有色透明
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雨の高台。屋根のついた休憩所の質素な木造椅子に月子と斗真は座っていた。しとしと、降っている。同じく木でできた机には水玉と群青の傘が立てかけられていた。
「雨のにおいがする。このにおい、割と好きだ。このにおいがすると、今日は読書の日だ、って思うの」
「おれは、あんまり好きじゃあないな。なんだか、囚われた感じがするんだ。水の檻に収監されたみたいな、窮屈なんだよな」
斗真は呆れたような、それでいて諦めたような顔をして眉をしかめた。今も斗真は雨の檻に囚われている。環境だけで言えば憂鬱でしかない。今は話し相手がいるので紛れていたが、もしこれで雨音しか聞こえない状況であれば苛立ちに身を委ねているところだった。
「そういうのも、分かるかもしれない。包囲されてるって言うのかな。逃げ道なんか無いって、そう言われてる感じする。でも、壁があるって、守られてるのと同じことだと思うの。それは、壁があったら、閉塞感がある。でも、壁があれば、外敵から身を守れるでしょう? そういう、安心感というのが、私は好きなの」
「おれはその、守られてるってのが気に食わないんだな。なんというか、性に合わないんだ。むず痒くなるんだ。守ってる方がいいと思うね。少なくとも、雨に守られてるってのは、癪だ」
斗真がむっとする。月子は小さく微笑んだ。
「貴方らしくて、素敵。私、おんなじ意見で群れるより、自分と全然違う意見を持った人と話してる方が楽しい。同意し合って、そうだね、しか言わないのは、あまり好きじゃないの。だから、もっとたくさん、色々なことを話そう」
「お前らしいな。おれも楽しい。時間もあるし、色々話そう。問題ならいくらでもある。話題なら尽きないさ」
なんだかお前みたいな喋り方になった、と斗真は笑った。邪魔な音は雨音が掻き消してくれる。今ここにいるのは自分たちだけだと、二人はそう思った。笑えるのはそのためだった。
「今回の議題は?」いつも通りのトーンで斗真が聞く。
「空気」当たり前の様に答える、月子。
「空気?」
「大気じゃないよ。空気」
「それ、どういう違いだ?」
「空気は、雰囲気とも言うよね」
「なるほど」
斗真は大きく頷いた。なるほど月子は、なにも、あたりに充満している窒素や酸素について論じようとしているわけではないらしい。いわゆる、空気感とか、そういうものについて話さんとしている。斗真は密かに胸を高ぶらせた。
「それで、まず、何で空気なのか話そうか」
「そうだね、そうしよう」
月子は絶え間なく降る雨を見つめたまま、人形の様に首だけで頷いた。もう一度、今度は自分に言うように「そうしよう」と呟く。そして、一拍置いて斗真の方を見た。真っすぐな目だった。斗真もそれを真っすぐ見返した。
「雨のにおいがした。それは雨が降る前、空が曇った時の話だ。別に私は予知能力者じゃないから、その時は、ただ天気予報を思い出してたの。でも、今思えば、私は空気を読んでいたのね。そう思った。だから今回の議題は空気なの」
なにかの宣言のようだ、と月子は自分で思った。言葉に出さなくてもいいことをあえて口に出すような行為を、月子はあまり好んでいない。しかし、思ったことを口に出すだけの単調な流れは、それなりに好きだった。
「曇ってたから雨が降るかも知れないと思ったんじゃなくか?」斗真は呆れた口調。
「うん、違う。私はそのとき布団の中にいた。外なんて見えなかった。それでもにおいがした。あるいは、予感がしたんだ。これについて、貴方の意見が聞きたい」
なるほど、と斗真は一人うなずいた。興味深い命題だ。こういう、些細なこと、特に考えても意味のないことをあえて考えるナンセンスが、斗真は好きだった。対して、月子はその命題に対する一つの答えを求めていた。
「そういうことなら、話そう。そうだな、おれは、それは、理性っていうか、人間的な部分で判断されたわけじゃないって思う。野性的とか、本能的なとこで、直感してる。なんていうのかな、先天的、みたいなもの。逆に言えば、空気を読む、っていうのは、後天的なものだと思う」
「それは、どうして?」
「おれは、人間って、あとから生まれてくる物だと思うんだよ。それで、人間が人間である条件、つーか、人間性ってのが、理性だと思っているんだ。だから、この理性がない、本能的なのは先天的で、理性に基づいてたら、後天的。って、そう思う」
言いながら、それではおれは人間だろうか、と考える。そもそも、人間とは何であろうか。しかし、口に出したら、夜が明けそうだ。斗真は浮上した問いを心の奥底でシュレッダーにかけた。
「面白い意見だわ。概ね、同意。けれどその、空気を読むということについては、もう少し議論の余地がありそう」
月子の同意に、斗真は少しだけ驚いた。月子も、自分の言ったことに驚いている様子で、楽しそうに話を続けた。
「客観的には、空気って無色透明だわ。だけど、主観的には、例えば私個人にとっては、空気って、まっさらじゃないんじゃないかな。私たち、きっと、空気の顔色をうかがっているの。だから、空気を読むって、そういうことだわ。目には見えない色を、私たち、見てるの。空気が読めるとか、読めないとかって、その色を読み取る力がどれくらいあるかって、ことじゃないのかな」
「でも、空気って透明だ」
「うん、透明だ」
頷く二人。
「濁ってなくて、きれい。だけど色があるなら、やっぱりここは、私がいたい場所じゃない」
月子は膝を抱えて口元を埋めた。彼女の求める世界は、どこまでも退廃的だ。月子はそれを自覚し、斗真もまた、そのことに気がついた。
もしかして月子は、どこにも行きたくないのかもしれない、と、斗真は何となく思った。あるいは、どこでも生きたくないと言ってもよいのかもしれなかった。月子は賢い。人よりも多くのことを考えては、人よりも諦観した答えを出しているのだろう。そんな彼女にこの世間はあまりにも息苦しく、目まぐるしいものに映っているに違いなかった。
そう考えると、やはり自分と月子は違う、と斗真は強く実感した。斗真は知的好奇心のために行動している。この世にまだ解き明かされていない謎があることが、とてつもなく煩わしい。かゆいのだ。だから斗真は自分の足で探し、自分の頭で考える。彼にとっては思考は手段であり目的であり、そして彼の行き着くところでもあった。
だからこそ、思考することを原因に持つ月子とは、本来相容れないのだ、と、斗真は不思議に実感していた。噛み合ない理由も、噛み合う理由も、思考だ。錆び付いたのも潤わすのも思考なのだ。斗真は改めて月子との関係を奇妙なものだと感じた。
「もう、行こうか。ここも、私の場所じゃないみたいだから。貴方の場所は?」
「意味のないところ、かな」
「それはまた、難しいわね。けれど、興味深い。私も一緒に探してもいい?」
「もちろん」
月子は微笑んだ。斗真は仏頂面で、傘をとって、二人で歩いていった。
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