23 レイチェル・マーガレット
素晴らしい夕食でした。
皆がストレートでいただく食前酒を、マーガレットさん一人だけがジュースで薄められるという愉快な場面が早々にございましたおかげで、ロイやマリールイズも緊張することなく食事を楽しめました。
マークさん(ディズレイリ様とお呼びしたら、困った顔で嫌そうに苗字で呼ばないでほしいと言われました……)に身振り手振りで抗議するマーガレットさんは歳上のはずなのに何故か可愛らしく、つい応援してしまいます。
立場上、様々な方とたくさんの場でお食事をする機会がありますが、味も雰囲気も比べられるものではありません。
豚肉とハムのパイは少しだけ厚めのパイ皮がジューシィな肉汁を逃さず包み、ボリュームのある肉の味は程よく効かせたスパイスとハーブが引き締めて。ロイの手が止まらないのがよくわかります。
ちょうど今日届いたのよ、と出してくださった美しいオレンジ色のスモークサーモンは畑の野菜とともにサラダを彩り、柑橘の香り爽やかなオイルドレッシングがまたよく合います。
インゲンを柔らかく煮込んだもの、プレーンなプチパン、スライスしてトマトやパセリを乗せたパン。キャベツの甘酢は箸休めにもちょうどよく。
ウォルター様の好物だという丁寧に裏ごしをしたジャガイモの冷たいスープは、とても滑らかな舌触りで喉をするんと通り抜けていきます。
他にもデザートとしてさっとコンポートにしたビワや、濃厚なクリームとスポンジ、果物を層に重ねたトライフル……。
どれも目新しいものではないのに、まるで初めて食べるかのような新鮮な美味しさに驚きます。楽しい会話と相まって、ウォルター様が同席されているというのに普段よりもたくさん食べてしまいました。大食いと思われてたらどうしましょうっ……、で、でも美味しくて、止まらなかったのですもの。マリールイズも分かってくれるわよね、この気持ち。半分涙目で見つめたら、力強い頷きで返されました。
「我が家の料理人に文句はありませんが……こちらに修行に来させたくなりましたわ。ヒューが食事がどれも美味しかったと言っておりましたが、本当ですのね」
「まあ。お口に合ったのなら嬉しいわ。ヒューさんは気持ちいいくらいよく食べてくれたわねえ」
マーガレットさんと顔を見合わせて楽しげに返すアデレイド様。テーブルいっぱいのお料理の数々は、綺麗に皆のお腹におさまりました。
魔導具が苦手とおっしゃる通り、台所にもほんの僅かしかありません。それでも短時間にこれだけのものを作れるなんて。
何でしょう、侯爵邸のキッチンが色褪せて見えてしまいます。
珍しく満腹になるまでいただいたのに、食後のお茶の頃には胃がもたれるようなこともなく十分な満足感だけが残りました。
ロイとマリールイズはさすがに居間に同席はご辞退申し上げましたが、台所で気楽にお茶をいただいています。
そしてマーガレットさん、片付けの時までは普通でしたのに。今は暖炉の前にくたんと座ってバディをほとんど抱きしめるようにして撫でながら、かすかに頬を染めてぽやぽやと一人楽しげに笑っております……酔っていらっしゃる? ジュースで割られてましたよね、度数は高くないはずですが。
もとより笑顔の多い方ですが今のお顔は何とも無防備で、なんだか見てはいけないものを見てしまった気がして同じ女性なのにドキドキします。
「おやマーガレット、今頃酔いがまわったのかい」
「飲んだのは弱めのりんご酒じゃなかったか?」
「……次からは薄めるのも無しだな」
レイノルズ医師が熱を見るように当てた手に、気持ち良さげに頬を寄せるマーガレットさん。後ろで不穏な空気を発するお弟子さんがいなければ、ほのぼのとした親子の絵のようです……マークさん、医師の上司相手に嫉妬は見苦しいですわよ。
聞けば、お酒はあまり強くないとのこと。本人は否定していらっしゃいますが、この状態を見る限り説得は無理そうですわね。お茶でなくお水を渡されてしまいましたわ。
マーガレットさんの足元を心配されたマークさんは、段差と階段にくれぐれも気をつけるようにとくどいほど言って帰られました。案外すぐに酔いは醒められたようで忠告ですみましたが、そうでなかったら抱き上げてお部屋まで運ばれる勢いでしたわね。
マーガレットさんがミーセリーに現れた時に負っていた怪我はそれは酷かったらしく、まだ足が完治していない現在、どうしても過保護な扱いをされてしまうとこぼしています。過保護というより溺愛ではないかしらと思ったのは、そっと心にしまっておきますわ。
『私、こちらでは二十六歳だけれども元の世界では二十八歳なのよ』とやるせない表情で書いて、同じ歳と判明したマリールイズとがっしり握手をしておりました。
外見だけなら二十二歳のわたくしより歳下にも見えるのですが、マーガレットさん……二十八…そうですか。
まだ普段よりも早い時間でしたが、マーガレットさんとウォルター様に朝に備えて早く休むように言われました。朝に何かあるのでしょうか。少し不思議に思いましたけれども、移動で疲れていたのも確かなのでお湯をいただいてすぐに寝台に入ります。
「ねえ、マリールイズ。わたくし今朝までは王都にいたのよね」
「どうしましたか、お嬢様」
「ここはなんだか別世界のようよ。とても居心地が良くて……私が私のままでいられるの」
社交界から離れているからでしょうか、アデレイド様もマーガレットさんも、わたくしを持ち上げることも否定することもありません。確かに “侯爵令嬢” ということは理解してくれた上で、ただ一人の個人として話しかけて笑いかけてくれるのです。だからわたくしも、わたくし個人の思いで返事ができます。それがとても心地よい。
肩書きの上でこそ成り立つ関係を否定はしませんが、やっぱりそれだけでは寂しくて。わたくしの肩書に、容姿に、勝手に期待されては勝手に失望されることの虚しさ。
家名だけでも、容姿だけでもなく、欠点をも全て含めた私自身を丸ごと受け入れてほしいという願いがここでなら叶いそうな気がします。猫をかぶる必要も、顔色を窺う必要も無い関係……それがどれだけ貴重なのか、持てる人には分からないでしょう。
マリールイズも心当たりがあるのか、しきりに頷いています。
「ロイとも同じようなことを話しておりました。馬たちも初めての場所なのにやけに落ち着いているそうです。こちらの皆さまが親切なのもありますが……不思議ですね、これが『精霊の招き人』の恩恵なのでしょうか」
「分からないわ、書物にもそんな事は書いていなかったし……」
「この内弁慶のお嬢様が、憧れのダスティン伯爵と普通に会話できていらっしゃいましたものね」
「っ、ま、マリールイズっ、からかうなんてひどいわ」
楽しゅうございましたね、でも体はお疲れなのですからお休みになってくださいませと、ふわりと毛布をかけてくれたマリールイズの顔もいつになく穏やかな微笑みで飾られていて……。
さらりとしたシーツ、ちょうどいい固さの寝台。柔らかな毛布からは微かにハーブの香り。
『招き人』には魔力がないかもしれないけれど、ミーセリーには魔法がかかっているのではないかしら……。
たゆたうような眠りへと落ちていったわたくしは翌朝、鳥の声って実は結構大きいという発見もすることになるのでした。
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……おはようございます。
今日くらいは静かな朝を迎えたかったのだけれども、鳥たちには人間の都合は関係ないようで。レイチェル様、びっくりしてないかしら。あの後すぐに休めたならいいのだけど。
卵と野菜を採りに外へ出ると台所前の流しでロイさんが馬たちにあげる水を汲んでいて、私を見ると手を止めてにっこり笑ってくれた。
「鳥? ああ、僕は地方出身なんで慣れてますから大丈夫ですよ。いつもこのくらいには起きるのです」
それならよかった。ロイさん、実はヒューさんの同級生だそう。防御魔術に特化している腕を見込まれて、リンドグレン侯爵に専属護衛として雇われたんだって。へえ。
馬の世話をするところだそうで、見てみたかったのでお願いして一緒について行く。
アデレイド様は馬車を持っていないけれど、この屋敷にはもとから馬小屋はある。ずっと空いていたそこに二頭の焦げ茶色の馬が繋がれていて、朝ご飯中だった。
あれ、バディも遊びに来ていたのね。バディ、大きいと思っていたけれどさすがに馬と並ぶと小さかったわ。小さいバディ……新鮮でなんか可愛い。私に気づいてこっちに来たバディを撫でながら、邪魔にならないように少し遠巻きに馬の世話をするのを眺める。
興味津々で見ていたら、触ってもいいですよとロイさんに勧められた。そうっと首筋に手を添えてみると、ベルベットのように滑らかな毛触り。犬や猫よりもダイレクトに伝わってくる体温と、しなやかな筋肉の動き。艶やかに潤んだ黒い瞳。
大きいのに綺麗で可愛くて……よっぽど私は惚けた顔をしていたのだろう、バディにスカートを軽く引っ張られて我にかえるとロイさんに温かく見守られていた。うう、恥ずかしい。
何となくバディが拗ねてる風だったので、照れ隠しも兼ねてぎゅうと抱きついて無茶苦茶に撫で回したらご機嫌が直ったようだった。
「この馬はもともとおとなしい子たちですが、こちらでは特にリラックスしているようです。とても居心地がいいですね……森が近いからでしょうか」
そうなんだ。私もここ、大好きなのよ。気に入ってくれて嬉しいわ。
もうじき朝ごはんだから終わったら来てねと手のひらに書いて、バディを連れて馬小屋を後にした。
野菜を幾つかと卵を手に台所に戻ると、皆さん勢ぞろいだった。あれ、ごめん、待たせちゃった?
「おはようございます、マーガレットさん。外に行ってらしたの?」
私の持つ卵と野菜を興味深そうに見つめるレイチェル様。あ、採りたかったかな? 同じことを思ったのだろう、アデレイド様がにこやかに提案してくれた。
「出来上がるまでまだもう少しかかるし、そうねえ、ブルーベリーができ始めているわよね。摘んできてもらえるかしら?」
レイチェル様の目が輝いています……朝から可愛いなあ。そんなわけで籠とザルを持ち直してもう一度外へ。はい、ウォルター様もご一緒に。籠を渡して誘うと、意外そうにしながらもちゃんと来てくれた。マリールイズさんに目で合図したら小さく握りこぶしをぐっとしてくれて、二人を後ろに置いて私の横に来てくれた。分かっていらっしゃる。
「マーガレット様、ナイスです」
二人で頷きあう……だって、ねえ。レイチェル様の気持ちなんてちょっと一緒にいたらすぐ分かるっていうの。なんで気付かないのかしら、ウォルター様ってやっぱり鈍……いやいや。
すっごいもじもじしているレイチェル様を楽しくチラ見しながら、畑と森の境あたりに植わっているブルーベリーのところへ着いた。濃い色になって熟してるのから採ってねと、手分けして樹のそばへ行く。
もちろんあの二人は同じ樹に置いてきた。こう、作業しながらだと案外近くにいても気にならないし話題もできる。まあ、話がなくても手を動かしていれば気まずくないし……って、嫌だわ、見合いを仕切るおばちゃんのようじゃないか。
目を向ければ、何か楽しそうに話しながら摘み始めている。よし、私もやるか。
普通ならこんなに鳥が近くにいるのだからブルーベリーなんかは食べられてしまうものだけれど、ここにはほとんど食べに来ない。きっと森にごはんが沢山あるからわざわざこっちまで出てこないんだと思う。ブドウとかサクランボとか、網をかけて守ったりするよね。豊かな森が近くでよかったなあ。
さて、私の収穫籠は紐が付いている……自分でつけたの。これで腰に結びつけると両手が空く。どれだけ採る気だ? いえいえ、職人と呼んでください。木になる小さい果実はやっぱり両手でささっと採りたいでしょう。何故か頭に回るのは茶摘み歌、夏もちーかづーく……。
「あの、マーガレット様? 随分採られましたわね、さすがですわ」
「手早いな……」
おや、お終いかな……うん、確かに。私の籠だけみんなの倍量くらい入っている。えへへと笑ってごまかして戻ることにする。
全員のを合わせてもまだジャムにするほどの量では無いけれども、お菓子には十分。とりあえずは洗って、朝食のヨーグルトにでも入れましょうね。




