22 レイチェル
お部屋の用意をするからここで寛いでいて、と優しくおっしゃってアデレイド様とマーガレットさんは居間を後になさいました……ウォルター様を残して。
お茶をいただいてお話ししているうちに体調はすっかり良くなっていたのですが、正直、日帰りは無謀だったかと自分の馬車酔いに気落ちしていたところでした。泊まりの勧めはとてもありがたく思いましたが、侍女やメイドを置かず、通いの下働きが週に何度か来るだけと聞いていたのに、わたくしの訪問で余計なご負担をお二人に強いるのが申し訳ないです。マリールイズの手伝いも、あなたはこちらをお願いとやんわり却下されてしまいましたし。
それを言えばウォルター様は気にしないようにと気遣ってくださいました。
「もともと私やヒューが来るのに合わせて用意はしていたようですので、さほど手間ではないでしょう。見ての通りの屋敷ですから侯爵家とはだいぶ趣が違いますが、一晩お休みになるには問題ないかと」
「調度のことでしたら。海の方にある叔母の別荘がこちらのような雰囲気で、小さい頃から大好きだったのですわ。お二人のお手伝いができたら良かったのですが、わたくしではかえって足手まといでしょうね」
ああ、そうは言うもののウォルター様と差し向かいでこんなにお話ができるなんて夢のよう。し、しかも今夜は同じ屋根の下にっ……どうしよう、眠れるかしら。
「お嬢様、お茶のお代わりを失礼いたします」
「……ええ、お願いするわ」
いけないわ、気をしっかり持たなくちゃ。マリールイズ、ナイスタイミングよ。それに……
「マーガレットさんは気持ちの良い方ですのね。アデレイド様ともすっかり打ち解けていらっしゃって」
「ええ、あの二人はまるで母娘のようでしょう?」
「本当に……ウォルター様とも仲が良くていらして」
本当に。驚きました……ウォルター様がマーガレットさんにかける言葉の一つ一つがどれも温かく親しみのあるもので。何気ない仕草にもにじむ丁寧な気安さ。ご結婚されていた時にご夫婦で家にお見えになった時も、奥様とこのような雰囲気だった記憶はありません。
明らかに “特別な女性” としてマーガレットさんを遇していらっしゃるのが分かって……胸が痛みます。わたくしは今、ちゃんと笑えているかしら。
それに、こんなに親しくお相手をしていただけるとも思ってもみなかったです。
「そう……ですね、何というか。妹ができたみたいで」
「妹、ですか?」
曖昧に笑うウォルター様。妹、とおっしゃった……いもうと。ご自分の右手を見つめながら独り言のように続けられる。
「私と母はずっと仲違いをしていましてね。いや、私が一方的に距離を取っていたのですが。マーガレットが来て、ここに足を運ぶことになって……まあ、要は彼女のおかげで母との関係が戻せたのですよ」
「……それは、申し訳ございません。言いにくいことを」
「いえ、こちらこそお恥ずかしい話をお聞かせしました」
離婚なさった頃、別れた奥様がアデレイド様のことを悪し様に言っていたことは耳にしたことがあります。その時も何を馬鹿なことをと思ったけれど。あれからずっと関係がこじれたままだったとしたのなら、とてもお辛かったことでしょう。
「マーガレットは母に助けられたと言っていますが、私にとってはある意味、彼女が恩人なのです。ですから、彼女が望むように取りはからいたい。ここにいたいというのなら最優先で母との暮らしを守りたいと思っています」
「……奥様になさろうとは思われませんか」
聞いてしまったのは、思わずでした。ポロリと、本当にポロリと出てしまった言葉は戻しようがなく何と差し出がましいことをと激しく後悔しましたが、ウォルター様は少し驚いたようにしながらも嫌悪は抱かなかったようでした。
「それは、ないですね。私は結婚には向かないようですし」
「そんなことはっ、ウォルター様は悪くありませんわ! あれは、あの方が…」
「レイチェル様……?」
ハッと我にかえり慌てて謝罪を口にしました。そう、辛かったのはわたくしではない。わたくしが勝手に憤って良いことでは決してない。
「か、重ね重ね失礼なことを……。あ、あの、わたくし、ウォルター様がご結婚に向かないとは思えませんの。だって、子どものわたくしにもあんなに優しくしていただいて…」
「ああ、覚えていらっしゃるのですか。随分前のことですが」
「いいえ、いいえ。わたくしの大事な思い出です。忘れることはありませんわ」
ほんの小さな頃。初めて行った王都の城下町で、はしゃぎすぎて侍女の手を振り切りお約束のように迷子になったわたくしを見つけてくださったのは、当時騎士団に在籍し、城下を警邏していて偶然通りかかったウォルター様でした。人通りの少ない路地裏に入り込んで、転んで怪我をしてうずくまっていたわたくしを軽々と抱き上げて運び、すぐに方々に手配し、手当てしてくださった。
そして、しっかりと叱ってくださった。
両親にも他の大人たちにも甘やかされて育ったわたくしは、善悪の判断も覚束ないような箱入り娘で。他人から叱られたのは初めてで怖くて、でも撫でてくださった手のひらのお父様とは違う温かさが、抱き上げてくださった腕の力強さが忘れられなくて。
その後も、怖い顔に見えるけれどよくよく見れば優しい目をしているとか、従者を始め下の者に対するさり気ない気遣いに気付くたび、ウォルター様はわたくしの中でどんどん大きくなっていきました。
ウォルター様は困ったように苦笑されました。
「小さなレディが強面の大男に叱られたのに、優しくされたと仰る」
「命の危険ですらあったのです。思慮の足りないわたくしのことを慮ってくださったのでしょう、ありがたいことでした」
今度こそ、わたくしの言葉は意外だったようです。
「……そのように言われるとは、思ってもみませんでした。怖がらせた自覚はありましたし」
「それ以外にありえませんわ……ごめんなさい、こんなことを。困らせてしまいましたわね」
「っ、いえ、」
お部屋の支度が整ったとアデレイド様が声をかけてくださったので、ウォルター様が何を言おうとされたのかは分かりませんでした。
……こんなにたくさんお話できたのは初めてです。嬉しくて、つい頬が緩みます。しかも、マーガレットさんのことは「妹」とおっしゃる……マリールイズ。そのにやにやは余計ですわっ。
案内していただいたのはさっぱりとして温かみのあるお部屋でした。一目で分かる高級さや重厚さの代わりに、繊細に丁寧に作りこまれた家具や、初夏にふさわしいリネン類。この短時間で可愛らしい花まで飾ってあり、手紙が書けるように一式揃えてくださっています。
ウォルター様が泊まっていらっしゃるお部屋の近くには護衛兼馭者として連れてきたロイにも部屋をいただき、マリールイズの部屋は私の隣。二人とも気持ちよさそうなお部屋に恐縮しつつ喜びを隠せないでいました。
部屋数だけは沢山あるのよ、と微笑まれるアデレイド様に手紙を書いたら夕飯まで少し横になってはと勧められましたが、何となくもったいなく感じて、マーガレットさんに邪魔をしないから側にいて良いかとお願いをしました。
何故か一緒にいたいと思ってしまうのです。確かにお声はありませんが、筆談と、それ以前にお顔の表情で色々察せますので特に困ることもありません。にこりとされると胸がふわんと温かくなります……この前読んだ小説に娘同士の熱い友愛の物語がありましたが……違うわよね。ええ、そういうのじゃありませんわっ。
快諾してくださったマーガレットさんは、台所仕事をされるといいます。マリールイズの反対を押し切ってジャム作りのお手伝いをさせていただいたのですが……楽しかった。
侯爵邸ではキッチンに入ることはありません。そんなわたくしに出来ることは少なく、言われるがままにお鍋の中の杏が焦げ付かないように、ぐるぐると混ぜ続けているしか出来なかったのですが。
お鍋の中でとろけて形を変えていく果実。鮮やかな橙色、甘酸っぱい爽やかな香り。瓶に詰めればまるで王都の店で売っているようなジャムが出来上がっていきました。
瓶に入りきらなかった少しだけ余ったジャムを小ぶりな器に移すと、マーガレットさんがいそいそと出してきたのは小さなパン。そのパンをマリールイズと三人でちぎって分けて、バターを少しと出来立てのまだ温かい杏ジャムを塗ってぱくりと一口……お行儀なんか忘れて立ったまま。落ちそうになるほっぺたを押さえるのに忙しかったです。口に入れた瞬間、普段は涼やかなマリールイズの目がこぼれるほど大きくなっていました。
勝手に踊り出したがる足を、何とか貴族の矜持を思い出して必死に抑えたわたくしは褒められていいと思うの。
さすがに夕食のお手伝いには手を出せず、テーブルについて噂の飼い犬バディの背を撫でながらお二人のお料理を見るばかりだったのですが。ウォルター様も近くに座って、気詰まりにならない程度にあれこれと話しかけてくださいました。どうしてか不思議なことに今日は緊張せずに話せます。いつもは挨拶で精一杯ですのに。嬉しくて楽しくて、夢のような時間でした。
手早いのに慌ただしさはなく調理場に立つ二人の手から次々と出来上がるお料理の数々。声は聞こえませんが、マーガレットさんはどうやら歌いながらお料理をしているようです。本当に楽しそう。
せめてとテーブルセッティングのお手伝いをさせていただいていると、玄関の呼び鈴が鳴りました。せっかくだから一緒に夕食をと、侯爵家に手紙を出すついでにウォルター様が声をかけていらしたそうです。
「やあ、こんばんは。もう馬車酔いはすっかりよくなったかな?」
「は、はい。あの、はじめまして。レイチェル・リンドグレンでございます。その節は祖父が大変お世話になりました」
かつての王宮筆頭医師、ダニエル・レイノルズ氏。今でも彼を超える医師はおらず、復職を熱望されながらミーセリーに診療所を構え隠居されていらっしゃる。祖父の命の恩人だと、繰り返し話に聞くのにきちんとお会いするのは初めてです。
「病気が治ったのはお祖父さんが頑張ったからだよ。僕はほんの少し手助けをしただけ」
「いいえ、祖父が天寿を全うできたのは先生のおかげだと。父は今もよくそう申しております」
そうかい、と軽く笑うレイノルズ医師。そして挨拶を終えるとまっすぐマーガレットさんの方へ行くお弟子さん……マーク・ディズレイリ。私より二つほど歳上のこの人は王都では有名人でした。
名門ディズレイリ伯爵家の優秀なほう。庶子とはいえその血筋の良さと文武に秀でた資質を持ちながら取り巻かれる人付き合いを拒否し、秀麗な容姿で多くの女性を虜にしては袖にする。刃物のような冷たい目をして一人でいることを好んだ彼は、目の前の男性と本当に同一人物なのでしょうか。
「……ねえ、マリールイズ。さっきのジャムよりよほど甘いと思わない?」
「同感ですわ、レイチェル様。酸味のかけらもございませんね」
料理の邪魔にならない距離を保ちながら決して離れずお二人に何かを話しかけては、しばしばマーガレットさんを赤面させていらっしゃる……そのご自身がとても幸せそうなお顔をしていることは、お気付きでないようです。マーガレットさんも困ったようにしながらもなんとなく嬉しそうなのは、そういうことなのでしょう。
ウォルター様とレイノルズ医師が気にされずに話し始めたところを見ると、珍しいことではないようです。なるほど、ヒューの情報には誤りがございましたわね。
「私のお嬢様の外見に一目と興味を持たない殿方は貴重でございますよ」
「何を言っているのかしらね、マリールイズは……」
うちではみんな一緒にねと仰るアデレイド様の差配で、マリールイズもロイも同じテーブルに着きました。本当にアデレイド様は貴族的ではございません。わたくしの叔母もその傾向がありますので抵抗はないのですが、王都の社交界ではさぞやりにくかったことでしょう。
でも、ここではそれがとても自然に思えて。誰の顔を見ても、目が合えば逸らすことなく自然と笑顔になる雰囲気の中、和やかに食事をいただいたのでした。