傾向と対策その結果、つまりは日常(書籍三巻記念SS)
『森のほとりでジャムを煮る』3巻発売御礼「なろう特典SS」です。
待合室の奥に作った簡易保育スペース。そこが、診療所を手伝うときの私の定位置。
腕の中では今、赤ちゃんがぷすぷすと可愛らしい寝息を立てている。その傍で両手にお手玉を持って遊んでいるのは、この赤ちゃんのお兄ちゃん。
彼らは三兄弟で、一番上のお兄ちゃんの診察が済むのをここで待っている。
というのも先日、元気印の長兄くんが、納屋に掛けた梯子で遊んで落ちて怪我をしてしまったのだ。
そこまで高い位置ではなかったことが幸いして、骨を折ったりはしなかった。
けれど、どこかに引っかけたらしくて、額の上辺りからこめかみ近くまでをこう、さっくりと……ちょうど手伝いに来ていた私も診療所に居合わせたけれど、ああ、思い出しても痛くてそわそわする。
子ども達が遊んでいて、小さな怪我をすることは日常茶飯事。とはいえ、大怪我は滅多にないから驚いたわ。村の肝っ玉母さんもさすがに真っ青になって、お兄ちゃんを抱えて飛び込んできたのだった。
赤く染まった布を傷口に当てて押さえながら、「そんなに痛くないよ?」って本人はけろっとしていたし、マークや先生も「スパッと切ると、案外痛みは少ない」って言ったけど……。頭部の傷は出血が多いっていうの、本当だったわ。お姉ちゃんびっくりだよ、うん。
パッと見て分かる怪我人の登場に、待っていた大人達がこぞって順番を譲って、やっぱり皆優しいなあ、とか思ったりも。
治癒魔術ですぐに傷を塞いで、今は消毒と経過観察に通っている。
マークが言うには、治りは順調で特に後遺症も心配ないよう。通院も今日で最後だろう、とのことで、お兄ちゃんはウキウキして診察室へ入っていった。
そうだよね、診療所に来るよりも友達と遊びたいよね。怪我をした場所が場所で、傷も深くて、念のために運動もストップ掛けられていたから。
そんなことを思いだしていたら、腕の中で赤ちゃんがむずむずと動いた。
よいしょ、と軽く抱き直してあやすと、くぅ、とまた静かになる……窓から入る柔らかな日差しの下で、眠りながら小さい手で目元を拭う仕草がやたらと可愛い。
よちよち君はさっきからお手玉を持って、待合室にいるおじいちゃん、おばあちゃんに「はい、どーじょ」をして回っている。おかげで診療所は、ほのぼの空気で一杯だ。
「やった! マーク先生、ありがとー!」
「あ、こら、待ちなさいっ!」
そうこうしていると診察室の扉がバタンと勢いよく開いて、お母さんの制止も聞かずお兄ちゃんが走り出てきた。
そのまま外に行こうとするのを、入り口近くにいたトムじいさんにはっしと止められている。
「おう、坊主。走るな」
「わっ!? ご、ごめんなさいっ」
「あらトムじいさん、すみませんねぇ。お兄ちゃん、こっち来て荷物手伝って! マーガレット、ありがとうね」
最近、イメージは大幅に上方修正されたものの、相変わらず子どもにとっては怖い存在であるトムじいさん。思わず腰が引けたお兄ちゃんに、待合室の皆もしたり顔で頷いている。
帰り支度の整ったお母さんの腕に赤ちゃんをそっと戻すと、こちらに戻って来たお兄ちゃんが怪我をしたところを私に見せてきた。
「おねえちゃん、見て! ここね、だんだん薄くなって消えちゃうんだってー」
「傷痕が残ったほうが格好いい、なんて馬鹿なこと言って。この子はまったく」
お母さんがあきれ顔で笑うけれど、お兄ちゃんの気持ちも分からなくもない。最近流行っている海賊ごっこのヒーローは、顔に傷痕がある設定だものね。
ぐい、と前髪を持ち上げて額を出してくれる。私の視力ではほとんど分からなくて思い切り顔を寄せると、薄いピンク色の線がようやく見えた……うん、綺麗に治っている。縫合の必要がない治癒魔術って、やっぱりすごいなあ。
今のこの段階で私の左脚に残っているのよりもずっと薄い傷痕だから、やっぱり治癒魔術がどうこうというよりも怪我の種類が違うのだろう。
先生やマークは、今もいろいろ試してくれているけれど、ね。私自身はちっとも気にしていないのにな。
治ってよかったね、と額をそっと指先で撫でると、くすぐったそうにお兄ちゃんは笑った。
そうして、次の人を呼びに診察室から顔を出したマークにもう一度お礼を言って、母子は診療所を後にしたのだった。
患者さん達が途切れた休憩時間。
昼食を食べながら、マークがボソッと呟いた。
「……近すぎると思う」
え、何が。
美味しいごはんの最中なのに、なーんか不満そうにしているなあと思ったら。どうやら待合室でお兄ちゃんと密着していたのがよろしくなかったらしい。
ええと、確かに、かなり近かったかな。
こうして額を合わせて会話するのとほぼ同じ距離だったのは事実だけど、え、でも、相手は六歳の子どもだし。
「今日だけじゃない。それに、子ども相手にだけでもないだろう」
あれ、そうだった?
――うん、まあ、他人と接するときの距離の近さについてはずっと、ダニエル先生やウォルター様からも注意するように言われている。
普段から気を付けていないといざという時に困るだろう、という心配はごもっともなんだけれど、困ったことにミーセリーでは警戒心が湧かないんだよね、これが。
それに「お姉ちゃん、見てー」って子ども達が持ってきてくれるのは、小さくて細かいものばかり。
ガラスのかけら、綺麗な色の小石、花の種……必然的に距離が近くなる。
ちょっと思いついて、向こうの壁にかかった時計に視線を向ける。
――やっぱり、何度眇めても目を擦っても、あの細い針がよく見えない。
もともと乱視ではないんだよな。裁縫針に糸を通したりはスムーズにできるし、細かい本の文字も読めるから、対象物との距離だけが問題。それを再確認して、マークとまた額を合わせた。
『えっと、私の場合、目を凝らしたところで変わらないから、すぐに近寄っちゃうのかも。きっと、癖みたいになってるんだよね』
「……見えるなら、近寄らないんだな」
『うーん、多分?』
絶対とは言いきれない。だって基本的に無意識なんだもの。
善処します、とどこかの政治家のようにお茶を濁して、額を離した。
それからしばらくして。
王都の医療院帰りのマークから、お土産と称して眼鏡を渡された。「上京した時に眼鏡店に寄って」という話になっていたはずだったのに、待てなかったらしい。
フライングで私の元にやって来た、華奢で可愛らしい眼鏡。誂えたわけではなく間に合わせだから、そこまで度が合っているわけではない。
けれど、掛けてみて思わず歓声があがった。
今までぼやけていた遠くの景色が見える!
屋敷のベランダから、畑の野菜が見える!
見えないなりに生活に不便はなかったけれど、クリアな視界がもたらすインパクトはやっぱり大きい。
掃除し損ねたホコリを発見して、おお……となったりもするけれど、森から走ってくるバディの尻尾や耳の先まで見えるのは、控えめに言って感動するんだ。
その日はずっと村のあちこちや、森や、夜空を飽きるともなく眺めて過ごした。
ただ、妖精達や診療所で預かる小さい子は、この眼鏡が気になって仕方ないみたい。キラリと光るレンズや細い弦をどうにか触ろうと、一所懸命に手を伸ばしてくる。
結局、普段は掛けていられなくて、またマークにため息を吐かれるのだった。
『森のほとりでジャムを煮る』書籍3巻が本日発売になりました。
ここまでこられたのも、応援してくださった皆様のおかげです。このお話は、私にたくさんの出会いと素敵なサプライズを連れてきてくれました。
本当に、ありがとうございます!
マーガレットと一緒に歩いてくださった優しい皆様に、たくさんの「ちょっとした幸せ」が訪れますように……
2019年3月9日 小鳩子鈴
(書籍の帯にもありますが、なんと、コミカライズ準備中です! 詳細は順次、活動報告やTwitterでお知らせいたします)