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うなぎの呪縛

作者: 三文士

文学フリマ短編小説賞応募作品です。書き下ろし短編になります。土用の丑にいかがでしょう。

「とびきり美味い物を喰わせてやろう」


師匠はそう言って私を旅に誘ったのだった。


師匠とは長い付き合いで、私が子供の頃から色々と世話を焼いてくれた。父のいなかった私にとっては、まるで本当の父親の様な人であった。しかし師匠は自分の考えを押し付けるでも無く説教を垂れるでもない。半人前な私をあくまで一人の人間として扱ってくれたばかりか、実に豊富な知識を授けてくださった。だから私は、畏怖と尊敬の念を込めて「師匠」と呼んでいる。


師匠とは今まで色々な場所を旅してきた。金のかかる場所、かからない場所。平和な場所、危険な場所。多種多様な環境へ赴いたがいつでも共通していたのはその旅が「食の旅」だったことだろう。


荒れ狂う波の日に海辺の町へ出掛け何も食べずに一晩近くの小屋で過ごす。そして明け方、静まった海へ出てこれでもかという程の貝や魚を獲る。そしてそのまま海岸で焚き火をしながら焼いて喰う。これが恐ろしく原始的な宴なのだが、身体素直に喜ぶほど美味い。


ある時はマタギと山に入り、幻覚作用のある珍妙なキノコを採った。様々な山の幸を副菜にした後、マタギの手によって鍋にされたキノコを恐る恐る口に入れる。混濁した意識の中で更に珍妙な獣肉なども飛び出し、宴は朝まで続く。


はたまた、たった一杯の冷麺を食べる為に、盛岡まで新幹線に乗った事もあった。水餃子を喰わせてやるからパスポートだけ持って来いと言われた時は流石に察したものである。万事そういう豪快な事をする人だった。


そんな師匠が、一昨年の春に病で倒れた。


元々かなりのインテリジェンスでありながら学生時代に柔道で鍛えた身体が自慢で、どんなに険しい山道でも70キロの荷物を抱えながらすいすい歩いていく様な人だった。そんな師匠が内臓を患い入院したと聞いて、仕事もそこそこに私は病院へすっ飛んで行った。


「ははは。身内じゃお前が一番早かったな」


ベッドで文庫本を読みながら快活に笑う師匠だったが、その身体は見る影もなく痩せ細っていた。


「どうしたんですか!?以前お会いした時は、全然そんな風じゃなかったのに」


「男子三日会わずば刮目して見よ、と言うからな」


「それは成長するという意味でしょう。師匠、冗談を言っている場合ではありませんよ」


私がムキになってそう言うと、師匠は力なく悲しそうに微笑んだ。


「冗談でも言わないとやっとれんのだ。見てみろこのザマを」


「師匠‥」


「夏バテしてからいつまでたっても体力が戻らなくてな。それからアレヨアレヨという間に寝たきりになってしまって。気が付けば病院送りだ。弱ったよ、心身共にさ」


長い付き合いだったが師匠の泣き言は初めて聞いた。


私の知る限りこの師匠という人は今まで風邪ひとつひいたのを見た事がなかった。周りがインフルエンザの脅威に怯えている時もマスクもせず街を闊歩した。


「菌を怖がってどうするんだ。そんなもの、そこら中に漂ってる空気を怖がっているのと同じじゃないか」


「しかしインフルエンザは怖い」


と言うと


「だったら抵抗力のある身体を作れば良い。菌だって生き物だ。共存しようとすればできるもんさ」


そんな風に豪語していた師匠が今では病室のベッドで静かに天井を眺めている。だがそんな弱々しくなってしまった師匠を見ても、私はガッカリするどころか余計に情が湧いてしまった。何とか師匠に元気になっていただきたい。そう強く思ったのである。


「何か欲しい物はありますか?」


私は師匠の力になりたい一心で何でもする覚悟だった。どこそこの名産のナニが喰いたい。はたまた今時分しか手に入らない幻の何とかが喰いたい。何でもするつもりだった。しかし、師匠から帰ってきた言葉は予想外にありふれたものであった。


「鰻を喰いに行かないか」


「え?鰻ですか?」


鰻とはまたえらく平凡な欲求である。まあ病人とは言え鰻の脂くらいなら大丈夫だろう。


「では出前をとりましょう。近くにあるか聞いてきます」


そう言って立ち上がろうとすると、師匠に制止された。


「おいおい勘違いするな。今すぐというわけじゃない。それに喰いに行こうと言ったんだぞ?病室で出前は勘弁してくれ」


「じゃあどういう事です?」


「あと二週間ほどで退院できる。そしたら鰻を喰いに行くから着いて来てくれないか。なに、一人で行けないなんて事はないんだが。生憎と病人に成り下がってしまったからな。女房が煩いんだ」


まったく女房というのは面倒なヤツだ、と口悪く言ってみせる。しかしその実この師匠という人が並々ならぬ愛妻家である事も私はよく知っている。師匠は豪快でありながら愛嬌に溢れている。


そう言う事で、私は師匠のお願いを聞き入れ彼の退院に合わせて仕事の休みを調整した。何しろ目的地はS県である。東京から特急で三時間以上の場所だ。しかも病み上がりの師匠を連れてとなると何があるか解らない。


私は会社に無理を言って一週間ほどの休みをもらい、もしかしたら最後になるかもしれない師匠との旅に備えた。


そして梅雨の明ける頃、師匠との約束の日がきた。


少し早目に着いた私は上野駅の中央改札でわらわらと湧き出る人の姿を観察しながら、師匠の姿を探した。


「よお。待ったかい?」


師匠はいつもと変わらない服装だった。基本動き易い服に靴。リュックサックを背負って両手を自由にしている。相変わらず痩せていたが病み上がりとは思えないほどキビキビと歩いていた。


「お加減はいかがですか?本当に旅に出て大丈夫ですか?」


私がそう言うと子供の様にフン、と鼻を鳴らして拗ねてみせた。


「お前も女房と同じ事ばかり言う。せっかく旅の相方に選んだんだ。これ以上つまらん事を言うと途中で煙に巻くぞ」


と万事こんな調子であるからこっちが尻込みしてしまう。とにかくそんな具合に、私たちはS県に向かった。


特急列車から駅にホームに降り立つと、ねっとりとした暑さが身体にまとわり付いてきた。東京と比べるとこちらはやたらに暑い。


タクシー乗り場まで移動する僅かな時間でも、シャツの下にじんわりと汗が浮かんでくる。


「師匠、大丈夫ですか?この暑さではお体に障るのでは?」


すると師匠はニヤッと笑ってみせる。


「なに。こういう気温の時だから良いのだ。この暑さの中で汗をかきながらふうふう言って喰う鰻が美味いんだ」


「やせ我慢ですか」


「江戸っ子の粋だよ」


病人にしてはずいぶん口が減らない。私はすっかり安心してしまった。


タクシーに乗ること更に一時間ほど。郊外までやって来た我々はとあるうらぶれた商店街までやってきた。平日の昼間だと言うのにシャッターの閉まっている店が目立つ。もう何年も塗り替えられていないであろう入り口に「たけづつ商店街」と書かれていた。そこかしこから漂う雰囲気で察せなくとも、まず見た目でこの商店街の歴史の古さと衰退ぶりが伺える。


「師匠、本当にココであっているのですか?」


私は不安のあまり師匠に尋ねた。


「お前ね。今まで俺について来て、何か損な目にあった事はあるかい?」


「あります」


「失敬、美味い物に食いっぱぐれた事はあるかい?」


「それはないです」


「どうだい。だったら今一度、俺を信じて付いて来ちゃくれねえか?」


いやに芝居掛かっていたが、これも師匠の元気の為と割り切って付き合う事にした。


病人である癖に当の師匠本人はすでにスタスタと商店街の中を歩いて行ってしまっている。私は急いで後を追いかける。


ちょうど商店街の真ん中辺りまで来たところで、師匠は傍にある小道に入って行った。うらぶれた商店街の更に裏という事もあって、人通りはおろか猫一匹通っていない様な道がそこにあった。店らしき建物は見当たらず、ただ小さな古い家屋が並んでいる。


師匠にしつこいぞという顔はされたくなかったので口にしなかったが、私はいよいよ不安の塊になっていた。もしかすると病気の後遺症で頭がどうにかなってしまったのだろうか。しかし師匠の横顔は相変わらず精悍なままである。


「ここだ。着いたぞ」


少し歩いたところで師匠が歩みを止めた。


そこは恐らく、このあたりでもかなり古い方の家だろうと推測される。入り口付近に雑草が生い茂り全体を囲っている。乾いて朽ち果てた植木鉢や朝顔の鉢らしき物が風化したオブジェとなって存在していた。かつて窓があったであろう場所をツタが覆い、入り口だけが辛うじて機能している。そこには暖簾がかけられていて、それだけが不自然に清潔感を保っている。暖簾には屋号だろうか、紺地に白抜きで「歌仙」とだけ記されている。


「ごめんよぉ」


師匠は相変わらず迷いのない足取りで中に入っていってしまった。私も遅れまいと後に続く。


焼ける様な外とは打って変わり、中はまるで真っ暗闇で何も見えない。どうやら私だけでなく師匠にも見えない様で二人で暗がりに目を細めていた。すると。


「すいやせん。まだ仕込み中なんでさ。また後に来てもらえますかい?」


奥から嗄れた男の声でそう言われた。どうやら奥に人がいたらしい。


「申し訳ありませんでした。師匠、まだ準備中のようですよ。また後で来ましょう」


そう言って師匠を促そうとすると、手で軽くいなされた。


「あんな立派な暖簾を出しといて、準備中はねえだろう」


「なに!?」


まだ目が慣れておらず相手の様子は伺えなかったが、声の調子で相手が怒っている事はなんとなく感じとれた。


「師匠!!」


私は師匠の暴言を何とか取り繕おうとしたが、考えている間に相手の口から次の句が出ていた。


「おう、誰だか知らねえが随分と知った風な口聞くじゃねえか。待ってろ、いま灯りつけたらそっちに行って面ァ拝んでやる」


店内に薄暗い電気がつき、私はようやく視界を取り戻した。そこには色の浅黒い小柄で痩せた男が驚愕の表情をして立ち尽くしていた。私には到底事態の把握が出来るはずもなく、師匠と男の顔を交互に見比べるだけであった。


「相変わらず客を選んでるようだな、中蔵」


ナカゾウ。師匠は男の事をそう呼んだ。


「村崎さん!いったいどうしたんですかいこんな所まで!?」


中蔵さんは師匠の事を村崎さんと呼ぶ。私の知っている限り師匠を村崎さんと呼ぶ人はかなり少ない。一体どういう関係なのか。


「どうしたもこうしたもないだろう。うなぎ屋に鰻を喰いに来る以外なにがあるって言うんだ?お前の不味い顔なんざ、見に来る既得な奴がいるのか?」


「いや、これはまたとんだ失礼を。申し訳ありません。ご病気をされたと伺っていたもんですから」


「何を心配してる。ちゃんと足はあるよ。だがな、だいぶあっちに近づいてはいる。だから最後になるかもしれないお前のうな重を喰いに来たのよ」


師匠がそう言うと、中蔵はヘナヘナと地面に座り込んで肩を震わせた。


「村崎さん、っそんなにあっしの腕を‥」


どうやら中蔵さんは泣いている様だった。


「そうだ。それがどうしたんだこのザマは。昼間から般若湯の臭いプンプンさせやがって。そんな体たらくさせる為に親父はお前に殺生を許したわけじゃあねえぞ」


「まったく‥おっしゃる通りで」


しばらく二人の間の沈黙が流れた。


「末期の鰻になるかもしれない。中蔵。ひとつ腕をふるっちゃくれないか?」


師匠の言葉に中蔵さんは土下座でもしそうな勢いだった。


「もちろんでさ!せっかく来ていただいたんだ。この中蔵、職人の魂を込めて割かせていただきます」


「頼む」


「ちょいと出てきます。酒の準備だけしておきますので、一杯やって待ってて下さい」


そう言うと中蔵さんはサンダルを突っかけて何処かへ行ってしまった。


仕方なく我々は二つしかない小上がりのうちの一つに腰を下ろし、ゆるゆると中蔵さんを待つ事にした。待っている間、師匠がこんな話をしてくれた。




彼奴の名前は中村蔵之助と言ってな。中村に蔵之助だからナカゾウ。なんの捻りもないアダ名さ。


元々は東京の出身で寺の息子なんだ。そこそこにデカい寺の一人息子でな。親父の事もよく知ってる。


彼奴が中学の時の話だ。修学旅行で行った先のうなぎ屋のうな重がめっぽう美味かったそうだ。信じられないかもしれないしれないが中蔵はそれまでうな重を喰った事がなかったらしい。いや、いくら寺の息子と言えど肉や魚は普通に喰っていたんだ。しかしな、親父の言い付けで鰻だけは喰ってはいけない事になっていたそうだ。


なんでも昔、彼奴の曾祖父さんの時代に川を攫っていたら冗談みたいにでかい鰻が獲れたらしくてな。殺さずに生け捕りにしてたら夜中に見知らぬ坊さんが訪ねて来て、鰻を逃せと頼んできたそうだ。ま、よくある怪談話の類いだな。それで手違いで鰻を殺したらその腹の中から前の晩に曾祖父さんが馳走した飯が出てきたって話だ。それ以来、彼奴の家は頭を丸めて坊主になり鰻を喰わなくなった。


しかし時代は代わり、これも因果なのか彼奴は鰻を口にしてしまった。それどころかすっかり魅了されちまったそうだ。初めて口にした日から、毎日鰻の事を考えていたそうだよ。


おいおい笑いごとじゃないよ。


とにかく彼奴は、それでうなぎ屋になる決心をしちまったんだ。もちろん親父は大反対した。他の職業なら何でもいい。寺を継いでくれとは言わない。だがうなぎ屋だけはよしてくれと。親父はそう言って泣いていたそうだよ。しかし中蔵の決意は固くてな。結局は家出同然の形で日本橋にある老舗のうなぎ屋に入る事になった。実家の方は彼奴がいないから家が途絶えちまった。中蔵が17歳の時さ。


そこからの彼奴はなかなかのものだった。


多感な若者の青春を全て鰻に費やし、ただひたすらに修行に励んだそうだよ。汗と鰻の粘膜にまみれ、一生懸命に腕を磨いた。日本橋の親方もそれは目をかけてやってね。そのかいあって中蔵が30になる頃には独り立ちする許しが出た。当時としては異例だったよ。なにせ鰻は「串打ち三年、割き五年、焼き一生」と呼ばれるものだからな。30そこそこの若僧がおいそれと暖簾を分けて貰えるものじゃない。それを許された彼奴は相当な腕だったという事なんだ。


彼奴は17の時から必死で貯めた金を元手に、いよいよ都内に店を構える事になった。


しかしな。ここで事件が起きた。


中蔵には佳代子という女がいた。日本橋の店で一緒に働いていた女中でな。歳も中蔵と同じ。器量もまあまあといったところだったが、愛想の良い女だった。修行中は一切の道楽をしない中蔵だったが、いつの間にやらその女と出来ていてな。将来を約束していたそうだ。


そしていよいよ独り立ちという事になり店の場所も決まった。親方もそれ相応の祝いを用意して、皆がその日を心待ちにしていた。


しかしある日のこと、中蔵から親方に詫びを入れにきた。突然の事に親方は怒ったね。なにせ開店まであと三月もないって時だ。中蔵の胸ぐらを掴んで問いただした。そしたら中蔵は呆然とした顔で言ったそうだ。


「佳代子が逃げた」


と。


中蔵が17からコツコツと貯めていた金を佳代子が持って逃げたのだという。金額にしてみれば店を構える頭金程度にしかならない、そこそこの値ではあったが当時下働きの彼らからすればそれはもう大金であった。それを中蔵は佳代子に預けていたのである。


そしてその金を持って、佳代子がいなくなったと言うのだ。忽然と姿を消してしまったという。


後々になって解った話だが、佳代子という女は実はあまりタチの良くない女で男にたかっては夜な夜な派手な遊びをしていたらしい。


店の常連で佳代子があまり風体の良くないやくざな男と、腕を組んで歩くのを見たという人間もいた。しかし今となっては、後の祭りだった。


とにかくそういう事で、中蔵の独り立ちは一旦取りやめになってしまった。エラく落ち込んでたよ。中蔵はね。


しかしチャンスはもう一度やってきたんだ。


中蔵は佳代子に逃げられて、しばらく元の店で働いていたんだ。俺が中蔵に会ったのもちょうどその頃だな。


親方は中蔵の事を不憫に思ってね。そらそうだ。本人は至って真面目に修行していただけなのに。つまらねえ女に捕まったのが運の尽きというか何というか。


そしたらある日、常連の紹介で有名な歌舞伎役者が店に来てな。本当だったら親方がやる筈だったんだが、よりにもよって夏風邪をこじらせてね。こりゃあもう、いよいよ諦めてもらおうって話になったんだよ。


しかしその時に親方が


「蔵之助にやらせろ」


って、唸りながら言ったんだと。


考えてみりゃ大事なお客さんを持て成すのに、親方を除いたら中蔵くらいしかできる者がいないわけだ。満場一致で代役が決まったわけだ。


周りは騒いでいたが当の中蔵は意外と落ち着いたもんでね。


「誰でも同じだ。いつもの様にやるだけでさ」


とか言ってたっけ。


いよいよ当日になって、例の歌舞伎役者が店に来た。


中蔵はいつも通りの献立をだす。


香の物。


うざく。


肝焼き。


そしてうな重と肝吸い。


それらを全部を食べ終えるまで、歌舞伎役者は一言も喋らなかったそうだよ。そうしてついに口を開いたかと思えば、こんな事を言い出したそうだ。


「お前さんとこじゃ、いつもこれくらいの薄味なのかい?」


ってね。店の者全員が肝を冷やしたそうだ。しかし中蔵は表情ひとつ変えずこう言ったそうだ。


「いえ、普段はもっと濃い味なんです。今日だけ特別で」


そう言ったそうだ。すると歌舞伎役者は


「なんで薄味にしやがった。俺ぁ代々江戸っ子だぞ?田舎者じゃねえ」


と、憤慨したそうだ。店の連中はいよいよ怖くなって親方を呼びにいこうとする者もいたそうだ。しかし中蔵は相変わらずの調子で答えた。


「お客さん、夏風邪をひいてらっしゃいますな」


相手はギョッとした顔で


「なんでそう思う?」


と尋ねた。


「ウチの親方と同じ顔してまさぁ。見た所まだ病み上がりだ。その身体で鰻の脂と濃い味は良くない。いくら鰻が精がつくと言っても、内臓が弱ってちゃ身体に毒だ。だから味を薄くして、量を少なめにして脂を落としておきました」


歌舞伎役者は顔を真っ赤にして怒った。


「馬鹿野郎!そんなこたぁ俺が決めるんだ!おめえがアレコレ邪推するとこじゃねえ」


中蔵は相手の怒鳴り声を物ともせず、至って冷静に言い返した。


「だけどお客さん、全部平らげてらっしゃるじゃないですか。本当に口に合わなかったんですかい?」


「口に合わなかったぁ言ってねえ。てめえ。鰻屋のクセに口が減らねえなあ」


「お客さんだって役者の割に演技が下手だ。どうみても病人にしか見えませんぜ」


周りの者たちはいよいよダメだと思ったららしいが、突然相手が大声で笑いだした。


「いや参ったなこりゃ。うなぎ屋にやり込められるとは思ってなかった。言うのが遅くなったが、本当に美味かったぜ。普通の時の俺なら一口喰って帰ってたとこだが、お陰で全部平らげちまった」


「あっしだって普通なら風邪っぴきのお客さんなんざ『鰻なんざ喰ってねえで家で粥でも食いやがれ!』って帰してるとこだ。でもね。今日は親方の代役だから渋々やってんでさ」


「この野郎。しかしまあそこまでお客の身体を考えるたぁ、なかなか出来る事じゃねえ」


「馬鹿言っちゃいけません。お客さんの為じゃない。そんな身体で喰っちゃ鰻に失礼だ」


「こいつぁ良い!とんだ鰻馬鹿だ!」


こんな風に江戸っ子特有のやり取りの末、その歌舞伎役者は上機嫌で帰っていったそうだ。


それからと言うもの、その役者は随分と日本橋の店に通ったそうだ。お目当はもちろん中蔵のうな重。


その歌舞伎役者というのがお前も知ってるかもしれんが、かの有名な八世中村伝九郎だった。


彼奴に中蔵というあだ名をつけたのも伝九郎なんだよ。


伝九郎はそりゃあ中蔵を可愛がってね。普段の時はもちろんだったが、芝居で『仮名手本忠臣蔵』の五段目をやる時は必ず初日と千秋楽に楽屋中へ中蔵のうな重を振る舞ったそうだよ。


いやはや歌舞伎役者ってのはやる事が派手だ。


そしていよいよ、中蔵の評判も上がってきて中蔵に沢山の客がつくようになった。


伝九郎も中蔵に店を出させたいと常々思っていたし、日本橋の親方も思いは同じだった。


中蔵も何度かその話をされて、最初の頃は


「もう良いんです。ここで死ぬまで使って下さい」


と言っていたもののいよいよ周りの熱意に負けてもう一度、というか今度こそ店を出す事にしたそうだ。


資金に関しては伝九郎が全部建て替えてやる事になった。ま、それほど中蔵の味に惚れ込んでいたという事だ。


そして中蔵の夢に見た日がやってきた。


銀座の一等地で品の良い小粋な店を構える事が遂に叶ったわけだ。誰もが今度こそ、中蔵の未来に光が射したと思ったよ。


しかしなそこで上手くいっていたらお前は今、ここでうな重を喰えていないんだよ。この意味が解るな。


また問題が起きたのさ。


伝九郎の出資のお陰で、中蔵は自分の店を出すに至ったわけだが伝九郎の方も実はかなり大人数のパトロンに支えられている身分だった。

人気の役者なんてのはそんなもんだ。


そして、中蔵の店の開店初日に伝九郎は店を貸し切りにして祝賀会を催したわけだ。面子は各界のお歴々。そうそうたる顔ぶれだ。なんの間違いか、俺もそこに呼ばれていたわけだ。


面子の大半は伝九郎のパトロン。伝九郎は中蔵のパトロンだから、パトロンのパトロンってわけさ。絶対に足を向けて寝れない連中さ。


あるていど順調に料理も運ばれて、さあいよいよ大詰め。主役のうな重の登場という時に、一人の男がこんな事を言い出した。


「伝九郎はん。すんまへん。あてはこないなうな重は食いとうおまへん。さっさと片付けてくれまへんか」


さて、驚いたのは伝九郎。自分も同じ物を食べているがいつもと同じ様に万事絶妙な加減である。


「すみません、旦那。このうな重の何がいけないんでしょ。教えちゃくれませんか」


伝九郎はカッとなりそうなところを抑えて質問を投げかけた。何しろ相手は大事なパトロンの中でも、かなり力を持った政治家の男だった。


「何がいけないやと?そんな事も解らんと、ようこんな会を開けたもんだすなあ」


「何ですって?」


「見てみぃこの鰻。背中から割かれてるやないか。こんなもん食えやしません」


全員が首を傾げたのだが伝九郎だけはしまったと感づいた。


男は言葉から彼が関西の人間である事は明確だ。関西と関東では鰻の割き方が違う。


普通の人間ならこんな小さな事に難癖をつけられたら怒鳴り返してしまうだろう。しかし伝九郎は違った。


今日は他ならぬ中蔵のめでたい日。相手は自分、ひいてはこれから中蔵の贔屓になってくれるかもしれない客だ。


「すぐに代えさせやますんで。あいすいません」


そう言ってうな重を下げさせたのだが、今度は中蔵が何事かと座敷に顔を出した。


「一口も召し上らずに突っ返すなんざ、いったいどういう了見ですか?」


流石の中蔵も我慢がならないと見え、今にも胸ぐらを掴む勢いである。


「見てみ。あんた。西ではこんな鰻の割き方しまへんのや。背やなくて腹かさくんだす。これじゃ縁起が悪ぅて、食い気も失せます」


「関西は腹かもしれませんが、こっちじゃ背から割くんです。ここは東京だ。しのごの言ってないで喰って下さい。冷めます」


「なんやその言い方は!西じゃ『腹を割って話す』というい意味で腹から割くんだす。ええから早よやり直してや」


中蔵はその言葉を聞くや否やすっくと立ち上がり、伝九郎が止める隙もなくその男の正面に立った。


「腹から割いたら過分に脂が落ちちまうんだよ。そんな事も知らねえのかこの田舎もん」


そう言って側にあったビールを相手の頭からかけて、そのままどっかに行ってしまった。


中蔵はもちろんその旦那をしくじったよ。もう二度と会う事はなかったそうだ。伝九郎が何度か取りなそうとしたが、中蔵が頑として受け入れなかった。


結局、その事が原因で中蔵は伝九郎とも袂を別ってしまった。後にはケチのついた中蔵の名前と膨大な借金だけが残った。


銀座の一等地はすぐに引払い。職人の道具以外は全て売っぱらってもまだ借金は残っていたらしい。そうして遂に実家の親にお鉢が回ってきてね。もう寝たきりだった父親の命を更に縮めたのさ。


土地と家を売って、両親に借家住まいをさせ中蔵の借金はようやく亡くなった。父親はもう二度と、口を利いてくれなかったそうだよ。


こうして中蔵は、生まれ育った東京から逃げる様にこのS県へ移り住んだわけさ。日本で随一の鰻の特産地であるここにな。




「そんな目に繰り返しあっても、まだ鰻に執着するんですか!?一体、何の為に!?」


私は遂に堪え切れなくなり大声を出して師匠の話を遮ってしまった。


「そんな目にあったって関係ねえでしょう。鰻は何ひとつ悪かぁねんだ」


後ろから中蔵さんが酒焼けした顔を覗かせた。


「うな重、お待ちどうさまでした」


「ああこいつを待ってた」


中蔵さんはお重を置くと、片付けがあると言ってまたすぐに奥に引っ込んでしまった。


「さあ。冷めないうちに喰ってしまおう。これを喰う為にはるばるここまで来たんだ」


美味しい物を目の前にしている時の師匠は本当に子供の様だ。目をキラキラと輝かせて満面の笑みを浮かべている。その表情が、周りの人を魅了する。中蔵さんもきっとその一人だ。


お重の蓋を開けると温かい湯気が解き放たれる様に上に昇っていった。


私も師匠に連れて行ってもらい様々な土地の特産品に出会ってきたが、これほどまでに光沢を放つ食べ物を見たのは生まれて初めてだった。比喩ではなく、本当にピカピカと光っていた。


「美しい鰻だろ。まるでまだ生きている様だ。素晴らしい実に」


師匠は宝石の様に鰻を褒め称える。


まずはひとくち、箸で摘まんで口へ運ぶ。


ほろほろと柔らかくて自然な甘みのある身。ツヤツヤとした米は絶妙な水加減で炊かれている。何よりも素晴らしいのはタレである。一般的に鰻のタレと言えば甘い味付けのものがほとんどなのだが、中蔵の作るものは逆に甘さが抑えてある。むしろ醤油の味がしっかり効いていてさっぱりとした嫌味の無い味だ。ぶっきらぼうな中蔵の人柄とは裏腹に非常に品が良い。程よい焼き加減の香ばしさとこの絶妙なタレが身の甘みと相まって、三位一体。えも言われぬ美味さがある。


「どうだ?美味いだろ?」


師匠は私が夢中で貪るのを見て得意げな顔である。


「どうして今までここに連れきてくださらなかったんですか。師匠も人が悪い」


「ははは。まあそういうな。ここはとっておきなんだ」


「それにしても美味いです。いやしかし、どうしても分かりません」


「なんだい。遠慮なく言ってみろ」


私は何と言って良いか分からず、自分の中にある言葉から必死に適当なものを探していた。


「技術は、解ります。長年の修行と培ったセンスは相当の物です。食材そのものも、素晴らしい。どれも厳選されていて新鮮だ。でもしかし」


「しかし、何だい」


「それ以上の何かを感じます。しかしどうしても解らない。この凄みのある美味さ。それが何なのかすら私には解らない」


そう言うと師匠はとても嬉しそうに微笑んだ。


「まあそこまで解っていれば上等だな。お前に色々教えてきたかいがあった。お前が抱いている疑問は全く正当なものだ。致し方ない」


「師匠は、やはりお解りになるのですか」


「ああ」


「教えて下さい」


師匠は食べ終わったお重に蓋をして静かに手を合わせた。


「それはな。人生の味だ」


「人生?」


「そうだ。中蔵の人生の味だ。もっと正確に言うなれば中蔵が鰻に注ぎ込んできた人生の味なのさ。彼奴が自らの人生を賭して作ってきた味。彼奴はただ鰻を割く為だけに生き、鰻を焼いて死ぬ。そういう人間が作る料理というのは、饒舌にし難い味がするのだよ」


「人生を賭した味、ですか」


若輩者の私は理解は出来ても納得は出来なかった。本当にそんな事があり得るのか、と。


「同じ食材、同じくらいの技術を持った人間が作っても、この味にはならない。それが人の域を超えた、名人の為せる技さ。お前ももう少し歳を経れば解るかもしれないし解らないかもしれない」


「解るようになりたいです」


「ならそうなる様になれば良いさ」


師匠は穏やかに微笑んでそう仰った。


「しかし師匠、病み上がりの人にとっては鰻はちと重くありませんか?」


「他人の人生を喰らえばそれだけ長生きができそうな気がするのさ。私はまだ、長生きがしたい。もっともっと生きて、まだ見ぬ美味い物を喰らいたいのよ」


師匠のその飢えた獣の様な瞳を見て、この人もまた鰻に取り憑かれたあの職人同様に、食の探求という呪縛に絡め捕られて生きているのだと知った。


しかし不思議である。


人間というのは何かに縛られている方が生きている実感をより強く感じられる。呪縛の中に生きる人間はみな、眼に炎の様な輝きを灯し存分に人生を謳歌している。何にも縛られずに生きるのは、張り合いがない。師匠が病に倒れても中蔵さんの鰻を喰いに来たのは、自らが課したその呪縛を思い出す為ではなかったのだろうか。


私自身、どうしてかそう考えてしまう。


人間というのはつくづく不器用である。


しかしそれがどうしてか、とても愛おしい。




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― 新着の感想 ―
[一言] 短編、ですよね?前後編ではなく。 話が山場で終わり困惑。
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