6 マーク
生まれつき、出来は良かったのだと思う。ただ、興味を持てるものは無かった。
伯爵家の妾腹として屋敷の離れに育ち、正妻の子ども達からの蔑みと、夫とは呼べない男に振り回されて生きる母親の姿を目にする毎日はあまり愉快なものではなかった。
それでも不自由のない生活を送れるだけ経済的に恵まれていたことは、幸運ではあったのだろう。
異母兄弟ほどではないが行動は管理され、制限された。唯一自由だったのは本を読んでいる間くらいのものだ。おかげで屋敷にある本は全て読んだ。それでも、興味を引くようなものはなかったが。ただ、自分を支配する手から一時逃れる為だけに読み続けた。
長ずるにつれ、俺と異母兄弟達の間には差がついていった。成績も容姿も。それを面白く思わない正妻とその息子達は折に触れてくだらない攻撃を仕掛けてきた。俺がそれに反応しないものだから、向こうもエスカレートする。どこかで適当に応じてやれば良かったのだろうが、それすら無駄に思えて放っておいたのが仇になった。
学園の卒業まであと半年あまり。このままどこかの研究室に入るか、貴族院に入る準備に移るのか。自分の将来についてもひとつも関心がなく、なるようになれと日々をただ消費していた。
相変わらず異母兄弟との確執は続いていたが、あからさまに攻撃してくるとは予想外だった。直接の理由は、ああ、上の馬鹿の婚約者に手を出した、だったか、呆れる。他人のを取るほど不自由はしていない。強引に誘ってきたのは向こうだ。断るのも面倒だっただけだが、そんなことはどうでもいいらしい。
「おや、こんな所に。隠れんぼするには日が悪くないかね」
人気のない王都の裏通りの片隅で、雇われた破落戸に刺された脇腹をかばいながら逃げる隙を窺っていた俺に、見知らぬ御仁が呑気に声をかけてきた。細身で背が高く、身なりは悪くないが帽子を深く被っていて顔は分からない。
確かにみぞれ混じりの小雨が降り出し外遊びには向かない天気だが、いかにも訳ありそうな俺にそう声をかけるこの初老の男性の真意は計り兼ねた。傷はそこまで深く無いが案外多い出血も見られたら厄介だ。
「……巻き込まれたくなかったら、向、こうに行け」
「ふうん? 僕はねぇ、こう見えて医者なんだよ。怪我人を見過ごすのは性に合わないなあ」
「あ、おいっ、あんた…っ、ぐ」
のんびりとした口調と裏腹に鮮やかな手際で地面に押さえつけられ、問答無用で傷口から治癒魔術を流し込まれた。遠慮も何もなしで吸収可能最大値とおぼしき量をぶち込まれて、激痛とともに頭が朦朧とする。
「さて、僕の治療は結構お高くてね。見たところお金は持っていないようだし、体で払ってもらおうかな」
こいつもアレの手先だったかと、やけに冷静に思ったところで俺の意識は暗闇に落ちた。
目が覚めたのは簡易なベッドの上だった。窓が片側にあり、残り三方のベッドの周りを囲むように掛かったカーテンの向こうには複数の人の気配。頭は重く霞がかかったようだったが、次第に話し声が聞き取れるようになった。
「……い……でまたここが痛み……ましてね」
「ああ……季節はどうしてもね。多いですよ特に雨の日は」
「…うでしょう! しくしくと痛むんでやりきれないんですよぅ」
どうやらどこぞの診療所のようだ。年配の女性の声は延々と膝の痛みを訴え、落ち着いた男性のなだめるような声は続いた。その後も、腹痛だ、捻挫だ、子どもが熱を出したと患者が途切れることはなく、なかなかに忙しい。医師であるらしい男性の声に皆安心して帰っていく。
俺はうつらうつらしながら入れ替わる声を子守唄のように聴くともなく聞いていた。
「お、気分はどうだね。そろそろ頭はハッキリしてきたかな」
いつの間にか患者はいなくなったようだ。外は雨で時間は曖昧だが暗さからいって夕方も過ぎているだろう。診察室からの逆光になって男性の表情は分からない。
「ああ、起き上がらなくていいよ。傷は塞いだが、まだ治ったわけではないからね。君は若いし朝までそうしていればまあ、動けるだろうよ。今は眠ることだね。話はそれからだ」
追手は来ないからしっかり眠って治しなさいと、まるで子どもにするように俺の頭を撫でて出て行った……頭なんて触られたの、何年ぶりだろうか。
敵か味方か。頭は訝しむのに何故か安堵する心に疑問を持ちながら、俺は男性の背後で閉まったカーテンが揺れるのをぼんやりと目に映したまま、また瞼を閉じた。
男はダニエル・レイノルズと名乗った。王都から少し離れたここ、ミーセリーで診療所を営む医師だという……その名を知っていた。
「王宮筆頭医師だったレイノル…」
「今はダニエル先生って呼んでもらえると嬉しいかな。もうとっくに引退した身だしね」
被せるように言われたが、貴族で知らぬ人はいないだろう高名な医師を前にただ驚くだけだった。なるほど、見ただけでこちらの許容量を判断した上で即座に治癒魔術を発動できる人物が早々いるとは思えない。本人だろうと確信した。
王都の図書館に本を返しに行ったのだと言う。あの辺りに行きつけの本屋があり、帰りに寄ろうとしたところで路地裏に潜んでいた俺を見つけたと。昔から隠れている子を見つけるのは上手いんだよと、しらっと言った。
普段の警戒心を何処かに置き忘れたように、問われるままに身上から経緯まで話してしまったのは名前を聞いたからというよりも、彼の持つ雰囲気に流されたからといえる。
甘いわけではないが全てを受け入れるような、決して拒絶も否定もされないような雰囲気。
“包容力” …多分これには、そういう名が付いていたと思う。
「なるほどねぇ……ディズレイリ家のことは多少は耳に挟んだことがあるよ。君が、その優秀な方の息子か。で、マーク。君はどうしたい?」
「どう、とは」
「お兄さんたちを蹴落として後継になるのか、別の道を探すのか。刺された意趣返しはしたいかい? それともこのまま逃げる?」
……どれも考えていなかった。やられることは煩わしく思うが、それだけだ。ただ日々を過ごす自分には何の感情もわかない。死なないから生きている。進んで死ぬつもりもないが生きて何かをしたいわけでもない。
そんな俺をお見通しなのだろう、ダニエル医師は苦笑いをして温かいお茶のお代わりを注いだ。
「君には時間が必要だね。傷はまあ僕が治療したし直に治るだろうけど、しばらくここにいたらいいよ。そうするうちに見えてくるものもあるだろうさ」
「……置いていただけるのですか?」
「治療費の分は働いてもらわなきゃねえ」
随分軽く言ってくれる。彼の治療費など、早々払える額でないのは分かりきっている。
「学園の卒業資格は足りているんだろう? あそこの教授には知っているのもいるし、話はしておくよ。まずは傷を治そうか。気づいていたかな、ご丁寧に毒まで塗ってあったよ。即死のでなくて良かったね」
「よっぽどいなくなって欲しかったんですね。まあ、無駄に終わったようですが」
「いや、そこは怒るところじゃないかな……」
診療所に訪れた患者には学生の助手だと紹介された。ほどほどの規模の田舎町の暮らしは平穏そのものだった。
診療時間中はダニエル医師の脇に立ち指示に従い細々とした手伝いをし、夜は彼の蔵書を借りて読む。医療について学ぶのは面白かった。何かを勉強して面白いと思ったのが初めてで我ながら驚いた。
穏やかな気性の住民が多いせいか怪我人もそういない。王宮筆頭医師としての腕を持て余すような患者の相手ばかりを何故しているのか。
王都にとどまり、貴族相手に治療でもすればいくらでも稼げるだろうに無償に近い診察代でここにいる理由は。
そもそも自分を拾ったのはどうしてか。本人が言う通り怪我人を見過ごせなかったのだとしても、治療が終われば家に帰して終わりだろうに、何故ここに引き留めてくれるのか……ダニエル医師については分からないことばかりだった。
「あら、ダニエル久しぶりね。ああ、そちらが新しく来られた助手の方ね」
はじめまして、と柔らかく微笑むダニエル医師と同年代の上品な女性。往診に行くよ、と連れられてきたのは村のはずれ、森を背に立つ貴族の屋敷だった。大型犬のバディと、このアデレイド・ダスティン前伯爵夫人が一人と一匹で住んでいる。
「アディ、変わりはないかい? 彼はマーク・ディズレイリだよ。王都で拾ってきたんだ」
お互いの家名を知らぬわけはないだろうがそれには触れず、まあいいものが落ちてましたこと、と穏やかに笑いながら自然に午後のお茶が支度された……往診に来たはずだが。
目の前のテーブルに並ぶのは、夫人の手製であろう二種類の焼き菓子と芳しい紅茶。すっかりくつろいでいる上司に、いつものことなのだと理解する。
服装や暮らしぶりなどに今様のものが見えない。時代遅れと言われればその通りだが、時が止まったようなこの場にふさわしい女性だと思えた。
どうやら昔馴染らしい彼ら二人が、時折会ってお茶を飲んだりするのを “往診” と称しているようだ。和やかに時間が過ぎて、特に次の約束をするわけでもなく屋敷を辞した。
燃えるような、という言葉がぴったりな夕焼けの中、診療所へと戻る道を歩く。
「……先生がこの村にいるのは、彼女がいるからなんですね」
「そうだよ。僕の大事なひとだからね」
隠すことなく断言するダニエル医師に少し驚いていると、彼はふと足を止め真っ直ぐに俺を見た。
「マーク。地位も金も、必要な時になければ意味がないんだよ。僕は彼女を助けられなかった。その事実は決して消えない」
突然何を言うのかと思った。一瞬遅れて最初の時に一度話したっきり出てこなかった話題だと気付く。
「手にできるなら、そうしたほうがいい。いつかそれが君を助ける。君に守りたいものができた時に、きっと役に立つ」
「……俺に守りたいものなど、」
「女こどもを守ることこそ、男の本懐だと思うがねえ」
ふざけたような口調だがその表情は苦いものを含んでいた。
「とりあえず君は、与えられた好意を受け入れることから始めてごらん。いきなり誰かを好きになれなんて無茶は言わないよ。返さなくていいから、まず言葉を、気持ちを受け取ってごらん。そうすればだんだん自分が人間だと思い出してくるから……君はね、一人の人間なんだよ、マーク」
君が自分を人として扱わないから、彼らも同じことをするんだよ。だから簡単に殺そうなどと考えるんだ。もちろん、悪いのは全面的に向こうだがね。
夕日に染められたその言葉は心の奥に突き刺さり、抜けることはなかった。
結局、ミーセリーでは四ヶ月ほどを過ごした。王都に戻り学園を卒業した後は、ダニエル医師の計らいで王立医療院に籍を置きながら学園の医術科でしばらく基礎を学んだ。
医療院に入ったことで後継争いは中断の形になり、更に『ダニエル・レイノルズ』が後ろ盾についたということで、表立っての俺への攻撃はなりを潜めた。
大方の知識と技術を得て、友人とは呼べないが、知り合いと言える程度の付き合いのある個人も幾人かできた頃、ミーセリーに戻ることにした。
「……呼んでないよ」
「押しかけ弟子になろうと思いまして」
やっぱり面白い子だね、君は。そう言いながら、この懐の深い恩師はまた俺を受け入れてくれた。生みの親よりもこの人の傍で生きてみたいと思った。
「大丈夫ですよ、最期は看取ってあげますから」
「その減らず口を懐かしく思うなんて僕も耄碌したなあ、まったく」
いつの間にか笑っていた俺を嬉しそうに眺める目を見つめ返して、深く礼をした。
診療所が始まる前に、足りなくなりそうな薬草を採りに森へ行った。治癒魔術は外傷には有効だが内部疾患には効かない為、服薬が必要になる。ダスティン伯爵家によって保護されているこの森は様々な種類の薬草が自生していて、先生と俺は採取の許可をもらっている。
目当てのものを見つけ、アデレイド様の屋敷の裏庭が見える小道に差し掛かるとバディの楽しげな軽い鳴き声が聞こえてきた。
そちらに目を向けると、手に持った籠を上手に取り回しながら、くるくる踊るように回るマーガレットがいた。肩の近くでなびく黒髪、ふわりと広がるスカートの裾……そこだけに日が差し込んでいるように彼女の周りは柔らかく輝いて、聞こえないはずのワルツが風に乗って聴こえてくる。
知らず足を止めて見つめていると、急にしゃがみこんで足首をおさえた。それはそうだろう、まだ治っていないのだから。あれだけの怪我、先生の治療でなければ未だベッドの上のはずだ。
思わず苦笑いがこぼれるが、なぜか胸のあたりがあたたかい。助けに行こうかとしたところで彼女は立ち上がり、バディを連れて何事も無かったかのようにゆっくりと歩き始めた。
屋敷へ帰る後ろ姿を最後まで見送って、自分もまた帰路につく。
気が付くといつも彼女の姿を探している自分がいる。
先生と出会い「人」になれた。そして今、新たに手に入れた感情を持て余している。
まっすぐな眼差し、裏のない笑顔。アデレイド様や先生といる時の気負いのない表情。会話する手の平に触れる白い指先……自分と遠いところにあるすべて。
触れたら壊してしまいそうなそれらをこの手に抱き、離したくないと思ってしまう。
この感情につくだろう名前を知っている。だが、生まれて初めて感じるこの衝動を、そんな陳腐な言葉で表したくはない。
『精霊の招き人』である彼女が受けられるはずの特権の多くを不要と断じたマーガレット。彼女が求めるものは数多の人々からの仰々しい崇拝ではなく、近しい人からの親愛の情と感謝のみであるようだ。
いつも穏やかな空気を纏う彼女の、あの、ふた色の瞳にはこの世界はどう映っているのだろうか。彼女の見る世界は自分とどれほど違うのだろうか。
光に溢れているだろうそれをいつか知ることができたらいいと、そう思う。