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真昼の月  作者: 種神孝
1/1

weed

動かない身体とは裏腹に、頭に浮かぶ光景は発色よく鮮明だった。

降りそそぐ強い日差し、乾ききった暑さとスコール。こびりついた硝煙と鉄の匂いを打ち消すように充満する甘い香り。

頭のなかをそれらが埋め尽くすように回り続けることに疑問はなかった。人生の大半を生きるために生きてきた彼女が手にしてきたものは限りなく少なく、意識を占領しているものはそれらを打ち消すのに十分な強さを持っていた。

ただ少ないながら手にしてきた思い出は彼女にとってかけがえのないものであり、またそうであることを望んでいた。

灰色の天井を見ながら彼女は最後の抵抗を試みる。

運よく天井の判子を押したような丸い染みが彼女の脳を刺激し、意外なほど簡単に彼女は戦いに勝利した。

乾いた暑さはまとわりつく湿気に変わり、記憶にこびりついて落とせなかった甘い香りを煙草の残り香が包み込む。

長年自分を締め付けていたものがほぐれていくのを感じ、過去に勝利した充足感を感じながら彼女の意識は深い闇に沈んでいった。




人数分のビールがテーブルに届き、ジョッキをぶつけ合う音とともに会は始まった。

警察学校で肩を並べて学んだ同期達が一堂に会するのは実に五年ぶりのことだった。

「どうした進藤。酒が全然酒がすすんでいないじゃないか」

熊野が名前負けしない胸板の厚い体を僕の横におろすと古びた木張りの床は悲鳴のような軋みをあげた。

「そんなことはないよ。いつもと変わらないペースだ」

実際、普段通り乾杯のあとはジンジャーハイと梅酒のロックを繰り返し飲み続けていた。格段早いペースでないが、繰り返しは四週目に突入しようとしているから一般的な基準からしたら充分な速度ではあるだろう。

「むしろ土井達がおかしいんじゃないかな。あいつはそんなに飲める方ではなかった気がしたけど」

線が細く少し垂れた目が優しさを醸し出している土井は一見警察官には見えない。大卒で浪人に留学も経験している彼は同期の中でも落ち着きを持っており、自ら酒を飲んで場を盛り上げるよりも、店員を呼んだり、空いたグラスに酒を注いだり周りに気を配るたちだったが、今日はグラスを片付けるよりも増やす側に回っているように見える。

しかし酒が進んでいるのは土井だけではない。体力のあり余った若手の警察官が集まるから場が温まるにつれアルコールと声量が増えていくのは通例だが、皆今日は声量よりもアルコール増え方が顕著に見えた。

「まあな、お前も聞いただろう。土井にまとわりついていた女の話」

生活安全課に所属する土井はつい最近までストーカー被害を受けていた。加害者である女は元々家庭内暴力の被害者として土井が勤める警察署の相談者だった。

この女の夫がなかなかに手ごわい相手だった。大手金融機関に勤め、家庭外では愛想も評判もよい男だったが、ひとたび家に帰ると豹変し妻に暴力をふるっていた。

厄介なことにただ力任せに暴力を振るうのではなく。傷や跡が残らないようにうまく加減しており、なかなか暴力の存在を立証することができなくて事件は長引いていた。

ところがある日事件は急展開を迎え解決した。夫が出張中で留守にしている被害者宅を土井が訪ね、被害者の話を聞いていると出張が取り止めになった夫が帰宅してきた。

たまたま土井が手洗いを借りている時に帰宅した夫はリビングに入るやいなや、無駄足を踏まされた腹いせに妻に暴力を振るい始めた。悲鳴を聞きつけてリビングに戻った土井と、思わぬ闖入者に動揺した夫はもみ合いとなり、警察署に呼ばれることになった夫は、今までの手強さが嘘のように家庭内暴力の事実を認め、詳細の供述を始めた。

ここまではよかったのだ。

偶然による解決だとしても、被害者だった妻は夫の暴力から救われ、土井も警察官としての職務に一端の正義感を持てるようになっていた。

しかし、本当に厄介な問題が起きたのはこの後だった。元被害者の妻は何かと土井のもとを訪ねてくるようになったのだ。

初めは調書の裏付けのために警察に呼び出しに積極的に応じていた彼女は、徐々に呼び出しがかからずとも、警察署を、正確には土井を訪ねてくるようになった。

もともと家庭内暴力の始まりは多情な彼女の浮気が原因であるということも取り調べのなかで明らかになっており、窮地を救ってくれた若い警察官に彼女が好意を寄せていることは明らかだった。

暴力を受けたときのトラウマが消えないという名目で、毎日のように土井を訪ねてくるうえに、土井以外の署員には相談しようとしない女の存在は署内で厄介者と認識されるようになっていた。

心的外傷の治療を専門とする病院への通院を促してもうんとはいわない彼女に、署の対応としてできることは、そのうち諦めることを願って彼女と土井を接触させないことぐらいだった。

そして訪ねてきても土井に会えなくなってから五日目、女は警察署内で焼身自殺を図った。

火はすぐに消し止められ、女は病院に運ばれたため幸い大事に至らずに済んだが、警察署内で起きたセンセーショナルな事件として大きく話題になった。

世間では虐待被害者の心情を考えない警察側の横着した対応だったと非難が高まっていた。

「結果的に付きまといの被害が終わったことだし土井にもよかったんじゃないか?」

僕がそういうと熊野は眉を顰め、顔を寄せてきた。

「お前聞いてないのか?土井は異動になった」

思いもしなかったことを聞かされ、口に運ぼうとしていた唐揚げが箸からこぼれ、畳を転がる。

それを拾い上げ口に突っ込む熊野に向かって口を開く。

「初耳だよ。あいつまだ今のところに来て一年も経っていないじゃないか」

繁華街を管轄に持つ大規模所轄に配属されて意気込んでいると聞いたのはつい最近のことだったはずだ。通常の異動は短くても三年毎のスパンであり、一年とたたず再び異動辞令を受け取る例はあまり聞いたことがなかった。

「ストーカー騒動の発端として責任を擦り付けられたらしい。辞令を受け取るとき直接人事課の人間から皮肉られたそうだ」

「責任ってなんのことだよ。依存体質のストーカー女を制御できなかったことが落ち度になるのか?」

「上はそもそも土井が被害者を自分に入れ込ませるような行動をとった事を問題視しているらしい。結果的に事件解決に繋がりはしたが、単独での被害者宅訪問なんかはスタンドプレーだってことなんだろう」

片手でおしぼりを玩びながら淡々と話す。

「大きな騒ぎになったことだし、わかりやすいところに責任を負わせて早く終わらせたいんだろう」

基本的に単独行動をよしとしない警察の規則を考えると土井の行動は問題ありとみなすことはできる。

ただ都内の繁華街を管轄に持つ警察署が日々対応を迫られる仕事量を考えると、規則を守って、市民の生活を守らないなんてことになりかねない。

単独行動がやむを得ない状況なんて腐るほどあるのが実情である。

警察署として機能させ続けるために、自らの身を粉にして従ってきた暗黙の了解を泣き所として責任を取らされるなどたまったものじゃない。

「そうか、それであんなに荒れているんだな」

「荒れているのは奴だけじゃないさ。現場で数年も過ごせば皆何かしらの不満は溜まるもんだろう」

「そういう熊野は変わらないな。相変わらず忙しくても周りをよく見てる」

主に強盗犯や暴力犯を担当する刑事一課に所属する彼は仕事の量も相当に多いはずだ。それなのに違う警察署に勤める土井の窮状まで把握する余裕がある。多忙な日々に沈まず、広く周りを見ることができる。警察学校の頃から変わらない彼の凄いところだ。

「警察官なんて、死ぬほど忙しくて苦しいんだろうとずっと前から考えていたからな。実際その通りで自分が変わっていく余裕もないだけだ」

そう言うことができることは彼の強さなんだろう。土井や今の僕には口裂けても言えない台詞だ。

宴もたけなわ、店を出る時間となった。自分を追い込むかのように酒を入れ続けた土井は一人では立ち上がることもできず、結局同じ独身寮に住む男につれて帰られることとなった。

「警察はクソだ!あの女もだ!俺だってクソだ!」

タクシーにぶち込まれるまで延々わめき続ける土井を見て誰かがいった。

「警察を一番嫌いな奴らといったら、間違いなく警察官だな」

他の皆が苦笑いを見せる中、顔を強張らせる俺は、一人暗い家路を急ぐことしかできなかった。


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