32 アデレイド
マーガレットを自室に下がらせてからの話し合いは、予想外に長引いた。このような機会はもう無いだろうと仰る王太后陛下が、自らの裁量でこの場で出来る限り細部まで決めることを望まれたからだ。
「私がここで決めてしまえば、貴族院や神殿から無駄なことを言ってくる者も減るでしょうしね」
畏れ多くもありがたいことではあった。何とかだいたいが纏まり、その他の細かいところは王都でウォルターが中心になって対応することになる。
見送りのためにバディに呼びにいってもらい、マークに手を引かれて階下に降りてきたマーガレットは、まだ目元が赤いものの少しは休めたようで憔悴した感じはなくなっていて安心した。
屋敷の前で王太后陛下をお見送りして戻り、ベランダの揺り椅子で少しだけ休もうと思って腰掛けたら動けなくなってしまった……思った以上に疲れていたらしい。
「アディ、大丈夫かい?」
「ダニエルは王宮の皆さまを診察したりしていたから、慣れてるものねぇ」
「もう何年も前だよ。はい、お茶」
「ありがとう……私なんて最後に登城したのはもう十年以上前よ」
マーガレットが入れてくれた蜂蜜入りの紅茶を私に手渡しながら、自分もカップを片手に隣のベンチに座るダニエル。診療所は先に帰らせたマークに任せて今日はここに残ってくれた。
……温かく甘いお茶にほっとする。夏なのに体は冷えていたようだ。軽く強張る指先をカップにつけて暖をとる。
「やっぱり緊張したみたい」
「気さくな方ではあるけれどね、どうしても威厳というか。でも、どちらかというと陛下がというより、いろんな話を聞いたからじゃないかい?」
「……そうね、そうかもね」
僕も知らない話ばかりだった、と呟くダニエル。そんなに申し訳なさそうにしなくても、貴方のせいじゃないのに。
「マーガレットの怪我は、これからも僕が診るよ。たとえ治らなくともこれ以上酷くならないように責任持ってするから」
「貴方が診てくれるのだもの、それは心配してないわ。ただ……まだ若いのに。代わってあげられるならいくらでも代わるのに」
「マーガレットの足はそこまで悪い状態ではないよ」
「それはわかっているけれど、」
ええ、本当にわかっている。ショックだったのはこれ以上治らない足の怪我より、マーガレットが此処にいなかったかもしれないということの方。マーガレットが負った怪我や負担よりも、自分と会えなかったかもしれないことの方に衝撃を覚えるなんて。
あの子は母親のように慕ってくれて、私も娘のように思っていたはずなのに……こんなに自己本位だった自分に驚いて怖くなった。
「……アディ。僕はね、たとえマーガレットがもっとひどい状態でここに来たとしても、それでもやっぱり、来てくれて良かったってきっと思うよ。マークだってそうだろう」
台所から聞こえる音に顔を向けながらダニエルは言う。働き者の娘は早速夕食の支度を始めたようだ。魔導具もないこの暮らしに満足してくれていると、知っているのに後ろめたく思ってしまう。
「自分で驚いたわ。すっかりマーガレットのいる生活が当たり前になっていて……だって、よく考えたら半年も経っていないのよ。それなのに」
「こういうのは時間の問題じゃあないんだろうね。まるで恋のようだよ」
私を元気付けたいのだろう、ダニエルは少しおどけて言った。その気持ちが嬉しくて口元が緩む。
「ふふ、本当にね。それなら仕方ないかしらね」
「そうだよ。マークを見てごらんよ」
この人の息子になったあの子が、マーガレットに出会ってからの変わりようは目を見張るばかりだった。
頑ななばかりだった来た頃。少しずつ角が取れてきても、仮面は取らなかったその後の長い年月。この春からの数ヶ月で、面差しまでも変わったマークは、きっと今の姿が本来のものなのだろう。若者らしい闊達さ、よく回る頭から飛び出す辛口のジョーク……未来を望む視線。
「……マーガレットは、不思議な子ねぇ。本人にそんなつもりはないのでしょうけれど」
置こうと思った垣根をいとも簡単に無いものにしてしまう。あの笑顔で、纏う雰囲気で。意地も取り繕いも必要無いと言わんばかりの鷹揚さ。この村の人々にあんなに簡単に受け入れられたのだって、『招き人』だからというわけでも、化粧を教えたからでもない。
マーガレットだから。しがらみも先入観も持たず、真っ直ぐにその人となりを見つめてくれるあの子だから。
あの子は知っていたかしら。鍛冶屋のターニャは嫁いできてからずっとミーセリーに馴染めずにいたことを。小間物屋のアンナは年嵩の人たちからはその派手な服装で遠巻きにされていたことを。
噂や評判を耳にしても鵜呑みにはしなかった。そして自分で会って、話して……言葉や仕草は荒いけれども、料理上手で情に篤い人だったターニャ。店の宣伝になればと必要以上に張り切っていただけのアンナ。
仏頂面の八百屋のご隠居だって、マーガレットが店先によると何かと口を挟んでは楽しそうに笑っている。
ある程度は親しくなれても一線は越えられない私と村人との間がより近づいたのも、マーガレットが間にいるから。仕事柄必要だったから得意になったの、と言うけれど、滅多に表に出ない粉屋の婆様や生まれたばかりの赤子まで村中の人の名前をあっという間に覚えた……自分では呼びかける声を持たないのにもかかわらず。
村に出るたびに、誰かと話し笑って帰ってきては楽しそうに教えてくれる。また意外な人と、と思う私に言ったのだ。
『噂を全部は否定しないけれど。でも、受け取り方や感じ方はそれぞれだから。誰かが酸っぱいと言ったブドウも私には甘いかもしれないし、本当に酸っぱくてもジャムにしたらきっと美味しいわ』
私が困っていた時に真っ先に手を差し伸べてくれたのは、偏屈と評判の近所の御老人と、学舎一嫌われている怖い先生だったの、と。
色眼鏡をせずに自分を見てくれるあの子を嫌える人はそういない。
マークの隣を歩くようになって、村の若い娘たちから少しは睨まれたようだけれど。もともとマークが一人しか見ていないことは周知の事実だったし、マーガレットの人となりを知っているから、嫉妬が純粋な羨望と見守りに変わるのにもそうかからなかった。
第一、あんなマークを見ていたら嫉妬も懸想も馬鹿らしくなるわね。マーガレットも、他の人の前では頼れるお姉さんの立ち位置だけど、あれだけ甘やかされてようやくマークの前でだけただのひとりの娘になる……そこまでされないと人に寄り掛かれないのは、一人で頑張りすぎるあの娘の困ったところではあるけれど。
マークが付いているなら、あの娘は折れずにやっていけるだろう。
仲の良い二人に遠い記憶を重ねてしまう。「もし、」は、ないのに。
地方の由緒だけは正しい名ばかりの伯爵家の末子の私と、領地を持たない男爵家の次男のダニエル。幼馴染みの私たちは気付けばいつも一緒にいて、自然と婚約者になった。二人で過ごす未来に何の疑問も持たなかった。
そう、全てを独りで取り仕切っていた父が突然亡くなり、予想し得なかったほど多額の債務だけが残されていた領地の実態が発覚するまでは。
よくある話だ。悪いことばかりだったわけではない。実家も領地も助かった。ウォルターを授かり、経済的に不安なく暮らしてこられた。このミーセリーの屋敷だって森だってもともとはダスティン伯爵家のもの……ここにいたからマーガレットとも出会えたのだから。
そして今、ここで一緒にお茶を飲んでいるのは夫ではなくダニエルだ……もう、これ以上は望めない。
「……こんな私でも、まだ好きでいてくれるかしらね」
「当然だろう。母娘なんだから」
「そして貴方はマーガレットの父親でもあるのでしょう?」
あの子の声が聞こえたことを冗談めかして言えば、不意にカップを置いて真剣な目をした。
「……アディ。本当の家族になろう」
「ダニエル?」
「今更かもしれないけれど、やっぱり僕には君しかいないんだよ。あの時に取れなかった手を、最期の時は繋いで過ごしたいと思うのは我が儘かい?」
夢だろうか……都合の良い夢。揺り椅子の肘掛に置いた手が震えた。
「過去は変えられない。君を伯爵に奪われて、死に物狂いで勉強して。王宮筆頭医師にまで成り上がってもやっぱり、過去は変えられないんだ。ダスティンの元で苦しんでいる君を知っていたのに助け出すこともできなかった」
「ダニエル、それは違うわ」
「いいや違わない。僕はそのことを否定してはいけないんだよ、君の為にも。だけどアディ、この先は別だ。こうして隣に居られるだけで満足すべきなんだろうけれど、あの二人を見ていたら欲が出てしまった」
少し困ったように笑った顔を見ていたら、すっと私の前に片膝をついたダニエルが、肘掛の手の上にその温かい手を重ねた。少しかさついて厚さのある大きな手。あの頃、何度も繋いだ手。いつも引いてくれた私の道標……振り払ったのは、私。
「……ダニエル。貴方は悪くないわ」
「うん、アディはそう言うだろうね。だからね、アディ。君のこの先を僕にくれないか。過ごすはずだった時間を僕の元に戻してくれないか?
夏も、冬も。あと何回一緒に宵祭りに行けるだろう、ねえ、僕はもう一日だって無駄にしたくないよ」
これは夢だと思いたいのに、重ねられた手に強く握られて現実に戻される。そんな…そんなこと、
「許されるわけないわ……」
散々蔑ろにしてきて今になって。何年、何十年? 一方的に婚約を破棄して後妻に入った私と、ずっと独り身を貫いたダニエル。どちらが悪いかなんて火を見るよりも明らか。真剣な瞳は目を逸らさせてくれない。
「僕以外の誰の許しが必要?」
「ダニエル…」
「それとも、もう一度オレンジの花を贈るところから始めないと駄目かい?」
ああ、やっぱりこの人が。
「……マークに教えたのね? 今の若い子は知らないものね」
「僕はその時は結局成就できなかったけどね、でも今、こうして捕まえてる」
穏やかに微笑んで両手でそっと私の手を包み込み、軽く持ち上げて見せた……結婚してから泣くことはやめたのに、マーガレットと出会ってから私は涙もろくなったようだ。
「花が咲いたら贈るよ。でも、春までなんて待てないからね」
日々、畑仕事や炊事をして荒れた手はどんなに手入れをしても実に貴族らしくない。その手が好きだと、貴族のアデレイドではなく、僕のアディを好きになったのだからと言ってオレンジの花を髪に挿した。
あの日の白い花は、私の中で枯れることなく咲いている。
「……もう、お婆さんよ」
「僕もお爺さんさ」
一緒だね、と笑うダニエルの顔は、滲んでよく見えなかった。