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8 来訪者がもたらしたもの

 学園に行けなくなって、3日目になった。少し休めば心も落ち着くかと思ったが、眠ると見るあの悪夢のせいで放課後のキスシーンがフラッシュバックする。何度も、何度も、何度も。

 今は体調不良として通しているが、きっとリーシェさんはわたくしに勝ったのだと高笑いをしている事だろう。

 そうやってリーシェさんの事を考えると数珠繫ぎであのキスシーンが脳裏をよぎる。モゾリとベッドに潜り込むと、わたくしは暗い暗い部屋の中で瞳を閉じた。

 元気の失くしたわたくしを気遣ったメイドや母が机の上に置いてくれたラベンダーの花の爽やかな甘い匂いがわたくしの鼻を満たす。こんな灰暗い部屋の中で、ラベンダーだけが色彩を纏っていた。そのみずみずしい様が、わたくしの心を癒やすことはない。

 父はわたくしに事情は何も聞かず、ただ「いつまでも休んで良い」と言ってくれた。前世の父は、きっとそんな事言ってくれなかった。「財閥を背負っている者が、弱みを見せるな」と父が持っていた木の杖でわたくしの脚を叩くだけだった。

 それを言うなら、母もそうだろう。前世の母は鋭利なナイフの様な方で、実を言うと父より怖かった。わたくしが少しでも社交の場などで失敗すると「どうして失敗したの? その理由が分かるまで此処にいなさい」と言ってわたくしを狭い部屋の中に閉じ込めた。部屋は真っ暗だったから本当の広さはわからないけど、立ち上がると頭を打つけてしまう程には狭い部屋で、わたくしは必死に自分の何処が悪かったのか反芻しながら母に赦されるのを待っていた。


 とても、つらい日々だった。けど、わたくしは同じ魂を持とうとももうシェリアローズ•リーントル公爵令嬢となった。エヴァンだけが救いだった前世のわたくしではない。

 この幸せな毎日では、エヴァン以外の好きも沢山あって、エヴァン以外の大切な人も沢山いる。

「だからもう、開放したほうがいいのかしら……」

 貴方にとっての幸せを見つけて、と。わたくしは背を押すべきなのだろうか。その情景を想う度にヒリヒリと痛む心臓は、今のわたくしの気持ちを何よりも雄弁に表していたがその痛みには気づかないフリをする。気づいたら、彼をなんとしてでも繋ぎ止めようとしてしまう。尽くして縛って、何も出来ないようにして、無理矢理わたくしと同じ気持ちにさせてしまう。

 エヴァンは最初言った。『庇護欲をそそる女性と結ばれたい』と。つまり彼は前世の記憶を持つシェリアローズという異分子がいなければ順当にリーシェに恋に落ちていた。だけどそれを、わたくしが狂わせた。


 考えが纏まらなくて唇を噛みしめるわたくしの耳に、キィ、と金属が擦った様な音が響いた。ベッドから這い出て周りを見渡すと、モスグリーンのカーテンが風に揺蕩っている。窓は閉めていたはず。緊張を滲ませながら窓を睨んでいると、スルリと黒猫が入ってきた。

 その黒猫の姿には、既視感があった。アメジストの如き瞳を持つ黒猫は、レイド•パルファスが自身の魔術で変化した姿。一瞬にして警戒レベルが最上位まで上がったわたくしが枕を投げると、黒猫はそれをヒラリと躱しわたくしの前まで来た。

「にゃー」

 人畜無害の象徴とでも云いたげに鳴く黒猫をわたくしは睨みつける。

「姿を現しなさい」


 わたくしの言葉を黒猫は見据えてから、口を開く。

「シェリーに隠し事は出来ないね」

 さっきとは違う人間の言葉を喋ると、黒猫の足元に紫色の魔術紋が現れた。そこから伸びる光に包まれた黒猫は、長身の男の姿になる。

「レイド•パルファス……」

「シェリーにはレイって呼んで欲しいな」

 この世の甘いものを全部一緒くたに煮詰めたのかと言うほど甘ったるい瞳でわたくしを見つめた彼は笑う。

「一体、なんの用ですか?」

「君が俺を求めているんじゃないかと思って」

 わたくしは鼻で笑う。そんなわたくしの顔を、レイド•パルファスは覗き込んできた。逃げようとするが頬の形が変わるくらいの力で顔を掴まれていて、痛くはないが逃げられない。

 歌うようにレイドは笑う。

「コケた頬。虚ろな瞳。パサついた金髪。毛布にくるまっている痛々しい姿。シェリー、君は今愛を欲しているんだろう? 愛して欲しくて堪らないんだろう?」

「何を、言って」

「俺は君の求める愛情を全部あげるよ。俺だけは君を裏切ったりしない。ずっとずぅっと愛してあげる」

 その言葉を否定したいのに、わたくしから漏れたのは「嫌……」という弱々しい声だけ。レイドの広角が吊り上がる。

「俺を拒絶しないでシェリー。俺だけが君を恋愛的に愛してあげる。だから俺のあげる愛に身を委ねてよ、ね?」

 わたくしの顔から手を離したレイドが右手を差し出してくる。その手を取ってしまったら、きっとわたくしはもうエヴァンに会うことは出来なくなるのだろう。そう考えるとこの手を拒絶したいのに、しなければいけないのに、わたくしは躊躇ってしまった。わたくしの手は微かに震えながらレイドの手に重ねたくなってしまった。

 それが酷く、わたくしの心を蝕んだ。

「いや、いやです」

 頭を振るわたくしに優しく諭すようにレイドは囁く。

「もういいじゃないかシェリー。君だってもう疲れてしまったんだろう? 本当の愛をくれない相手を愛するのは」

「違います。わたくしはエヴァンに尽くして愛したいのです。そんな事……」

 本当に? 誰かが問いかけてくる。その言葉にわたくしはすぐに否定できなかった。

「シェリー、君はこの手を取るだけで良い。そうすればすぐに善くなるから」

「あ……」

 世界が止まる。そんな世界でわたくしの手だけが僅かに動く。


 その手の行き先が分かる前に、コンコンと扉を叩く音が部屋に響いた。

「シェリアローズ、少しだけ話したいことがあるんだ。入っても大丈夫か?」

 父の柔らかい声に、我に返る。レイドもそれを感じ取ったのか「残念」と呟いた。

「まぁ、君の考えが定まったら俺を呼んでねシェリー。俺は、君に名前を呼ばれるのを楽しみに待っているから」

 そう言うと砂が風に吹かれて飛んでいくように彼はいなくなった。今この部屋は、灰暗い中にカーテンから溢れた日向色の光が差すだけだ。


 わたくしに心の迷いを植え付けたまま、レイドは姿を消した。あのまま彼の手を取っていたらどうなっていたか……ブルリと震えたわたくしは、慌てて扉に駆け寄り、鍵を開けた。

 扉の前には心配気な顔をした父が立っていた。

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