短編
何度も意識が飛び、倒れかけた。その都度、自分を鼓舞し、前へ進んだ。ほとんど気力で走っている。
走っているのか、歩いているのか、判然としなかった。実は倒れていて、ただ走っているような感覚に襲われているだけかもしれない。
それでも、前に進む、という意思は貫くと決めていた。正しく表現すると、追ってきている者たちには絶対に捕まらない、ということになるが、そんな瑣末なことはどちらでもよかった。
丸一日、寝食を忘れて走っているのだ。右も左も定かではない。自分がどこへ向かっているのか見当もつかないまま、道なき原野を草を掻き分け駈け続け、丘を越え、川を渉り、野生の動物に紛れながら森林を潜ったりした。
すべては、追捕の手から逃れるためである。
到底、容易に理解できることではなかった。男は憤懣した。なぜ、という気持ちがふつふつと湧き上がってくる。考えるたびに、叫び声を挙げて、眼に映るものを手あたり次第に破壊したくなる衝動に駆られた。
かつて男が一地方の守兵であった時、上官の不正を見咎めたことが契機で、疎んぜられるようになった。ひとつ、悪の芽を見つけると、次々にそれが眼に入ってくるようになった。赴任してきた司法官が、銭のために不当に罪なき者を処断しようとしたとき、感情の昂ぶりを抑えることができずに、激しく反撥し、天下の衆目の知るところにするべきだ、と言った。結局その事実は揉み消され、自分は危うく首が飛ぶところだったが、同僚が必死に上申してくれたおかげで、辛うじて罷免で済んだ。営舎を去る時、多くの同僚や上官からまるで気狂いでも見るような冷ややかな視線と嘲笑を浴びた。全員叩き斬ってやろうか、という思いを押し殺してその場を去った。
しばらく流浪した。木の根を枕にし、土草に起居した。それでも、苦しいとは感じなかった。自分の信念に則っての行動の結果であり、誇りこそあれ、敗衄した、という思いなど、微塵も感じなかった。少なくとも、衝突を怖れ、安定を望み、組織や社会を構成する道具となって、自己を殺して他人に倣えする人生よりは、ずっとましだった。
義勇兵を募集している。ある兵士にそう言われたのは、流浪をはじめてから一年経ったころだった。その言葉を聞いた時、男は忘れかけていた感情を取り戻し、爛漫たる血気が全身を巡った。義を樹てる、というその言葉は、全身をわななかせ、毛穴から熱気をほとばしらせるのに充分以上の効果があった。
世は乱れかけているのだ。弱者が虐げられ、一部の者が私腹を肥やし、さらにその事実が隠匿されているという実情が支配しつつある世間を、その毒する悪を取り除こうというのは、ごく自然に発生する心情だった。男も例に漏れず、そういう働きが体内で錬成され、循環した。男として、当然のことだった。
世の中の役に立ちたい。正義の名のもとに生きたい。その想いが男の躰中を馳せ巡っていた。
燦然たる希望を胸に、甘言を信じ切って入隊した義勇軍の内情は、理想とは大きく離れていた。
百人を越える隊員のほとんどは堕落していて、とても世を救おうという気概は感じられなかった。いくらかの兵士は兵士としての態を成しておらず、博奕に興じたり気ままに女を抱いたりと、その場限りの快楽に耽溺していた。そして一番男を失望させたのは、その義勇軍が民を襲い、食糧などを掠奪していることだった。みな、掠奪に対してつまらない言い訳を重ねていた。
男の怒りは簡単に度を超えた。このような腑抜けた隊など抜けてやる、と毅然と言い放った。言い訳を連ねて引き留めようとする隊の副長を投げ飛ばし、脱走した。
その時不在だった隊長が男を草の根を分けて探しているということを知ったのは、脱退してから一刻も経たない時であった。隊の中で比較的仲の良かった者が、心配して報せにきてくれたのだった。
死は怖くないが、つまらないことで死にたくはなかった。
霞んだ眼を擦り、視線を地平へ飛ばした。小さな丘陵が、地平から頭を出していた。徐々に近づくにつれ、それが丘陵ではないことがわかった。城郭の城壁だった。
門が見えた。前のめりに倒れるようにして、門へ跳び込んだ。
「どうした、なにかあったか?」
門番が顔を覗き込んできた。
「賊が、追ってきます」
男は息も絶え絶えに、叫ぶように言った。
「賊?」
「数はおよそ百。もう半刻もすれば、城郭までやってくるでしょう」
「そんな報告は聞いていないぞ」
「それはそうでしょう。近郊の街道から湧いて出たわけではありません。二十里も向こうからわたしを追ってきたのです」
「待て、話がわからん。おまえを追ってきたと?」
「とにかく、賊を撃退してください」
「そういわれてもな」
膝に手をつき、下を向いて肩で息をする男の背中を、門番は心配するようにして手を添えた。
問答は、終わりが見えそうにもなかった。ただ男には懇願することしかできなかった。
隊長は副官を連れて城郭へ戻ってきた。
新兵の調練の後だった。普段は、城郭付近の哨戒や城郭内の治安の維持を任務としているが、その本来の任務のほかに、都の総本部から送られてくる新兵を調練する役目を定期的に負わされている。耳に挟んだところによると、ここで調練を受けた兵は、他の部署にいる兵と各段に動きが違うという評判だった。その話を耳に入れるたび、誇らしい気分になる。軍人であることの誇りを、認めてもらっているようなものだからだ。
名声や功利を得ようと思ってやっていることではない。しかし、自分のやっていることが、正当に評価されていないという口惜しさを感じる時もあった。何度か、都の高官に阿っているのではないか、昇進のためにご機嫌取りをしているだけではないか、と他人の口の端にのぼったこともある。そういう風分は、唾棄した。自分のやっていることの正しさを理解しているのは、自分と自分を信じている者だけでいい。もともと、兵を育てるのが好きでやっていたことだった。
「今回の新入りは、なかなか肚が据わっているな」
「鍛え方次第では、化けると思います」
「久しぶりに、鍛え甲斐のある者が送られてきた。それだけでも、わたしは胸が躍る」
「どう育つか、成長が愉しみですな」
「愚かかな、そういうことにしか悦びを感じられないことは」
「御立派です。少なくとも、中央の高官が怠惰に耽溺しているような状況とは、雲泥の差があるでしょう」
副官も、若かった。若者らしく血気に溢れ、果敢だが、決して自身の矩を逸脱しない。どこか、若い者にしては落ち着いているところもあり、気に入っていた。
西の門から城郭に入ろうとした。門の傍で、門番が男と問答をしているのを見てとった。門番がこちらに気付き、立ち居を正した。
「なにかあったのか」
門番に声をかけると、男が振り向いた。粗野だが、その眸が放つ輝きは、直視するとこちらが気圧されてしまうほどに爛々としている。
「隊長、ご苦労様です」
「問題が?」
「いえ、なんでもありません。この者が、狂言を言いふらしているもので」
「狂言だと?」
男が言った。
「狂言ではないか。百名もの賊が襲ってくるなど、にわかに信じられる話ではない。そもそも、その証拠はどこにある」
「証拠はない。だから、俺の言葉を信じてもらうしかない。だが、賊に襲われて、罪もない人々が死に、街が蹂躙されてから、まだその言葉を吐けるのか、少し考えてみろ」
「言わせておけば、きさま」
「待て、その話、詳しく聞かせてもらおう」
言うと、男はこちらを振り返った。やはり粗暴そうな印象がぬぐえない男だった。
「賊と言ったな。どうして賊がここへやってくると知っているのか、訳をきかせてもらおうか」
「俺が、その賊に追われているからですよ。やつらはどんなことをしてでも俺を探し出し、首を刎ねなければ気が済まないらしい」
すると、門番が、
「では、おまえがこの城郭から離れて、どこかで賊と討ち果たしをすればいいではないか。わざわざ街に、面倒事を持ってきて、どういうつもりだ」
「落ち着け。それでは、われわれの使命はどうなる。どんな者だろうと、救けを乞うている者を見捨てるわけにはいくまい。そのために軍があるのだ」
「なんでもいい。とにかく、早急に軍を差し向けてやつらを討ち取ってくれ。まだ近辺までは迫っていないはずだ。ここは城郭の周辺にも郊外にも、民家がある。それらの人が犠牲にならないうちに、勝負を決めてしまうべきだ」
「おまえ、先刻、賊の手勢は百だと言ったな。なぜそれを知っているのだ。追われているだけでは、何人に追われているのか把握はできまい」
「それは」
男が、一瞬たじろいだ。顔にほのかに紅色を浮かべた。
「それは俺もその賊の一味だったからですよ。もう辞めてやりましたが」
「ほう」
「信用できませんか、もと賊だったこの俺を」
「いや、逆に真実味が増したな。おまえがもし謀略を廻らせ、賊をこの街に引き入れようとするのなら、そんな披歴をしようはずもない」
賊がやってくるというのなら、任務としてそれを打ち攘わねばなるまい。持ってきた情報が嘘かほんとうかという詮索は、実際に確認してから行うべきだ。
まずは、虚実を質すべきなのだ。
「おまえ、どちらから来た?」
「北西からです。あの森の方から」
平原の先に、欝蒼と生い茂る木々が見える。男はそこを指さした。
「物見を出せ。ふたりひと組で、間隔をあけて、三組遣るんだ」
副官に向かって言った。
「よろしいので?」
「物見だけなら、なんの気兼ねもいらん。なにもなければ、それでよいのだからな。先刻調練した新兵は、どうしている?」
「いまだ、城外で待機中です」
「朝から、ものを口にしてはいまいな?」
「ええ」
「水だけ飲んで、いつでも出動できるように言っておけ。調練の成果を、実戦で試すいい機会だ」
「承知いたしました」
「出撃、するのですか」
男が叫ぶように言った。
「賊が、ほんとうにいるのならばだ」
「どうか、わたしも連れて行ってはくれませぬか」
「なに」
「わたしも、賊の討伐に参加させてください。わたしにとっても、やつらには肚に据えかねる思いがあるのです」
「……」
「お願いです。どうか、わたしも共に出撃させてください」
「しかし、きみは見たところ相当疲弊しているようだが」
「大丈夫です。まだ、力はあります」
「虚勢だな。自分では余力があるだろうと思っているのだろうが、どうもそうは見えん。それに余人が隊に混ざってしまうと、足並みが崩れる。どうしてもというのなら、城壁の上からわれわれの闘いを見ているといい」
言うと、男は口惜しそうに唇を噛んで俯いた。
「行くぞ。そろそろ、物見が情報を持ってくるはずだ」
踵を返し、そういった。
新兵の待機している場所までは、半里もないほどの距離だった。
到着すると、兵たちは小休止しているところだったが、すぐに臨戦態勢に移れる状態だった。みなほどよい緊張感を持っている。
「ここより西に一里のところが、遮るもののない平野で、民家や聚落もなく、戦場に適していると思います」
物見からの情報を元に、副官が言った。
「そうしよう。すぐに出立する」
徒歩のみの兵六十を引き連れ、移動を開始した。賊に追われて逃げてきたという男の来た森は、右手に見える。
目的の平野に着くと、すぐに陣を展開させ、賊を待った。
再び送った物見の返ってくるのと同時に、賊の姿が散見された。
「みな、心してかかれ。賊が相手とは言え、これは立派な実戦だ。気を抜くなよ」
手を上げ、指示を出した。隊長と副官だけは、馬上の人である。
闇雲に襲ってくる賊に向かって、兵が駈けだした。兵は、必ず五人一組で動くようにしている。
五人でひとりを囲み、槍や剣で打つ。それは、訓練で動きが恒常化するまで繰り返した。いまの兵は、眼を瞑っていてもそれをやるだろう。
思ったとおり、兵は次々と賊を打ち倒していった。十人ほどの賊を斃したときに、後続の賊は兵と一定の距離を保ち、さらに背後からやってくるであろう追加の賊を待っていた。
「手を休めるな。寸暇を与えず突撃せよ」
敵に、息つく暇を与えたくなかった。敵は統率の執れていない烏合の衆とは言え、それでも実戦の経験は、本格的ではないものの、こちらの新兵をも凌ぐほどのものは持っているはずだ。それらが集合し、合力した場合、決して楽な戦にはならないだろう。こちらも犠牲は覚悟しなくてはならなくなる。それは最も避けるべきことだった。
間髪入れずに、兵は一組になって突撃した。狼狽した賊が、後退していく。賊の背後は草原であり、遮蔽物がなくひらけた土地のため、こちらからは後援の賊が視認できるという利があるが、後続の賊からもこちらの陣容が丸見えになるという悪点もあった。そしてこの突撃では、その悪い部分が出てしまった。
賊の後方から、多数の賊が纏まって突進してきた。それらはかなりの勢いを擁し、さらに鳥のような甲高い声をあげながら突進してきたのだ。実戦の経験の乏しい新兵にとって、その光景は不気味であり、得体の知れない恐怖があったに違いない。すぐに、浮足立った。
五人ひと組の部隊を集め、一度ひとまとめにし、すぐにそれを三十づつの二部隊に分けた。そして中央部に人ひとり分の隙間を空けさせた。兵は混乱しかけていたが、それでも適格な指示を受けると、溌剌とした動きを見せた。左右の部隊には方陣をつくらせ、賊を迎え撃った。
馬上で、隊長は指揮を執った。兵の背の向こうに、こちらに向かって突進してくる賊の姿が見える。手を上げ、声を出した。それに応じて側近が鉦を鳴らす。兵が、整然と動き始めた。少しずつ陣形を変化させ、横に拡がった。まるで水が地形の窪みに向かって流れていくように、賊は次々と間隙に吸い込まれていく。
ある程度の賊を間隙へ誘い込むと、袋の口を閉じるようにして兵は包囲を絞り始めた。
賊は必死に包囲を抜けようと躍起になっていたが、徐々に狭まっていく圧力に耐えきれずに、すり潰されるように倒れていった。
その光景を眼前にした後続の賊は、算を乱し、虱かなにかのように四散していった。それらを新兵が追撃し、確実に討ち取っていく。すべてを、馬上で見守っていた。
討滅が完了するのに、一刻もかからなかった。いかに新兵であっても、戦う意思のない敵兵を追い討つことは、そこまで難しいことでもない。いい実戦の経験ができた。
「死者、負傷者ともにありません。完璧な出来だと思います」
副官が寄ってきて、戦捷の報告をした。戦闘の終わった後の兵たちは、多少なりとも高揚しているようだった。
「よくやった。すぐに引き揚げるぞ。勝ったからと言って気を緩めるな。退却も粛然と行え」
「はい」
「帰還したら、兵は充分営舎で休ませておけ。武具の手入れを忘れずにな」
「了解いたしました」
新兵は副官に預け、馬を走らせた。あの男は、城壁の上で、この姿をみていたのだろうか。ふと、そんなことを思い出していた。