3.チョコの行方
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あぶなかったぁぁ・・・
そんなことを思いながら盛大な溜息をつきつつ、思わず出てきてしまった教室を振り返る。
危なかった、とは言っても何が一体危なかったのか正直なところ茜はよくわかっていない。
桂子の言うとおり、結局は最後に自分で食べてしまうチョコなのだ。あの場で皆で食べても別に問題は無かった。
あんなことを言って出てきてしまった手前、すぐには戻れないなぁ・・・なんて考えているとバックから覗く紙が目に入る。
「あー、アンケート用紙・・・」
そういえばご飯を食べた後で、実際松井先生のところにこれを渡しに行くつもりだったのだ。すっかり忘れていた。
嘘から出た真・・・なんてぼんやり考えつつ、茜はそのまま職員室へと向かった。
「失礼しまーす」
ガラリ、とドアを引いた室内は暖かかった。
部屋の隅のほうに設置されているストーブの上でやかんがひゅうひゅう気の抜ける音を立てている。吹き抜けの渡り廊下を歩いてきた茜は急な温度変化にずず、と鼻をすすりつつ松井先生の姿を探した。
少しくたびれたトレーナーに小太りの後姿はすぐに目に付く。
「先生」
茜が声をかけると、五十も近い茜の担任はのんきにお茶をすすりながら振り返った。
「あぁ、大沢か」
にっと相好を崩した松井先生は、笑うと人の良さそうな目尻のしわがいっぱいに垂れる。
「プリント持って来ましたー」
そう言ってバックの中にしまわれたプリントを取り出そうとしたが、貰った友チョコを適当にバックに突っ込んだせいでプリントは底の方で押しつぶされていた。
茜が顔をしかめながら用紙を出すのにもたついていると、その様子を見て松井先生が目を細めた。
「なんだ大沢、俺にチョコを持ってきてくれたのか」
へ、と思いがけない言葉に顔を上げると、松井先生がにっと笑いながら茜のバックを指差していてはっとした。
バックの口から青い小箱が今にも落ちそうに顔を覗かせていたのだ。
「えっとぉ・・・、いや、これは」
慌てて小箱を押し込めながら言い訳を探していると、松井先生は明らかにがっくりと肩を落としてうう、とうなだれた。
「そうか、違うのか・・・。昔はこう見えてもバレンタインになると紙袋いっぱいのチョコをもらってたんだがなぁ・・・」
そんな先生の呟きに、うっそだぁ・・・と胸中で呟きつつ、そういえば松井先生にチョコを渡す、という名目で教室を出てきたことを思い出す。
茜はバックの中に視線を落とし、青い小箱を見た。
家族以外の男の人に渡すのだ。最後に自分で食べてしまうくらいなら、この際松井先生でも十分バレンタインらしいことをしたことになる。
・・・なんか、欲しそうだし・・・。
ちょっとだけ考えてから、茜はバックの中からようやく取り出したプリントを先生に渡した。
「何言ってんですか先生。先生は奥さんと可愛い娘さんからもらうんでしょ?
毎年自慢してるじゃないですか」
「はは、まぁな」
茜が半睨み気味に言うと、松井先生は先程までの気落ち振りはどこへやら、というくらいにこにこと嬉しそうに笑いながら茜からプリントを受け取った。
それからどこか子供っぽい仕草で人差し指を立てると、にやりと笑って声を落として茜に忠告した。
「一応ここは職員室なんだから隠しとけよ?生活指導の先生に見つかったら怒られるぞ」
「・・・はーい」
茜が気のない返事を返すと満足したように頷き、それから何かを思い出したようにあ、と一声あげて振り返った。
「大沢、ついでに松木呼んできてくれないか?あいつもこのアンケート調査のプリントまだ出してないんだよ」
「松木君、ですか・・・。でもさっき教室にいなかったみたいですけど」
先程出てきた教室内の様子を思い起こしながら茜が言うと、松井先生はあー、と少し考えるように天井を仰ぎ、それから茜に向かって申し訳なさそうに言った。
「多分屋上だろ。すまんが、ちょっと見てきてもらえんか?」
「屋上って・・・今二月ですけど」
出来ることなら教室すら出たくない季節なのに、何をしているんだ松木君。
そんな怪訝な表情が思い切り出ていたらしく、松井先生は苦笑しながら頬をぽりぽりとかいた。
「まぁ、ああいうやつだから・・・。すまんが頼むぞ」
そう言われてしまえば断る理由も無くて、茜はしぶしぶ暖かい職員室から出ることにした。
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「さっぶいっ・・・!」
鉄製の重いドアを開けた途端、打ち付けるような冷たい風が茜に正面からぶつかってきた。
茜はここぞとばかりに気持ちよく晴れた快晴の空を恨めしげに眺めながら、少しでも日の当たって暖かい場所へと移動して、それからぐるりと一周首をめぐらせた。
「いないじゃん・・・、先生のうそつき」
無駄に寒い所に来てしまった、と顔をしかめたが、太陽の日が当たって風が吹かない分には思いのほかぽかぽかと暖かくて気持ちが良かった。
手すりに寄りかかりながら、溜息一つ。
バックから青い小包を取り出して、茜はもう一度はぁ、と溜息をついた。
一体自分はこれをどうしたいのだろう。誰かに渡したいのは確実なのだが、その誰か、が具体的にいるわけでもない。ただ単に、バレンタインらしいことをしてみたいだけなのだ。
それなら別に、松井先生でも良かったのに。
それとも内心、自分で食べるのを楽しみにしているのだろうか。確かにおいしそうだったけど、そこまで卑しくないやい、と首を振る。
「何してんの?」
一人だと思っていた屋上で、突然かかった声に茜はぎくりとして顔を上げた。
「まっ、松木君」
茜が入ってきたドアの上、貯水タンクの置かれた一段高い場所に見覚えのある顔を見つけて、茜は先ほどの一人問答を見られていたのかと思うと気恥ずかしさでぼっと顔が赤くなった。
「こんな寒空のしたで、物好きだね」
半分眠そうな目で言う松木君に、茜は思わずおい、と心の中で突っ込む。
誰を探しに来たと思ってるんだ、とは言わないが、こんな寒空の下で寝てるやつに言われたくない、とは思う。
「松木君、松井先生が探してたよ。アンケート調査の紙もってこいって。期限今日までだよ」
内心の不満は心の奥底に置いておくことにして、とりあえず松井先生からの伝言を伝えることにした。それを聞いた松木君は何かを思い出すように頭を二、三度掻いた後、「あー」と声を上げる。
「・・・そういやあったね、そんなの。すっかり忘れてた」
悪びれも無く言って、めんどくさそうに立ち上がるとパンパンと砂を落とすように服を払った。
「もしかして忘れたの?」
「忘れた。しょーがないから、怒られに行って来るかぁ」
そんなことを呑気に言いながら降りてきた松木君は、ふと茜の手の中のものに目を留めてにやりと笑った。
「なに、大沢。もしかして俺にコクりに来たの?」
「はっ、え、ち、違うけど!」
思いがけない言葉に思い切り否定してしまった茜は、顔を赤くして松木君を睨んだ。
何てこと言うんだ、この男は。そんな表情がありありと出ていたらしい、茜を見て松木君は苦笑気味に「冗談だけど」と笑った。
「てことは振られたんだ?そんなん持って屋上まで来たってことは」
「ち、違うっ。こ、これは別に誰かにあげるとかじゃ・・・」
言いながら何を言ってるんだ私は、と後悔したが、松木君は全く聞いていなかった。
「なに、処分に困ってるんならもらったげるよ。俺甘いもの好きだから」
「ええっ」
突拍子もない言葉に茜は思わずチョコを抱いて一歩下がった。
にっ、と笑いながら手を差し出してくる松木君のなにを考えているんだかわからない顔をまじまじと見て、多分何も考えていないんだろうと結論を出す。彼はこういう人なのだ。
「なんだ、やっぱ誰かにあげんじゃん」
出し渋る茜を見て、松木君がけろりと呟く。聞いてない振りをしてさっきの言葉、しっかり聞いていたらしい。
そういうわけじゃないんだけど・・・
そんなことを思いながら、それでも青い小箱を出せずにいた。きっと松木君に義理チョコとしてあげてしまうほうが、まだこのチョコにとってもバレンタインチョコとしての役割を果たせて本望だろう。
少なくとも茜が食べるよりは。
「・・・だ、だめ」
松木君を見上げて、搾り出した答えはそれだった。
「ちぇーっ」
そんなに残念そうもなく存外あっさりと諦めた松木君は、笑いながら茜にひらひらと手を振って、屋上から出て行った。
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今年は一体なんなんだろう。
例年になく、茜の余りチョコを欲しがる人が現れるとは。
けれど結局誰にも渡さないまま放課後となり、このまま帰れば例年通り、茜のお腹の中に消えて余分な脂肪となってくれそうだった。
「大沢」
ぼんやりしていたところに声をかけられて、一瞬反応が遅れた。
「あ・・・、はい」
顔を上げれば目の前に学級日誌を手にした諏訪君が立っていて、ちょっとびっくり。
「これ、後書いといてくれるか?」
そう言って手渡された学級日誌の今日のページには、諏訪君の小さいけれど力強い、ちょっと汚い字で一日の授業内容、明日の予定、今日一日の感想が半分だけ綴られていた。
「あ、全部書いてくれたんだ・・・ありがとう」
「じゃあ後、黒板消しとくから」
そう言って背を向けた諏訪君を、茜は慌てて止めた。
「え、いいよ。日誌書いてくれたし、あと私がやっとく」
やらせっぱなしで悪い気がしてそう言ったものの、諏訪君は一言「いいよ」と言うと黒板消しを手にとって六時間目の授業でやった英単語を消し始める。
茜も慌てて立ち上がってその隣で黒板消しを手に取った。
高い位置のものは消す時にチョークの粉が舞い散って目に入る。ごろごろする目をこすりながらこっそり隣を覗くと、背の高い諏訪君は黙々と黒板を綺麗にしていた。
茜は、ほとんど諏訪君に一目惚れだった。
一年目の学級編成で同じクラスになった時、入学当初で浮かれ騒いでいたほかの男子達と違ってただ一人、真っ直ぐに背筋を伸ばして座っていた諏訪君に目を引かれた。
最初の印象はやたら姿勢のいい人、だったが気付けばよく彼のことを目で追うようになっていた。ほとんど話なんてしなかったけれど、たまに言葉を交わすときには自分の顔に血液が逆流してくるのがわかるくらいドキドキして、頭の中が真っ白になっていたものだ。
・・・それはもう、昔の話。
どうやら二年目のクラス編成でクラスが離れたことでこの熱はあっさり冷めてしまったらしい。
今では自分でも驚くほどに、緊張も興奮もせず普通に話が出来てしまっている自分がいる。つまり、好きでもなんでもなくなってしまったのだろう。
自分の飽きっぽさに呆れながらも、心のどこかでは進展もなくチョコ一つ渡せない現状からの開放にホッとしている自分がいた。




