6 幸福にも悪夢は潜む
殿下の近衛騎士の方々にレイドという人物には要注意するようにとだけ言ってわたくし達はお祭りを楽しんだ。
そうしている内に、辺りは赤紫色に染まり上がっていく。沈みゆく夕日を白パンを食べながら見つめていると、エヴァン殿下に手を引かれた。
「シェリアローズ、君に来て欲しい所があるんだ」
首を傾げながら付いていくと、そこは小さな丘だった。少し長い草が風に吹かれて一枚のカーテンのように揺れている。丘まで歩いている内にもう日は沈みきり、眩い星々が顔を覗かせていた。
エヴァン殿下に丘の上にあるベンチに座らされる。何だと待っていると、空に光が舞い上がった。
それはさっきまでいたお祭り会場からで、光輝く何かは天高く飛んでいく。
「あれは、何ですか?」
「ランタンだよ。願いを乗せて飛ばすんだ」
「物知りですね」
そう素直に褒めるとエヴァン殿下は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「シェリアローズに楽しんでほしいから色々調べたんだ」
殿下の言葉に、心が一つキュンと音を立てた。好き、大好き。世界で一番、わたくしはエヴァン殿下が一等好き。
「愛しています、エヴァン殿下」
「あっ」
わたくしがそう言うと、エヴァン殿下は残念そうな声を上げた。不思議に思って首を傾げると、殿下は少しいじけたように言う。
「もう『殿下』って付いてる」
「ここでは必要がありませんからね」
「だが」
耳が垂れたように萎れている殿下の頬を、わたくしはつつく。
「――殿下がわたくしを愛称で呼んでくれるなら、わたくしも『エヴァン』と呼びますわ」
レイド様にさっき『シェリー』と呼ばれたのを、案外わたくしは根に持っていたらしい。気づけばそう口に出していた。だってわたくしは、何でも初めてはエヴァン殿下が良いのだ。
間があく。暗い紺の海のような空を漂うオレンジ色のランタンがわたくし達をひっそりと照らす。
殿下の茶色い瞳は、ランタンに照らされてキラキラと輝いている。そのキラキラが、わたくしを捉えた。
「ロ、ローズ」
初めて、名前を呼んでもらえたかのような高揚感が胸を支配する。あぁ、それもその筈だ。だってわたくしを『ローズ』と呼ぶことを許すのは、これから先もエヴァン殿下ただ一人だから。彼だけが許された名前。
「愛しています、エヴァン」
「僕も、愛してるローズ」
そのままわたくし達はもう遅いからと馬車に乗り込んだ。彼が呼んでくれたわたくしの名前。そして彼の名前を口の中で何度も咀嚼する。上手く飲み込めないそれは、酷く甘い味がした。
そしてそのままわたくしは、エヴァンの肩に頭を預けて寝てしまった。
◇◇◇
ここは、夢の中だ。わたくしは何の根拠もなく、だがたしかにそうであると思った。
でなければ可笑しいだろう。リーシェさんとエヴァンがキスを交わしているだなんて。生け垣に隠れるようにして身を潜めているわたくしには、木の影に隠れて唇を合わせる二人の姿がよく見えた。それも、エヴァンの方から唇を合わせているのを。
エヴァンの表情はわたくしから背になっていてよくわからない。だがリーシェさんがわたくしに気づき、ニンマリと目を歪めたのは、鮮烈にわたくしの目に焼き付いた。
「違う、これは夢。だってエヴァンはヘタレで、犬のような方だもの。あんな事出来る筈ありません」
そう口に出していた。だけど『本当に?』と誰かに問いかけられる。
『庇護欲をそそるヒロインと一緒に成長していった彼は、本来こうなる筈だったんじゃない?』
わたくしに囁くその声を聞きたくなくて耳を塞ぐ。だが声はお構いなしにわたくしに聞こえてくる。
『君のこと、彼は本当に愛しているのかな?』
わたくしが愛していると言ったから? 彼は流されただけだった?
頭がズキズキと痛む。脂汗を滲ませながら固く目を瞑り痛みが引いた気がしてもう一度目を開けると、わたくしは馬車の中にいた。
「わたくし……」
「あ、起きたローズ? もう少しで家につくよ」
わたくしの隣でエヴァンが微笑む。その笑顔に胸が痛くなった。
「ねえエヴァン。わたくしの事好きですか?」
わたくしの問いににっこりとエヴァンは答える。
「好きだよ」
……無垢で澄んだ瞳だった。わたくしに焦がれている瞳では、なかった。痛い、痛くて堪らない。エヴァンに愛してほしくて堪らない。
今はリーシェさんを拒んでいるけど、何かの弾みで二人は想い合うようになってしまうかもしれない。夢のように、キスをし合うのかもしれない。
エヴァンは、あの乙女ゲームのようにわたくしを捨てるのかもしれない。
「エヴァン、わたくしを捨てたら一生恨みます」
「えっ、あぁ。ローズを捨てたりしないよ」
今は、貴方の言葉を上手に受け止められなかった。苦い物が口いっぱいに広がる。わたくしは貴方に愛を乞うようにもう一度、瞼を閉じた。
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