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5 歪みが生じ始めた世界

 ふぅ、と今日何度目かのため息をわたくしは付いてしまった。それもこれも全部あのヒロイン•リーシェのせいだ。彼女は飽きることなくわたくしに虐められたと騒ぐ。

 それに加えて、なんと彼女はエヴァン殿下に媚びを売り始めたのだ! これはとても由々しき事態だ。手作りのお菓子を渡していたり、勉強で解らない所があると教えを乞うていたり。わたくしには出来ない芸当をリーシェさんはいとも簡単にやってのけてしまう。それが酷く、悔しい。救いはエヴァン殿下が怯えた子犬のような顔をしてわたくしに助けを求めるくらいだ。リーシェさんに向けて優越感に染まった顔で笑ってみせたら「シェリアローズ様がエヴァン殿下を独占してる! 殿下は皆の物なのに」と言われた。独占して何が悪い。殿下を甘やかすのはわたくしの特権なのだから。


 もう一度ため息を付く。そこで殿下に顔を覗き込まれた。

「眉間に皺がよっている、シェリアローズ」

 今はあの二人で座れる机で執務を行っている。窓からは既に茜の光が差していた。本来ならもうわたくしの書類は捌き終わっている位の時間なのに、まだ一山机に残ってしまっている。

「すみません殿下」

「いや、これは元々僕の仕事何だからシェリアローズが謝る必要はない」

「いいえ、わたくしがやると言った以上ベストは尽くさねばなりません」

 心配気に殿下はわたくしを見つめる。ふとエヴァン殿下側の机を見ると書類は捌き終わっていた。自分が不甲斐なくなってくる。


 しょんぼりと項垂れるわたくしにエヴァン殿下は明るく声をかけてきた。

「明日予定はあるか?」

「殿下に誘われるのであれば予定などいつでも空けます。つまり明日予定はないです」

 そう自信満々に答えると「あるんだな」と言われた。いえ、本当にないです。父に海が見えるカフェに行こうと誘われていたくらいです。

「じゃあ、明後日なら」

「そこにはないですね」

 「本当だな?」と何度も疑われる。だから頷いてみせると、エヴァン殿下は言った。

「それじゃあ、一緒にお祭りに行こう」

「お祭り、ですか?」

「あぁ、明日から王都で建国祭りが始まる。僕達はまだ国王と王妃ではないから祭りの席に出席する仕事はないから一緒に遊ばないか?」

 わたくしが落ち込んでいるのを察して誘ってくれた。その事実にキュンキュンと心臓が音を立てる。

 皆さん見てくださいっ、わたくしの婚約者は今日も一等愛らしいですー!


 そのまま、わたくしは自宅に返された。楽しみ過ぎてわたくしはそれからの一日とちょっと、エヴァン殿下とのお祭りデートに想いを馳せていた。

 カフェであまりにもわたくしが素っ気ないから父が泣いてしまった程だ。


◇◇◇


 自室の鏡の前で、わたくしはくるくると回る。

「変じゃないかしら?」

「とてもお似合いですわ、お嬢様」

 今日はデート本番。忙しなく動くわたくしをメイド達は微笑ましそうに見ている。

 わたくしは淡い水色のワンピースで、髪もゆるく巻いて細いリボンを一つ付けただけの身軽な仕様となっている。普段はこんなにシンプルで丈の短いドレスは着ないから、膝丈までしかないワンピースはとても新鮮だ。

「では、行ってくるわね」

「はい、行ってらっしゃいませ」

 応接室に行くと、もう殿下はいた。白いシャツにトラウザーズ、それに帽子を合わせていてとてもかっこいい。こんなにもかっこいいだなんて罪なお方……とうっとりするわたくしに彼は手を差し出した。

「行こうか、シェリアローズ」

「ええ」

 恨めしそうに殿下を見る父と、「行ってらっしゃい」と言う母に見送られ、わたくし達は馬車に乗り込んだ。お祭り会場の近くまでは馬車で行き、その後歩いて向かうという算段だ。

 馬車から降りたわたくしの目には、とても賑やかな人達が写る。視察に行く事もあるが、こんなにも活気づいているのを見るのは初めてだった。

「凄いですね」

「そうだな。シェリアローズ、まずは串焼きでも食べに行こう」

 串焼き? 焼いた串を食べる? 脳内にハテナマークを浮かべるわたくしの手を引っ張ったエヴァン殿下は露店の前で立ち止まり何か串を貰っていた。それの代わりに丸い金属片を渡している。

「その金属は何ですか?」

「これはお金だ。銅硬貨は一枚で200ユエンの価値があるんだ」

「なるほど」

 いつも帳簿で見ていたお金。初めて見たお金は汚れていて少し錆びていた。

 お金をまじまじと見つめるわたくしに苦笑した後、殿下は二本の串の内一本をわたくしにくれた。

「どうぞ」

「ありがとうございます、()ヴァ(・・)()

 にっこりと串を受け取る。殿下は急に固まったかと思うと、みるみると顔を真っ赤っ赤にさせた。

「今名前、呼び捨て」

「いつものではバレてしまうでしょう?」

 『エヴァン』だけでもバレる気がしたが今現在わたくし達は特に注目を受けていない。だから大丈夫だろう。

「嫌でしたか?」

 そう問いかけると殿下はぷるぷると首を振った。

「嫌じゃない」

「なら良かったです」

 エヴァン殿下に笑いかけてから串焼きを口に含む。熱いお肉をホフホフしながら食べると、香辛料と共にジュワッとした肉が口の中で弾けた。串に刺さった物を食べるという普段じゃ考えられない行為が美味しさを増進させている気がした。食べ終わり串を捨てた後も、わたくし達は色々な所を回った。

 果実飴や綿菓子。わたくしには全てが新鮮だった。それらを食べながら歩いていると、紫のローブを来た人が目に入る。異質な存在に目を凝らす。そうしていると急に振り返った紫のローブの人がズンズンと近づいてきた。迷いなく、わたくし達の下へ。

 エヴァン殿下はわたくしの肩を抱きながら目の前にやって来た紫のローブの人に向けて声を発す。ちょっと怯んでいて可愛い。

「だ、誰だ!」

 ルドリアック殿下派の者が差し向けた刺客か、それとは違うなにかか……そう悩んだ所でその人物は動き出した。

 そして、わたくしを抱きしめた。頬ずりをされる。ゾワゾワゾワ〜ッと不快感が体中を駆け巡った。この体はつま先から髪の毛に至るまでエヴァン殿下の物だというのに、抱きしめられてしまった! 鳥肌がブワッと立つ。

「……っ、シェリアローズを離せ!」

 そう強く言った殿下に抱きしめられる。いつもエヴァン殿下が身にまとっているベルガモットの香水とは違う、柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。抱きしめられているのを良いことにすんすんと鼻を近づけ匂いをかぐ。今のうちに暗記して、家に帰ったら調合師に同じものを作ってもらわなければ……。

 わたくしがそうやっている内に紫のローブの人とエヴァン殿下は口論を始めた。

「お前は誰だ」

「俺はレイド•パルファス。魔術師だよ」

 その名前と魔術師という単語にわたくしは我に返る。彼も攻略対象の一人だ。腹黒系な彼は黒髪に紫の瞳を持つ美丈夫。乙女ゲームだと猫に変化している所をヒロインに見つかり可愛がられた事で執着しだす。

 だが、そんな彼が何故わたくしを抱きしめたのか。わたくしの内心を見透かしたようにレイドはうっとりとわたくしを見ながら言った。

「シェリアローズ、君を愛している。俺と結婚してくれ」

 わたくしは目を見開いた。エヴァン殿下はちょっと泣きそうな顔でレイドを睨んでいる。

 そんなエヴァン殿下を安心させる為にもわたくしは堂々と答えた。

「それは無理ですわ。わたくしはもう、エヴァンの物ですから」

 体はまだですけど、心はもうずっと前から。


 レイドはわたくしの言葉に目を丸くさせた後、「なんでだ、悪役令嬢だからしたのに……」とボソッと言った。 

 また、悪役令嬢。つまりは彼も転生者。わたくしは警戒する。

 レイドは口を開いた。それは微かな音だったがわたくしの耳にしっかりと響く。

 その言葉により一層警戒したがレイドが何か行動を起こす前に、わたくし達とレイドの間を人々が通る。人に埋もれてレイドの姿は見えなくなり、ようやく人の往来が少なくなって来た時には、もうレイドの姿は無かった。

「シェリアローズ……」

 エヴァン殿下を抱きしめながら、わたくしは考える。


『シェリー、君と結ばれるのは俺だ』

 彼が最後に言った言葉が脳裏をよぎる。彼は誰で、どうしてわたくしに執着するのか。その理由がわからなくてわたくしはエヴァン殿下をもっと強く抱きしめる。殿下の体温はわたくしの心に寄り添ってくれるように温かくて、わたくしはようやく息をつけた。

 


100ユエン=100円です。

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