20 マーガレット
朝一番に特別配達された手紙に驚いた。王都から、私の話し相手候補として侯爵御令嬢がいらっしゃるという……今日これから。ウォルター様は多少驚いたものの、手紙を読めば納得したようだ。
「あくまで顔合わせとあるから、面会だけしてそのまま王都に戻るのだろう。ヒューが同年代の話し相手がどうのと言っていたから、先に対応したのだな。私が居るうちの方がいいと決めたようだ」
「ウォルター、このお嬢さんとは面識あるの?」
「多少なら。お父上の侯爵とは仕事でよく顔を合わせるのですが。そうですね……非の打ち所がない立派な令嬢という印象ですね」
侯爵家って、随分高い方の身分じゃなかった? 確か王家、公爵家についで三番目でしょう。そんなお嬢さまに面会するのに、百貨店の接客技術くらいじゃ礼法が心許ないわ。知らずに無礼なことをしてしまったりしたら、アデレイド様にも迷惑がかかってしまう。
慌てているのは私だけで、ウォルター様もアデレイド様も落ち着いたものだ。
「気にすることはない、身分で言えばマーガレットは制度から離れている。君は王族とも対等、いや、それ以上の立場なのだから。悪い人物ではないから気軽に会ってみて、良さそうだったら日を改めてゆっくり話せばいい」
「お友達になれたらいいわねえ、マーガレット。ミーセリーは若い子が少ないから」
いや、そんな立場いらないと言えば、知っていると笑顔で返された。まあ、確かに若い子は少ないですよ、同年代は既婚者ばかりだし。でもこんな生粋のお嬢さまと何の話をすればいいやら……と腰が引けていた私は、手紙をもう一度よく読んでそのお嬢さまの名前に釘付けになった。
……レイチェル・リンドグレン侯爵令嬢。
惜しい。非常に惜しい。何故レイチェル・リンドじゃないんだ。俄然、会ってみたくなった。
お客様のことは心配しなくて大丈夫というお二人を信じて普通通りに過ごすことにした。御令嬢は侍女さんと護衛兼馭者さんの少人数でいらっしゃるというから掃除の他は特に準備することもない。今日は診療所の日ではないので、いつものように午前中は家事をして過ごす。暑くなる前にと畑の目立つ雑草を抜いていたら、森に薬草を摘みにきたマークが裏庭に寄ってくれた。
昨日の今日で何だかどうしようと私は挙動不審気味だったのに、普段通りのマークの憎らしいこと……あ、いや、嘘ですごめんなさい、薬草ついでに森からビワを採ってきてくれたのね、やったぁ、ありがとうございます! え、こっちは杏? 杏もあるの、 宝の森だねえ。すっごく嬉しい。
「欲しいって言ってただろう。足が治ったら案内するから」
ビワと杏で喜ぶ私を満足そうに見ると、マークは黄色い果実が山盛りの籠を置いて私の頭から麦藁帽子を取った。少し乱れた髪を直してくれる手があまりにいつも通りで……この人はずっと同じスタンスだったんだなぁって。赤くなった自覚のある顔を下に向けていたらそっと降りてきた手で上を向かせられてしまった。
草取りをしていたから手袋が土だらけで触れないし話せない。ゆっくりと名前を呼ばれて観念して視線を上げるも、ああっ、美形っぷりに目が痛い。え、なに、なんで顔が近寄ってくるの、わあ、後頭部押さえられてて退がれないじゃないかっ。形のいい唇が頬をかすめて耳のすぐそばに……ちょ、ここ外、朝っ、
「……バディはいる?」
なんでそれをわざわざ耳元で囁くかなあっ!?
いるよっ、呼ぶの? 呼べばいいのねっ、バーディー!
絶対に遊ばれてる気がしてキッと睨むけど……あんまり嬉しそうに眺められて、怒る気もなくしてしまったわ。その目、反則。
ごめんって笑って謝りながら麦藁帽子を戻して、楽しそうに指の背で頬を撫でるから、もう、なんか。勝てそうにない。心臓のうるさいのにも軽く諦めがついたところでバディがこっちに来た。
声も出ないのに何故かバディには伝わるみたい。いつも呼べば来てくれる。でも、耳が動いていないところを見ると、音として聞こえてるわけではなさそうだ。不思議だなあって思う。
わふわふと近寄って私の隣についたバディを、ちょっと借りるよと言ってマークは連れて行ってしまった。畑の向こうまで離れると何故かマークは居住まいを正して、しゃがんでバディと目線を合わせたようだ。
あれだけ離れられるともう、私の目では表情なんかさっぱり見えない。ぼんやりと大まかな動作が分かるくらいだ。見えないものを見ているのも何なので、もう終わるところだった草取りの片付けに戻ることにした。そうするうちに二人は戻って来て、問いたげに見上げる私にマークはさも当然のことのように教えてくれた。
「バディに報告をしたんだ。許可は貰えたみたいだよ」
何の?
「アデレイド様は台所?」
そうだけど。なに、どうしたの。マークの質問に頷く私はまだ意味がわかっていない。マーク、ちょっとその晴れ晴れとした笑顔はどういうこと。
「俺たちのことをね、保護者には伝えておかないと」
え。それって、それって、
「ダニエル先生にはお見通しだったけれどね」
……アデレイド様よりバディの方が先って、どういうことでしょうかね。後からこのことをアデレイド様とウォルター様に言ったら、笑いながらその順番で正しいって断言された。なんでだ。
私が台所の外にある流しで杏とビワを洗っている間に、マークはアデレイド様にもさっくり告げると診療所へ戻った。挨拶代わりに手にキスをして……水使ってて濡れてたから手首にされたんだけどっ、スキンシップ多くない!? ひたすらに恥ずかしいけど嫌だとは思えないところが我ながら何というか。
それにアデレイド様にも「そうだと思ったわ」なんて微笑まれてしまって、なんだかもうね、ああ、井戸水が冷たくて気持ちいいわ。
そういえば、ダニエル先生も私の後見をしてくれているので、先生のところにも朝届いたのと同じ手紙がついているそう。先生はレイチェル様とは面識がないけれども、マークは会ったことがあるそうだ。
「……まさしく侯爵令嬢、って感じの人だったな」
話したことはないからよく知らないが、と見た目の印象を教えてくれたが。私はその “侯爵令嬢” という方々にお会いしたことがないのでなんとも想像がつきませんのよ。都内の百貨店で働いていたから、ごくたまに皇族の方がお越しになったけれど化粧品フロアは通過だったからなあ。ううん、令嬢……ベルばら位しか思いつかないけど、絶対違うと思う。
洗ったビワは蠅帳の卵の隣に置いて、お客様は午後に到着だろうということでまだ時間に余裕があるし、杏の下ごしらえをしようか。
ざるに上げたぷりぷりの杏の水気をそっと拭き取りながら、なり口に残っている軸を一つ一つ取っていく。梅酒の時にもやるこの作業が結構好き。竹串や楊枝でくるんってするとポロって取れた時の爽快感はなかなか病みつきになる。
その後は、杏に縦に入っている線に沿って包丁を一回転ぐるっと入れて、両手でひねると綺麗にパカンって割れる。取り出した種は別に取っておいて、実はそのままボウルへどんどん。皮付き半割の実が山盛りになったら、重さの六〜七割の砂糖をまぶす……はい、杏ジャムです。イチゴよりさらに砂糖が多いですよ、ふふふ。
食べてみればわかるけれども、プラムと違って杏は生のままだと味がぼんやりしている。で、酸味は結構ある。そして、なんだっけ、ペクチン? が少ないんだかなんだかで、砂糖が少ないと固まらないって聞いた。
砂糖を減らしてペクチンを入れるレシピもあるようだけれども、私は砂糖増量一択で。あまりの量にぎょっとするけれども女は度胸。そしてまた、水分が出るのを待って煮ると。
で、取り出した種はまたよく洗って乾かしておく。これはね、梅酒のようにして砂糖と一緒に度数の高いお酒に漬け込むとリキュールになるの。そう、アマレット。正式な作り方は確か種を割って中の杏仁を取り出して使ったはずだけど、私は種を丸のまんまウォッカと氷砂糖で漬け込んだこれを自家製アマレットとしていた。だって、種割るのってかなり大変。大丈夫、種のまんまで十分風味が出て美味しい。
炭酸やジンジャーエールで割ったり、お仲間の杏仁豆腐に少量ふりかけたり。香りがいいのよね。
杏って、ほんの一瞬しか店頭に出回らないから見つけた時が勝負だった。そんな日に限って味噌と醤油と油が切れてて、重たさに泣きながら帰ったのもスーパーあるあるの懐かしい思い出……裏の森で採れるなんて。あの苦労が夢のよう。
そういえば、ビワの種もお酒にできた。こっちは健康酒のジャンルだったかな、食べた後に捨てないでおこう。ビワの葉っぱは漬け込んで化粧水も作れるし、いやあ、果実の木は無駄がなくていいね!
ウォルター様は昨日に引き続き視察に出かけたが、今日は昨日見きれなかった残りの分だけなので昼過ぎには戻るって言っていた。そのまま村長さんと食べてくると聞いたから、本日の昼食は久しぶりにアデレイド様と二人。よし、早速ビワはデザートにしようっと。
ビワ……私が育った北国にはビワの木がない。いや、あるのかもしれないけれど実はならない。寒いとダメなんだって。関東に転勤で引っ越して、普通に外にビワの木があって実がついているのを見たときは驚いたわ。多分、バナナがなってるのを見たのと同じ感動だと思う。だって、ビワなんて果物売り場の冷蔵コーナーで箱入りメロンの隣でご大層にパックされたのしか見たことなかったから。もちろん買ったことはない。
駅までの通勤途中にある区画整理地区の中の小さい畑の隅にビワの木があって、うわあって見てたら地主のお爺ちゃんがもいでくれた。あれが私の初ビワ。思ったより淡白で、でもみずみずしくて優しい味だった。
あと、私のアパートの近くの街路樹にソテツやアロエが植わっていて、それにもかなりびっくりだった。だって、温室のものが外に! 屋外にあるってどういうこと。
それに、金木犀。あれも寒い地域は冬を越せないから、芳香剤じゃない金木犀の香りは初めてだった。本物はあんまりにもいい香りで、パラパラと落ちる小さなオレンジ色の花を集めて部屋に置いたこともあった。日本って地球儀で見ると小さいけれど、その中では全然違ってたのよね。
この世界はどうだろうか。地図は見せてもらったけれど、距離感が分からないからなんともぼんやりとしている。でも、日本だって少し前までは足で歩ける距離で生きていたんだよね。車や電車や飛行機ができる前は、徒歩か馬で行けるくらいが人生の範囲だったはず。
王都の話や隣国の話も聞くけれども、なんとなくお伽話のようで……まあ、ゆっくり。焦ってもしょうがないね。
とりあえず直近の問題を解決すべく、昼食に添える野菜を採りに畑へ向かうのだった。