ってから、はいと答える。
「たまに立ち寄るぐらいですよ」
「大切な人に逢いに」
「まあ、そんなところです」
調子を合わせるように同意すると、紳士は肯いて、
「殊勝な心がけですな」
「殊勝、ですか」
確かめるように繰り返すぼくに「ええ」と同調して、彼は装置に手を置いた。
「まだ石を削って造られた墓石が並べられていた頃は、訪ねに来る人も多かった。花を手向けにね。ところが最近は、墓参りに来られる方をめっきり見かけなくなってしまった。嘆かわしいことです」
古い映画で見たことがある。整然と並べられたオブジェの中、曇天の下で登場人物が墓石の前で花を置き、涙をこらえるシーン。
「昔と今は違う。時代の変遷、と言うべきでしょうか。以前はたしかに、生きていた証として遺骨収められていたかも知れませんが、今となってはこれだけだ」
ぼくはそう言いながら、暗闇に手を伸ばす。つかもうとしても、指の間から水がすり抜けていくように、文字は無意味に透過するだけだった。
「正直な話、この行為に意味があるのか、ぼくには分かりません」
無駄に広く、薄暗い部屋の墓石に詰め込まれ、名前だけが宙をさまよい続けるだけだ。
紳士は少し考える素振りを見せ、おもむろに口を開く。
「死者の魂を弔うのは今を生きる者の義務。そうは思いませんか」
「義務……」
「もしくは、生き死にに触れる貴重な機会なのかもしれない」
生き死にに触れる、貴重な機会。ぼくは、心の内で自嘲する。
生死のど真ん中で、ぼくは嫌というほど命のやりとりをしてきた。機関が用意した潤沢な装備で、何世代も前の銃で必死に応戦するテロリストたちの骸を積み上げる。ずっとそうしてきた。
そんなぼくに、生命の尊さなんて理解できるはずもないし、理解するつもりもない。
ぼくはいくつもの死者の名前が浮かび上がっている宙を見上げた。
「最初の質問に対する答えですが」
「大切な人に逢いに来たのか、だったかな」
「ええ。ぼくは誰かに逢うために、ここにいるんじゃない」
「では、何のために?」
輝く星々のように、死者たちの行列が闇の中でおぼろげに光る。
「今こうして話しているぼくが、はたして本当に生きているのか。ときどき、それが分からなくなる」
ぼくは少し間をとって続ける。
「こうやって死者たちの前に立って、息をして、思考している今この瞬間が、本当はぜんぶ、この墓場で死者として漂うぼくが視ている夢なんじゃないかと」
薄暗い墓場の中央で、紳士は黙ってぼくの話に耳を傾けていた。
「だから、たまにこうしてたしかめに来るんです」
ぼくが死者でないことを。
見ず知らずの他人に命を救われたぼくは、赤の他人の命を奪い続けている。なんとも皮肉な話だ。
「取るに足らない推測ですが、ひょっとして貴方は24年前の……」
「ええ。4歳の誕生日を迎える前でした」
「……」
それはお気の毒に、などと表面的な言葉をかけなかった紳士に、改めて礼節のある人だと実感する。彼は目を細め、消え入るような声で訊ねた。
「……名前は、見つかりましたかな」
「残念ながら」
漂う死者をぼんやりと眺めた。
1つ、2つと消えては、また浮かび上がる。空疎にも思えるその光景は、けれどぼくの目にはあまりにも幻想的に映し出されていた。
「すいません。初対面のあなたにするべき話じゃなかった」
紳士は少し微笑んで、
「いや、生存者の方に出会えるなんて滅多にありません。貴重なお話だった」
「そういっていただけると助かります」
「しかし残念だ」
ぼくは不思議に思い、彼を見る。
「もしここに貴方の名前があれば、私は幽霊の存在を証明する、数少ない1人となれたのだが」
陰鬱な空気を和ます彼の冗談に、ぼくは笑った。
彼は名前に視線を戻したときにはもう、笑みは消されていた。そして慎重に言葉を選び取るように、少し間を開けて言った。
「私も君と同じだ。〝聖戦〟で大切なものを失った。あのときのことは今でも時折、夢に見る」
彼はなにかを睨みつけるように宙を見つめている。
「たまたま今日は無事に過ごせても、明日がどうなるかは誰にも分かりはしない。まるで刃の上を歩くかのように、我々の存在はかくも危険な世界に、奇跡的に成り立っている」
なにかの拍子にバランスが少しでも崩れれば、世界は一瞬にして火の海と化す。
ぼくらが何気なく過ごす日常は、数え切れない偶然の上に、かろうじて浮かんでいる。
「ほんのわずかなズレ、ちょっとの変化で、世界は劇的に変貌してしまう」
「あのテロも、ほんのわずかなズレだった……」
「あるいは。そのズレが、我々の前に再び姿を現すのも、時間の問題かも知れない」
彼は墓石を指でなぞる。映画とは異なり、無機質で機械的な墓石には大切な人の名は刻まれてはいない。
「多くの場合、死者を前に抱くものと言えば、生命を全うした者への敬意か」
おぼろげに光る電光文字を見つめる彼の目は、ずっと遠くを眺めているようだった。
「あるいは、後悔か」
ぼくは紳士に尋ねてみる。
「あなたはどちらですか」
彼は何も答えなかった。
中央で鎮座する墓石は、相変わらず規則正しく点滅している。しばらくして、彼は静寂を破った。
「おっと、長居をしてしまった。そろそろ失礼させていただくとしよう」
よほど年下であるぼくに、彼は礼儀正しくハットを脱いで律儀に断りを入れる。ぼくは肯いた。
彼はきびすを返し出口へと向かう。扉が開き、部屋に大きな影が出来上がる。それと同時に靴音は止まり、彼は呟いた。
「お互いここを訪れる理由が後者でなくなることを願うばかりだ」
いずれまた、どこかで。
彼はそう言い残し、去って行った。
空中を物寂しく漂う電子コードの中に、ぼくが手をかけた者の名がいくつも紛れている。
巡回者が感情調整を行う現代で、ぼくらはPTSDなんて太古の病に悩まされる心配はない。それでもぼくは、表現しようのない感情をこうして抱き続けている。それがいったいなぜなのか、ぼくにはまるで分からなかった。
ぼくがここへ来る理由は後悔なのだろうか。
ポン。また1つ、黒い海に漂浪者が加わる。
虚ろに漂う命を手の平に乗せてみても、魂の重さは感じられなかった。