7 悪夢が現実に追いつく時
「シェリアローズ様、酷いですぅ! あたしと殿下が仲いいからってあたしを階段から落とすなんて!」
廊下でわたくしを指差しながらそうリーシェさんは叫んだ。わたくしはその甲高い音に顔を顰める。
もう一週間も眠れていない。理由はあの悪夢のせいだ。眠りが浅くなったり途中で起きてしまったりするせいで、全く眠れやしない。エヴァンはわたくしの周りをウロウロしながら心配してくれている。その姿にキュンとするもすぐに睡魔が襲ってくるせいで思考は途切れてしまう。
そんな中リーシェさんに言われた第一声が冒頭のセリフだ。わたくしは思わずくつりと笑ってしまった。こちらは殺したいほど憎い気持ちを抑えているというのに、彼女の妄想の中のわたくしはその気持ちを抑えきれず殺人未遂を犯しているだなんて。
エヴァンが教師に呼ばれた後に来るあたり、確信犯なのだろう。なんとも、小賢しい。
「わたくしは何もしておりませんわ」
「嘘っ、さっき階段ですれ違った時突き飛ばしてきたじゃない!」
本当に落ちたならそんなに叫んで良いのだろうか? そうぼんやりと思いながら聞く。本当にうざったらしい。
「わたくしはいつ貴女を突き飛ばしたのですか?」
「忘れた振りをするなんてサイテーです!」
「――いつだと聞いているのです」
語気を強めて聞いてみれば、リーシェさんは少し悩んだ末に「今日のお昼前ですっ」と言った。
「それでしたら、わたくしはエヴァン殿下といました」
「殿下がいたから突き飛ばさないなんて事ないじゃありませんか!」
もう自分が何処に立っているのかさえ、朧気になっていく。
「わたくしはエヴァンを愛しています。ですから、彼が失望するような事、しません」
「そんな事っ、口ではなんとでも言えます!」
ギャーギャー騒ぐ小動物系とは形容しがたいリーシェさんに、わたくしは眉を下げながら悠然と笑う。
「……貴女こそ、言葉遣いにはお気をつけて? ここがいくら学園であろうとも、わたくしはリーントル公爵家が娘であるシェリアローズ。これ以上の狼藉を働こうものなら容赦はしません」
ゆっくりと歩いて近寄り、リーシェさんの耳元で囁く。
「貴女がわたくしを貶めたという証拠が出るまでは大人しくしているつもりですが、貴女の行動は目に余りますわ」
そう言って立ち去ろうとした時、顔を歪めたリーシェさんが微かに笑いながら言った。
「もう、殿下の心はあたしにあるのに?」
「何の冗談で、」
「明日、放課後に裏庭に来てください。そうしたら全て分かりますから」
そう勝ち誇ったようにもう一度笑って、リーシェさんは駆けていく。ふと思い出したのはあの悪夢。僅かに唇を噛み締めながら、わたくしもその場を去った。
◇◇◇
「殿下、放課後お時間ありますか?」
「すまない、今日は先生に呼ばれているんだ」
次の日、放課後にそもそもわたくしがエヴァンと一緒にいれば良いのかと思い当たったわたくしはエヴァンを誘ってみたのだが、その計画はあえなく終わってしまった。項垂れるわたくしの手のひらにエヴァンは何か包み紙に包まれた小さな物を乗せてくれる。
「これは、チョコレート?」
包み紙を開けると、そこにはチョコレートが乗っていた。
「ローズにあげる。なんだか緊張した顔をしているから」
口に含むと、チョコレートのじゅんわりとした甘さが体に染み渡る。
わたくしが食べる様子をニコニコと見つめるエヴァンに、わたくしは胸がきゅう、と痛くなった。
「エヴァン殿下は……ヘタレです」
「えっ」
「それにたまに頼りないときがあります」
「悪口は止めてっ」
耳を抑えるエヴァンに、わたくしは自分が一番綺麗に見える笑みを作った。
「だけど、わたくしは貴方が大好きです。好きなんです」
パチクリと目を瞬かせる貴方が愛おしい。
「では、さようなら」
そう言って手を振ると、呆然としたままエヴァンも手を振ってくれた。
わたくしは歩き出す。リーシェさんの待つ中庭に。『エヴァンはわたくしの事を大切に思っている』と声高に言うために。
中庭には青々しい雑草が土を覆い隠すように生えている。それを踏みながら進むと、木の陰にリーシェさんらしき人がいるのが見えた。淑女としてアウトではないレベルの大股歩きで近づく。すぐ近くまで迫った時、男女の話し声のような物が聞こえて思わずわたくしは生け垣に隠れてしまった。
耳をそばだてると、リーシェさんの相手はとても聞き馴染みのある声をしていた。
「愛しているよ、リーシェ」
「あたしも、愛しています。エヴァン」
――息が、出来なくなった。急にわたくしの周りにだけ酸素が薄くなったような心地になる。脳が今さっき見た情報を受け入れられないと云うように痛んだ。
そしてわたくしは、止せばいいのに生け垣から顔を上げてしまった。男性は背になっているが、リーシェさんの幸せそうな顔はよく見える。そして、男性の方がリーシェさんの頬に触れ、二人の顔が重なり合った。
「あ、あぁ……」
あの悪夢だった。それをなぞらえるようにリーシェさんはキスをしたままわたくしを捉えニンマリと目を歪める。その瞳は雄弁に『あたしの言った通りでしょう?』と語っていた。
誰かがエヴァンのフリをしているのかもと一抹の願いを込めるがわたくしの前にいる彼は限りなく『エヴァン』だった。わたくしの瞳からは気づいたら大量の涙が溢れていて、乙女ゲームのワンシーンのようにキスをし合う二人の悪夢にわたくしは背を向けて走り出す。
今は、淑女の何たるかなんて考えられなかった。リーントル公爵家のシェリアローズとしての矜持も忘れてしまった。
ただの恋して失恋した女へと成り下がったわたくしは、走る。ようやく辿り着いた先でわたくしを待っていた馬車に乗ると、わたくしはようやく安心できて、柔らかいクッションに顔を埋めながら心の限り叫んだ。
そして、次の日からわたくしは学園に行けなくなってしまった。
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