レイチェルとウォルター 2
「予想はしていましたけれど。そこまでがっかりされると、なんだかショックだなあ。ウォルターが来られないのは僕のせいじゃないですよ、レイチェル様」
「そんなの分かっているわ。お兄様からも聞きましたもの」
ミーセリーへ向かう馬車の中。
いつもならウォルター様がいらっしゃるはずの席には、魔術院事務官のヒュー・タウンゼント。お父様が後見をしている彼は、我が家の魔術顧問的な立場で、本日はわたくしの警護の任でここにいます。
常にお忙しいウォルター様。それでも毎回ミーセリーには同行してくださっていたのですが、今回はどうしても王都を離れられず、代理としてヒューを指名なさいました。
「それで、ウォルター様はどのようなご様子だったの?」
「んー、僕のところにも来てすぐ帰っちゃいましたし。忙しそうなのは前からですけど、ちょっと顔色も悪かったかなあ」
「そんな……体調がよろしくないのかしら」
「まあまあ、レイチェル様。ウォルターも子どもじゃないですから、大丈夫じゃないですか?」
「大人だからこそ心配なのですわ」
子どもならば、休むように言ってベッドに縛り付けておけますもの。
いつもお忙しくしていらっしゃるのは、ご自分の仕事に責任をお持ちだから。全てに手を抜かないのはウォルター様の長所でもあり、ご自分の体をあまり顧みない心配なところでも。
でも「業務上の関係者」の娘で、「友人」の妹でしかないわたくしにできるのは、こうして気を揉むことくらい――悲しい現実です。
「ウォルターも魔術院の筆頭と似たり寄ったりの仕事人間ですからねえ。あの二人は少し手を抜いたらいいのに。それはそうと、もう少し速度を下げます? 顔色、真っ青ですよ」
「……ええ、お願い」
馬車が走り始めて間もないというのに、早々と襲ってくる胃袋がかき回されるような気分の悪さ。
不思議なことにウォルター様とご一緒の時は馬車酔いもそう酷いことはなく、自分では治ったとさえ思っていたくらいなのですが。
「お嬢様、私に寄り掛かってください」
「そうさせてもらう、わ」
胸がつかえるような吐き気と眩暈を堪え、マリールイズに支えられて残りの道中をなんとか過ごしたのでした。
何度も休憩を取りつつ、最初の訪問時のように時間をかけてたどり着いたミーセリー。情けない姿を晒しても温かく迎えていただけてほっとします。
「挨拶なんていいから少し横になって、大丈夫?」
「マーガレット、それを。ああ、ありがどう」
アデレイド様が優しく介抱してくださり、マーガレットさんが用意してくれた冷たい布を、ダニエル先生が額に置いてくださって……ふう、気持ちいい。
そうして休んでいるうちに、荷下ろしを済ませたヒューも居間に揃いました。
ソファーに横になるわたくしの上で飛び交う話題は、来られなかったウォルター様のこと。やはりアデレイド様もダニエル先生も、ご子息の体調を心配していらっしゃいます。
「ウォルターのことは、職場が近いレイチェル様の兄君のほうがご存じかと。ですよね、お嬢様?」
そうヒューに話を振られて、大分軽くなった体を起こし、わたくしも会話に加わりました。
「ええ。兄が言うには、食事や睡眠は取っているようだ、とのことですが……」
「周りの奴よりも仕事ができちゃうから、ウォルターにばっかり厄介ごとが回っていくんだよね。ま、でも、今回に関しては、そのおかげでこうして僕が来られたのだけど」
おどけたように肩をすくめるヒューに、アデレイド様が微笑みます。
「ヒューさんは泊まっていかれるでしょう?」
「そうですね、あ、でも、僕はマークのところにお邪魔しますのでお気遣いなく。こちらでは食事を頂けたら嬉しいです」
「それはもちろん」
「やった、ありがとうございまーす!」
ヒューの屈託のなさに、ようやく居間は明るい雰囲気になりました。
皆の楽し気な声が響くこの場に、いるはずのない人の姿を探してしまう――そんな自分に気付いて、わたくしは苦く笑ったのでした。
――あの日、お父様の書斎で聞かされたのは、わたくしの縁談でした。
まだ正式にではありませんが、婚約の打診が来たというのです。
それも、公爵家から。
「いつもなら、お前の耳に入れるまでもなく断るのだがな」
さすがに公爵家の嫡男がお相手では、内緒でというのも難しかったのでしょう。苦々しそうな表情のお父様の言葉を、やはり不満そうなお兄様が引き取ります。
「レイは最近、夜会にもほとんど出てないんだろう?」
「え、ええ。宵祭りの後から少し忙しくて、夜の外出はほとんど。日中のお茶会はそれなりに出ていますけれど」
「そうだよな。向こうだってこの前帰国したばかりだ。一体どこで見初めたのか……まったく油断も隙もあったものじゃない」
そう言って腕を組んでソファーにもたれるお兄様を、お母様がとりなします。
「もう、この二人は口を開けば文句ばかり。でもね、いいお話なのよ。これ以上ない縁組ですし、ご本人の人柄も悪くないと聞きます。向こうの刀自様を存じ上げていますけれど、素敵な方ですもの」
「お母様、分かっておりますわ」
安心させるように微笑んでみせると、お父様が身を乗り出しました。
「だが、まだ早いだろう」
「その通り。それに向こうの家格が上だろうと、レイが嫌だと言えばいくらでも断ってみせるよ」
「お、お兄様」
「あなた方はまったく」
格上の公爵家からの打診だというのに。豪語する父と兄にあきれて、母と顔を見合わせました。
本当に、困ったお父様とお兄様。
正直、娘として妹として、掛け値なしに大事に思ってくれている気持ちは嬉しい――嬉しいですが、侯爵令嬢として、それはないだろうと首を振ります。自分の立場が分からないわけではありません。
「お父様、お兄様。わたくし、二十二歳なのです」
「それがどうした。何歳になろうがレイチェルは我が家の、いや、リンドグレンに連なる者すべてにとって大事な愛娘だろう」
男系のリンドグレン家には令嬢と呼べる年齢の女子はわたくし以外におりません。とはいえ、この国の貴族女性の結婚適齢期は二十歳前後。
幼馴染の令嬢達もとっくに既婚者ばかり。
婚約者が他国にいて式をまだ挙げていない友人が一人おりますが、わたくしはその婚約者さえ持ったことがないのです――この、お父様とお兄様の働きによって。
ずっと心に想う人がおりましたので、かえって好都合と見て見ぬふりをしてきました。ですが、今回はそんなわけもいかないでしょう。
「このお話、わたくしの年齢もお相手の身分も、お断りの理由にはなりえません。お断りした場合、問題視されるのは当然こちらですわ。我が家の益になるとはとても思えませんけれど」
「そうですよ、レイチェルの立場も考えてくださいませ。ジュリアスだって自分の結婚を棚に上げてばかりで」
「私のことは放っておいてください、母上。周りには独身者も多いですし、肩身も狭くないですしね」
「貴方はそうかもしれませんけれどね、レイチェルは違うでしょう。ねえ、あなた」
お母様に睨まれながら、苦虫を嚙み潰したようなお顔のお父様がしぶしぶ、といったふうに口を開きました。
「では話を進めていいと? 正式に使者が立った後では、さすがに撤回も破棄もできない。それは分かっているな、レイチェル」
――馬車の閉じられた空間と、ミーセリーでの短い滞在の間だけに浮かぶ穏やかな表情。
そっと眺める横顔に、どれだけ愛しさを募らせたか。
あと少し、あの時間を共に過ごさせていただきたかったのですが……わたくしもそろそろ、進むべきなのでしょう。
痛む胸を堪えて笑顔でお父様に頷いてみせました。
「お父様、少しだけ時間をいただけますか? 今度、ミーセリーから戻るまで」
ウォルター様に、わたくしの気持ちをお伝えしよう。結果はどうあれ心を告げようと、そう決めましたのに。
お会いすることすら叶わないなんて、その時は思いもしなかったのです。