4 ダニエル
王都にほど近く、適度な規模の田舎町ミーセリー。 町と言ったり村と言ったりするが、田舎なことには変わりない。のんびりとしていて、若者よりも年寄りの数が多い典型的な田舎だ。
医師を務めた王都を年齢を理由に辞してから住み始めたこの村にも、元々の住民の中に入って馴染む程の年月が過ぎた。このまま静かに片田舎の一医師として骨をうずめるだけと思っていたが、人生は何が起こるかわからない。
あの晴れた早春の日。珍しく診察に訪れる患者も少なく、助手のマークと茶を飲みながら束の間の休憩をのんびりと過ごしていたら、突然よく知る大型犬が飛び込んできた。
「おや、バディ。どうしたどうした、少し落ち着け」
普段は全く大人しいこの犬が、白衣の裾を軽く咥えて必死で引っ張り続ける。とりあえずと犬に水を与え、ようやく診療所内は落ち着いた。
「先生、もしやアデレイド様に何か……?」
瞬く間に水を飲みきったバディは今度はマークのズボンの裾も引っ張っている。その間に往診鞄の準備を済ませ、玄関に留守にする旨の案内板を掛ける。
「さあ、行こうか。マークもお呼びだよ」
……アディに何かあったのか。
自分より少しだけ歳下の昔馴染みを思い、沸き立つ不安を押し隠し冷静を装って出立を促した。何種類もの「最悪の状況」が脳裏をよぎる。だから同居人を置けと言ったのに、いや押しきれなかった自分のせいか。一昨日会った時は変わりがなかったようだが……自分は医者だと言い聞かせながら先を急ぐが、慣れた道があんなに遠く感じたことはなかった。
そしてたどり着いた屋敷で待っていたのは変わり果てた彼女ではなく、瀕死の重傷を負った『招き人』だった。
「先生、今日はアデレイド様のところへ行かれるのですよね」
ちょうど患者も途切れたので少し早めの昼食をとりながら、マークがそういえばと話し出した。招き人であるマーガレットの怪我はだいぶ癒えたが、もうしばらくの間は往診に通う必要がある。そうだと答えれば、子どもがとっておきの秘密を教えるような顔で実は、と話し始めた。その内容を聞いて苦笑いがこぼれる……あの子はまた。大人しくしていないと治りが悪くなると言っているのに。
怪我が完治したら、一度王都に連れていくことで王宮と話はつけてある。その前に魔術院あたりから派遣されて誰か来るだろうが、それまではこのミーセリーでのんびりと傷を癒して欲しいのだが。
界を越えて渡るときに身体に負荷がかかることは書物に書いてあったが、あの怪我はそれだけが理由ではないようだった。体力的にも心理的にも負担にならないように少しずつ聞き出したところによると、事故に遭って本人は死んだと思ったらしい。確かに、そうなっていておかしくない怪我だった。いたる所の骨が折れているのに奇跡的にも頭部と内臓が無事だったのは、何らかの意図が働いたのであろう。
一度死を体感したせいか、元の世界に対する望郷の念はあまり感じていないようだ。それでも最初の頃は時折ぼんやりと物思いに耽ることがあったが、この頃はその姿も見ない。帰してやることができない以上、そのままこちらに慣れてくれるようにと願うばかりだ。
「本当に二十八歳なんですかね。俺より年上って、色々とそうは見えないですよ」
「暦の数え方が違う可能性もあるから、まあ多少は若いかもしれないが。二十歳までは学生でその後の八年は働いていたと言っていたから、立派な成人であることは間違いないだろうさ。酒も飲めるしね」
確かに、飲めることは飲めますねと面白そうにマークは笑った。おおかた先日、四人で夕食を共にした時のことを思い出したのだろう。小さなグラス一杯の食前酒だけでだいぶ酔いが回ったマーガレットは、終始ご機嫌で楽しそうだった。声が出ていたら歌っていただろうと思う。あの程度、成人したての子どもだって平気で飲めるだろうに。
それにしても、とそれとなくマークを眺める。決して愛想は悪くないが、なかなか本心の感情を表に出さないこの助手が、マーガレットの話になると表情を緩みがちにさせることに、本人は気付いているのだろうか。
「二十歳まで学んでたっていうのがまた、凄いですね。それで学者でもないんでしょう?」
「あの子の世界では成人が二十歳だそうだからな。平民でも多くは二十二歳まで学舎に通うんだと。医者や学者はもっとだそうだ」
この国は周辺諸国に比べると教育水準が高いが、それでも最高学府で十八歳までだ。平民は普通、十三、四歳で働き始める。
「俺、マーガレットの世界では医者になれそうもありませんや」
「僕もだね」
笑いあって食べ終わると、ちょうど子どもを連れた若い母親が診療所を訪れた。午後の診察の始まりだ。
患者は子どもではなく母親の方で、診察の後、母親から離れたがらなかった子どもの相手を任されていたマークは随分ぐったりとしていた。
「はあ、なんであんなに元気なんですかね……。あれだけ離れるの渋ったくせに、今度は診療所を壊す勢いで遊び始めるし。他に患者がいなくて助かりました」
「それが子どもというものだよ。青い顔でぼんやりしてる子より良いじゃないか」
「それは、まあ。いや、でも実際たまりませんよ。包帯一つ片付けられないし」
「はは、乳母でも置くか」
「また冗談を……いや、でも、いい案ですね」
ぼやいているマークに診療所を頼み、アディの屋敷へと向かう。後継にしようと教え込んだのでマークも一通りの診察と治療が出来る。未だに助手の位置にいるのは、王宮に独立医師としての届けを出していないからにすぎない。いつでも提出できる腕だが、実家のゴタゴタがあり様子見をしているようだ。折を見て、カードとして使うのだろう。
まあ、そんなだからよっぽどのことがなければ一人でも大丈夫だ。かえって彼に横恋慕している多くの若い娘がにわか患者になって詰め掛けることだろう。
マーガレットの往診も、怪我の状態を見るだけならマークでもいいのだが、王宮へ報告書を出す関係で自分が通っている……というのは建前でただ単に、あの子の顔を見てアディに会いたいからだ。
あの日。裏庭で動かせる程度に応急処置をした後に屋敷の客室に運び入れ、本格的に治癒魔術を施した。意識のない彼女を診療所へ連れ帰ろうとした僕たちを、アディは血相を変えて引き止めた。
『何をしているの。その子はここで面倒を見ます』
『そうは言ってもアディ、この子は “招き人” だろうけれど、どんな人間かは分からないじゃないか。君に危害を加える可能性だってあるし、看病だって負担だろう?』
『負担なんて大してありません。女の子ですよ、男ばかりの診療所へなんて預けられないわ。それに……この子は悪い子じゃない。分かるの』
同居人を勧めた時よりも断固として断られてしまった。こうなるとアディはどうしたって意思を変えないのは長年の付き合いでよく知っている。頻繁に往診したのは警戒と監視を兼ねていたからだ……全くの杞憂だったとすぐに知れたが。
マーガレットは穏やかな子だった。村人のだれに対しても同じように笑顔で接し、不快感を与えない。それが彼女の社交辞令の表情と分かったのは、アディや僕に向ける笑顔とは違ったからだ。
そうは言っても、貴族の裏表のようにあからさまでも嫌味もなく、純粋に彼女の社交的ではあるがその実、人見知りという性質からきているようだった。この村にあれが作り笑顔だと見分けられるものはまずいないだろう。王宮に多少縁のある自分でも、素の笑顔を向けられていなかったらなかなか見抜けなかったのではないかと思うほどに自然だ。
自分とアディの前でのマーガレットはあきれるほど素直で隠し事が下手。言葉が話せれば少しは誤魔化されたかもしれないが、すべての感情が顔に出てしまっている。マークに対してはもう少しだけ遠慮のようなものを感じるが、大抵僕たちと一緒にいるのでそれもあってないようなものだ。
体つきから成人女性と分かっていたが、二十八歳と聞いた時は信じられず何度も確認して怪訝な顔をされてしまった。とっくに結婚して子どもが二、三人いて当然の年齢だが、独身だという。彼女の世界では大して珍しくもないらしい。
肩までの黒い髪、きめの細かい白い肌、理知的な光を宿す焦げ茶と薄茶のオッドアイ……これは以前は違ったという。界を渡った影響だろう。華奢な手足に、どことなく幼さの残る顔立ち。普段は落ち着いた物腰なのに時たま子どもっぽいこともする。何というか、アンバランスな魅力のある女性だ。
視力があまり良くないことと、意思を伝えるには紙か手のひらが必要になることから、会話するときの距離が近い。それはもう非常に近い。村の男たちに余計な恋情を起こさせたくなかったら、その点気をつけるようにと何度も言ったが、分かっているのかどうか。
本人はしっかり者のつもりだが、どうも危なっかしいところがある。基本的に善人なのだろう、他人を疑うことがないように思う。まあ、この村で悪さをするような度胸のある奴には滅多にお目にかからないが。大概、平和なものである。しかし王都へ行く前にはよくよく言い聞かせないといけないだろう。
マーガレットと暮らし始めたアディの表情は、日を追うごとに明るく柔らかくなっていった。生き生きとした姿はまるで結婚前の娘時代の頃のよう。
じきに王都へ行ってしまうだろうが、少しでも長くこのまま、と願っていたところにマーガレットの方からアディの元にずっと居たいと相談されたのは僥倖だった。
アディの暮らしぶりは、一言で言って時代遅れだ。今時、あんなに魔導具のない家も珍しい上、その家のこともほとんど自力でこなす。料理人も置かず台所仕事も自分でしているし、それ以前に畑もある。田舎貴族の頃ならいざ知らず、恐れ多くも王都の伯爵家の奥様が好んで畑仕事をするなど……王都での生活が上手くいかなかったのは自明の理だ。
それでも、夫だった伯爵が亡くなり、息子が妻帯するまで王都にいたのはひとえに彼女の意地であり意思だろう。使用人を置かないのも、王都の伯爵家で心安らげるとは言い難い日々を過ごした故のことだと思えば何も言えるはずもない。
そんな不便な生活だが、予想外にマーガレットはそれらの手間を好んだ。もとより魔力のない世界で生きてきたので魔法や魔導具には違和感を感じるらしい。
向こうでも便利なものは多い生活で、アディの暮らしは五十年以上前に戻るようだと言うが、それでも魔導具よりは身近に感じるし、もともと手間仕事は嫌いじゃないと。向こうでは外での仕事に追われ生活をないがしろにしていたから、手をかけた暮らしで人間らしい生き方をしたい、と笑顔で言い切ったのだった。
屋敷に着くと台所の方から甘い香りが漂ってくる。爽やかな酸味を感じるその匂いに、マーガレットがここ最近の本懐を遂げられたことがわかった。呼び鈴を鳴らす自分が笑顔になっているのがわかる。
「やあ、とうとう苺ジャムを作っているのかい?」
「 」
「もうすぐ出来上がるからお裾分けします、ですって。よかったわねダニエル」
仲の良い母娘のように、これまた古い型の、しかし趣味の良いドレスを着た二人が台所で笑いながら料理をしている様子はまるで絵本の挿絵のようだ。渇望し、得られなかった光景……郷愁とともに心に優しい何かが流れ込んでくる。
ジャムの瓶詰めが一段落したマーガレットを近くに呼び小声で話す。
「怪我が治ったらこの爺さんがいくらでも付き合うから、ダンスの練習はもう少し待ちなさい」
「!!」
「畑からは見えにくいが森の端に小道があるんだよ。薬草を取りにマークがよく使うんだ」
アディの許可は貰っているんだよ、と言えば顔を赤くしてバツが悪そうに笑って見せた……やっぱり、誤魔化しのできない子だ。まるで子どものような素の表情につい、頭を撫でてしまう。
往診の診察も終わり、帰る時には焼きたてのパンと二瓶の苺ジャムを渡された。口止め料です、と人差し指を形の良い唇の前に置いたウインク付きで。
さて。この半分をマークに渡すかどうかは、多少悩むところだ。
お読みいただきありがとうございます!
ジャンル別日間ランキング1位っ…とても驚いています。え、夢?
少しでも楽しんでいただければ、この上なく嬉しいです。
2016.5.15 小鳩子鈴