天才と天災
廊下を歩いていると上靴がこすれてキュッキュッと音が鳴る。普段の廊下であればこんな音はならない。水滴、そして足跡が廊下にある。誰かが濡れた傘を持ったままここを歩いたのか、それとも靴箱で上靴が濡れていたため廊下も濡れてしまったのか。どちらにしろ、僕が傘を持ってここを通った記憶はないし、僕の部活が校舎の外で行われるものでもないため、僕の上靴が濡れているなんてことはあり得ないのだ。さらに言えば、この廊下は僕の部活の部室につながる廊下でもある。しかも僕を除けば部員はたった一人しかいない。となると、この廊下を濡らした犯人と言うのは明白である。眼鏡をかけた、それでいて大人びた天才小学生が居なくとも、そんなことくらい僕でも分かるのだ。廊下の水滴をたどりながら部室の前に立ち、がらりと引き戸を開けた。
「先輩、廊下びしょびしょになってますよ」
部室と言いても理科室を借りているだけである。前の方には黒板があり、教卓がある。普通の教室と違うのは、長机があり複数の生徒が一つの机を使えるようになっていること、窓の近くにはフラスコや試験官が並んでいること、椅子も四角いものではなく、円形のものがあることだ。そして、一番廊下側に近く、かつドアにも近い椅子に先輩は座っている。僕も机にバックを置いて先輩の隣の席に腰を掛けた。
「やぁ、君かい。もし気になるのであれば拭いておいてくれ」
先輩は右足を腰まで上げ、かかとを椅子に引っかけて靴下を脱いでいた。よくわからない鳥のキャラクターが描かれたその靴下は雨によってびしょびしょになっている。ずるりと脱げた靴下の下からは華奢で白い足が現れた。
「べつに廊下はいいんですけど……ここで足をむき出しにするのはやめてもらえませんか?」
「おや、それでは君は私に、ぐしょぐしょになった靴下を履き続けて風邪を引けと言うのかい?」
先輩は靴下を左右にゆすりながら言った。水をぽたぽたと落とす靴下に描かれた鳥はマヌケな顔をしている。そんな靴下よりも、先輩の裸足の足に目がいった。
「いやそうは言ってませんけど……その……あんまりそういうところって人に見せない方がいいんじゃないかなって思って……」
そう言って僕は顔を背けた。
「……先輩は女の人ですし」
「……はは~ん」
先輩の口角がにまりと上がるのが見えた気がする。靴下を机に置いた先輩は僕に話し始めた。
「後輩君よ、雨の中には酸性雨というものがあるのだが、それは知っているかい?」
「急ですね……。えーと、名前のままで、酸性の雨ってことですよね?」
「そうだ。酸性雨とは、二酸化硫黄や窒素酸化物などを起源とする酸性物質が雨、雪、霧などに溶け込み、通常より強い酸性を示す現象のことだ。二酸化硫黄や窒素酸化物は人為起源や自然起源で放出される。そしてそれはこの世界のどこで発生してもおかしくないのだ。しかも発生したものが流れ流れて日本に来ることもあるのだ」
「……つまり?」
「つまり、今降っているこの雨は酸性雨の可能性があるということだよ」
堂々とした態度で先輩は話す。こういう姿を見ると、先輩はこの科学部の部長であると改めて実感するのだ。
天才と言われる生徒がいると聞いて興味が沸きこの部活に足を運んだ。ここに来た時、この部室には髪を靡かせながら白衣を着こなす少女がいた。決して理系ではなく、文系だった僕にとって彼女の姿は素晴らしく映ったのだ。けれど彼女以外誰も部員がいないという。まあ、理由としては、部の名前が「スーパーアルティメットマッドサイエンス美少女jkクラブサークル部」とかいうへんちくりんな名前だったからだろう。天才がいると言われるのに誰も寄ってこないのも納得できる。僕が入部してからは先輩に頼んで「科学部」という至極一般的な名前に変更してもらったが、印象というものはそう簡単に変えれるものではないらしい。部の名前だけでなく、先輩が変わり者だということもあってか、僕が入部してからも誰も入っては来ない、先輩と僕の二人だけなのだ。天才と変人は紙一重とはよく言ったものだ。見部の時なんて強烈だった。彼女は、僕が文系だということを理解したうえで相対性理論について永遠と話し始めたのだ。入部をやめると告げると、お願いだこのままでは廃部なのだ、と泣きついてきたのを思い出す。いや、今ここで思い出す場面ではないのだがどうしてもちらついてしまう。
「次に後輩君よ、酸性雨がどのような影響をもたらすのか知っているかい?」
「まあ、酸性ですから、濡れたものが少し傷むとかですかね」
「なるほど、だとすると君の酸性雨への認識はあま~いようだね」
「……」
「酸性雨は、時にはコンクリートさえも溶かしてしまう危険なものなんだよ。もちろん人体に対してもね。まず、髪の毛が緑色になったりする。白衣と同じ色をした私の綺麗な髪が緑色になってしまうんだぞ?怖いと思わないかい?」
先輩は自分の長い髪をさらりと手で流した。僕はその髪が緑色になるのを想像して顔を引きつった。
「それは……怖いですね。見たくないです」
「だろう?そしてもう一つ。濡れてしまった皮膚はかなり傷んでしまうのさ」
僕はちらりと先輩の足に目をやった。先輩はそれを見逃さなかったらしい。
「そこでだ。後輩君よ」
そう言って先輩は裸足の足を両手で持ち上げて僕の方へ向けた。
「私の足が傷んでないかを確認してくれないかね?」
「な、ななななにしてるんですか!」
先輩の裸足の足が僕の顔の近くでふらふらとしている。僕はそれが見えないように手で顔を覆った。
「後輩くーん、さっきの話聞いてたよね?確認してくれないと、私困っちゃうなぁー?」
「そんなこと言われても……」
「私の足がぐしゃぐしゃになっていてもいいのかい?」
「そういうわけじゃ……というか少し濡れただけでぐしゃぐしゃになるんですか?」
「あーもう!なるんだよ!だから、さぁ、はーやーくー!」
先輩の脅迫ともいえる声を聞いた数秒後に、覚悟を決めて顔を覆っていた手を離す。そこには純白の裸足があった。まだ濡れている先輩の足はぽたぽたと雫を垂らしている。先輩の踵を両手で持ち、まじまじと眺める動作を取った。
「どうだい?傷んではいないかい?」
にやにやとした先輩が話しかけてくる。しかしそんなことにも気づけないほど僕は正気ではなかった。
やはり無理だと感じて目を少し下に向けたその刹那、先輩が足を上げたせいでできたスカートの隙間から第二の純白が僕の目に輝き差し込んできた。鼓動が速くなる。激しい動揺が僕の目を揺らす。すかさず目を上に向ける。しかし、そこには第一の純白があるのだ。目を下に、上に、下に、上に、右、左、右、左、上、下、上、下、下、下、下下下下下下―――――――
「えいっ」
「うわあああああああああ」
先輩が裸足の足を僕の顔にぺちゃりと押し付けた。それほど強くもない衝撃に僕は椅子から転げ落ちた。
「ぷふっ。くっくっく―――あはははは!」
「……」
「やっぱり、後輩君は面白いね!」
にししと先輩は笑う。どこまでが先輩の計算だったのかは分からない。だけど、先輩の掌で踊らされたことには違いない。天才には敵わないものだ。
「あ、それともう一つ。酸性雨に濡れた足はいい匂いがするらしいけど、どうだったかな?」
「もう結構です!」