3.化物の矜持
豚男は村娘を見つめた、
これまで考えもしなかった……いや、考えてはいけないと思っていた、妻を持ち、子に囲まれ、ささやかながらも温かな家庭を築く、未来。
自分には到底、叶わないと思っていた願いが、現実になるのだ……
(夢だろうか……)
しかし、娘の傷は癒え、豚男自身の深手も消えている。
これは夢ではない。
やがて、娘が微かに身じろぎし、目を開いた。
次の瞬間、自分が豚男の腕に抱かれていると悟ると、娘の顔は恐怖に引き攣り、叫び声も上げずに暴れ出した。
必死に身をよじり、逃げるように豚男の腕を振りほどき、地にうずくまる。
真っ青な顔で、震える唇を噛みしめながら、娘は豚男を見上げた。
「……私に……何か、したの……!」
その言葉に、豚男は激しく首を横に振る。
(……やはり、俺に好意など、ないのだな)思っていたこととはいえ、さすがに胸に刺さる。
(薬草を取りに行くため、俺と一緒にいることを耐え忍んでいたのか……。そういえば、娘は俺の手の届く範囲に近づいたことはなかった)
身の程知らずな思い込みを恥じるとともに、真っ青な表情で震えている娘に、天女から授かった言葉を、口にすることはできなかった。
そのとき――
村の方角から、数人の足音が近づいてきた。
現れたのは、村長の息子と、その取り巻きだった。
「天成天女様の御神木の前に、豚男がいるとはな」吐き捨てるように言い放ち、
「お前のような穢れた者が来る場所ではない。すぐに立ち去れ!」
豚男が一歩、二歩と退くと、村長の息子は娘に向き直る。
「おい。今日は、採れたのか」
娘は小さく、かすれる声で答えた。
「……はい……」
豚男は、胸の内に不穏なものを覚えた。
なぜ、この男が娘の薬草のことを知っているのか。
すると村長の息子は豚男に気づくと
「……まだ居たのか」
蔑むように吐き捨て、唖然とする豚男をあざ笑いながら
「この娘はな、今度、俺の五番目の嫁になるんだ」そう言って、娘の肩を乱暴に引き寄せる。
「まさか……お前、この娘に色気でも出したんじゃないだろうな」
にやついた目で見下され、豚男の胸は締め付けられた。
「どのみち、お前みたいな豚に、まともな嫁など来るわけない。メス豚でも相手にしときな」
嘲笑する村長の息子に何も言えない。下手に逆らえば、この村に居られなくなるだろう。
(だが……なぜ、嫁にする娘に、魔獣の山へ行かせる……?)
疑念が浮かんだ、その時。
村長の息子は、娘の籠に手を突っ込み、ある草をつまみ上げた。
(――あれは麻薬草! いつのまに! )
娘は豚男の目を盗んで、麻薬草も摘んでいたのだ。おそらく、村長の息子に強制されたのだろう。
村長の息子は
「よし、上出来だ」
満足げに笑い、草を懐に収めると、村長の息子は娘を顧みることもなく、村へと引き返した。
娘もまた、豚男から逃れるように、その背を追う。
豚男は、ただ呆然と、その場に立ち尽くした。
しばらくして、村の中から娘の泣く声が小さく聞こえる。
「もう嫌です! あの、豚男は嫌です、お願いです……」
豚男は俯き、静かに踵を返し、重い足取りで自らの小屋へと帰って行く。
◇
再び豚男はいつもの生活に戻った。
村を覗くと、人々は変わらぬ笑顔で暮らしている。
あの娘の姿も、時折見かけた。
村長の息子と結婚したようだ。
(……それでいい)
豚男は、そう思うことにした。
(俺より、村長の息子の方が良い暮らしができるだろう)
一方で、平穏な村の周囲では、異変が起きていた。
この一ヶ月、魔獣が一切姿を現さないのだ。
(魔獣は確実に強くなっている、知能的な戦術もする。もう、俺だけでは、村を守りきれないかもしれない………)
豚男は、そのことを村に伝えようとするが、誰も相手にされない。
豚男は途方に暮れ、なす術が思いつかない。
とにかく毎日、木の上に作った展望台に登り周囲を警戒した。
◇
数日後――夕暮れ。
遠くの山々に、異様な影のうねりを見つけた。
(……来る)
魔獣の群れが、集結している。
(今夜だ。村を襲う……!)
豚男は村へ走ったが、夕餉の刻。
豚男だと知ると、どの家も扉を閉ざし、誰も出てこない。
(説得する時間はない……俺が、やるしかない)
豚男は自らの小屋へ戻り、これまで密かに蓄えてきた斧、槍、盾――
武器となるものすべてを、身体中に担いだ。
その姿は、まるで鉄の棘を纏った、異形の獣のようであった。
豚男は、村から離れた、魔獣が必ず通るであろう狭隘な谷地へと向かう。
やがて――
闇の中から、無数の気配が、押し寄せてきた。
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