1 マーガレット
「マーガレット、ここにいたのね。無理をしては駄目よ、まだ怪我は全部治っていないのですからね」
それなりの広さがある手入れの行き届いた菜園で籠を持ち、ゆっくりした動きで二人分の野菜を収穫する私にかかる声。一人で外に出るのはまだ駄目だとたしなめる、いたわりと優しさがにじみ出るその声に私は笑顔と頷きで応える。
こちらに近づくのは大きなアフガンハウンドみたいな犬のバディと、飼い主のアデレイド様。大怪我で転がっていた身元不明不審者の私を保護し、治療を施し、さらに衣食住の面倒を見てくれてた奇特な女性だ……そう、私は死んだのではなかった。なかったが、信じられないことに違う世界に来てしまったのだ。
あの日、地面の上で意識をなくしたはずが、ふっかふかのベッドの上で目が覚めた……全身の激痛とともに。私を見下ろしていたのは二人の御老人……白衣を着たロマンスグレーなおじいちゃんと、クラシックなワンピースドレスのおばあちゃん。その女性を見た時、痛みも一瞬忘れて私の頭によぎったのは呑気な愛読書の記憶。
「え、ターシャさん? やっぱ天国! それとも赤毛のアンの世界?」
そう、かのテューダー女史によく似た雰囲気の清楚なおばあさまが、ここの女主人のアデレイド様でいらっしゃった。私の思いは激痛に負けて声にすらならなかったが、脳内ではものすごーく混乱していた。
白衣のおじいちゃんがなにやらもぞもぞやって (痛すぎて見られなかった) 治療が終わると少しずつ痛みも引いたが、二、三日は鈍痛と発熱に苦しめられベッドから動くどころか、体を起こすこともままならなかった。
その間、食事を運び、食べさせ、体を清めてと献身的に看病してくださったのがアデレイド様。
起き上がれるようになってから知ったが、アデレイド様は隠居した貴族女性でいらっしゃるが、この広い屋敷には使用人がおらず、基本的にすべてをご自身でなさっている。
週に二日、通いの下働きや御用聞きが来るがその程度。自分よりも若いのに役に立たない身元不明の怪我人の世話を嫌な顔一つせずにしてくださった、まっこと女神様である。
痛みが引くにつれて、自分の今の状況を知りたいと思う余裕が出てきたが困ったことがあった。
声が出ないのだ。
アデレイド様に優しく名前を聞かれて答えようとした私の口から出たのは、音にならない空気だけ。真っ青になりながらはくはくと何度も試す私をそっと制して温かい紅茶を淹れてくださった。紅茶を一口いただいて……私はその時、初めて泣いた。声もなく音もなく。ぽろぽろと涙が溢れて止まらなかった。
突然死んだと思ったら生きていて、でも知らないところで大怪我していて。
理解が追いつかない。
自分さえ分からなくなりそうで急に怖くなって……ようやく、それを実感したのだった。
ここは違う世界で、私は戻れないのだということを。元の世界の私はあの事故で死んでいるのだと。どうしてかは分からないが、それが事実だと心が知っていた。
嗚咽さえも音にならない。命の代わりに声をなくして、わたしはここにやって来たのだった。
失くしたものはもう一つあった。わたしの目。ごく普通の日本人の焦げ茶色の目だったのに、片目だけ金色に近い薄茶色でちょっとしたオッドアイになっていた。今のところ、理由も活用法も分からない。
残念なことにあまり良くなかった視力はそのままで、眼鏡もコンタクトもないので多少の不便はある。とはいえ、日常生活がおくれないほど見えないわけではない。一メートル離れると顔がぼやけて見える程度だからまあ、どうにかなる。ここでテレビを見るわけでも、車を運転するわけでもない、大丈夫。
何故か言葉は理解出来た。ヒアリングもリーディングも問題ない。なので意思疎通は筆談になる。この世界の文化・生活レベルはちょっと昔の欧米って感じで色々元の世界と同じようなものがある。紅茶だったり、犬だったり。ただやっぱり本は高価らしく、そうすると必然的に紙も無駄にできないので筆談は手のひらや地面を使っている。
私の名前はどうにも発音がしづらいようなので、この世界での名前をつけてほしいと頼んだらしばらく悩んだ後に “真珠” という意味を持つ「マーガレット」と名付けてくれた……私が真珠のピアスをしていたから。
フォーマルに使う真円のではない、フェルメールの絵画にあるような涙型の、それよりは小ぶりの芥子真珠。金具に工夫をして、ちょっと引っかかったくらいでは外れないようにしてある。
基本的に接客業はアクセサリーは禁止だが、私は母の形見の真珠をお守り代わりにいつもこっそり身につけていた。ミディアムボブの髪でうまく隠れることと、まれに見つかっても真珠ということで見逃してもらえていたのだ。
この世界に手ぶらでやって来たわたしの持ち物はボロボロになった身につけていた服と、片方だけの靴、壊れた腕時計、このピアス……前の世界の数少ないよすがを名前にしてくださったのだった。
アデレイド様は私が異世界から来たことを、私より先に気付いていらっしゃった。私のようなのを『精霊の招き人』と呼ぶらしい。
大陸全体で百年に一人か二人というから決して多くはないが、実際に記録も残っている。決して禁忌でも秘匿でもない。王宮を始め、貴族に囲われることもあるが市井で生きる人もいる。何らその処遇に決まりはなくその時々だそうだ。私を始め『精霊の招き人』といわれる者の特徴は二つ。
一つは魔力がないこと。
もう一つは精霊や妖精と接することができること。
これを聞いて、なんてファンタジー! と思った私は悪くないと思う、うん。だって、魔法だ精霊だって、童話や漫画や映画の世界だもの、読むのも観るのも好きだったわ。幻想世界は世知辛い現実を一時忘れるには最適よね!
聞いてみれば、魔力は多い少ないはあれ生きているものは皆が持っているそうで、魔力がないのは死んでいるのと同じ。わお、私ゾンビ扱いですわ。
で、見る人が見れば魔力量というのはわかるそうで、私の場合はあの怪我の治療をしてくれた白衣のおじいちゃん……お医者様のダニエル先生が「これは魔力無しだ」と看破したと。ついでにあの怪我の治療は魔術でもってやってくださったそう。だからこそ魔力無しがわかったのだけど。
両手足その他の骨がいっちゃってたのだが、とりあえず数日で動けるようにまで回復したのだから、魔術すごい。使えないの残念。
そしてもう一つの方は、アフガンハウンド似のバディが連れてきてくれた。やたら懐いてくるバディをモフモフナデナデしていたら、背中に透き通る羽をもった手のひらサイズの小さい子たちがぴょこんと長い毛の間から顔を出した。
わぁお、妖精? やっぱファンタジー! って、そっと手を出したらちびっ子たちが乗ってきたので可愛くって構った。つんつんするとくすぐったそうに身をよじって、優しく撫でると気持ちよさそうにうっとりして。
私も私も、と次々やってくる小さい子たちを順番にいじくり倒していた私の姿は、はたから見ると金色に光る粒々に囲まれていたそうで。
地球で言うところの蛍のようなその光る粒は『妖精の卵』とこの国では呼ばれている。普段は森の奥深くにいて人が来ると姿を隠し、滅多に目にすることは叶わないのだという。それが頻繁に私のところへやってくる……それはもう、そういうこと。
『精霊の招き人』は、そのまんま、この世界の精霊に招かれてやってくるという。後日、ダニエル先生が借りてきてくれた本にそう書いていた。
精霊はその存在によって世界を安定させる役割があり、招き人はその補助のようなものらしい。その為、見つかれば疎略に扱うことはせず、本人の希望を第一に身の振り方を考えてくれるそうだ。戦争やなんかでよっぽど国内が荒れていたら無理だろうけど、今は国王様が立派な方で平和らしい。ありがたい。
このお屋敷はちょっとした田舎町のはずれにあるが、王都も近い。私が望めば王宮でも神殿でも喜んで身柄を引き受けるだろうという。怪我が治るまではここにいたらいい、そのあとは貴女の希望を最優先するわと、優しく告げたアデレイド様にはどこまでも好意しか感じない。
で、私は結局どうしたかというと……アデレイド様にお願いをした。お世話になったお返しをさせてください、と。ご迷惑でなければここに置いてメイドとしてでも使ってくださいと。
子どもの頃に亡くなった大好きだったおばあちゃんを思い出させる、優しいアデレイド様がすっかり好きになってしまっていたのだ。離れたくないほどに。
料理も洗濯も掃除も、家電がないから手間はかかるだろうが一通りはできる。何てったって家事歴十五年、一人暮らし歴十年のベテランだ。今はこんなだが怪我が治れば結構力持ちだから、家の修繕や色々も多少は手伝える。
それに、この話をしたのはここに来てひと月ほど経った頃だったはずだが……手紙も含め、親戚や家族などがいらした形跡がないのだ。アデレイド様がひっそりと居間の暖炉の上に並んでいる家族写真をよく眺めているのも知っている。
この広い家に一人でいて話し相手はバディだけなんて。
でも、それが好きでやっているのであれば私の申し出はただの余計なお世話でしかない。だから、それも一緒に伝えた。大好きになったから一緒にいたい。でも、迷惑はかけたくないと。実際、養い口が一つ増えるのだし。
そんな私の申し出を後押ししてくれたのがダニエル先生。やはり前々からアデレイド様の一人暮らしを心配されていたのだ。何度か同居のコンパニオンをと勧めたがいつもやんわり断られていたという。
ダニエル先生の口添えもあって、大好きです、一緒にいたいの、お願いします! の、もうそれプロポーズだろっていう私の熱い申し出を、アデレイド様は眉を下げて受け入れてくださった。貴女が行きたくなったら何時でも出ていっていいのよ、という条件付きで。私が出るのはアデレイド様がそう望んだ時ですと返したら、それじゃあ私が死ぬまでじゃないって涙目で笑っていらっしゃった。
だから、あと五十年はありますねって一緒に笑ったのだった。




