10 貴女に光のブーケを
「わたくしと、婚約解消したいと言ったのに……」
「……それは、僕と一緒にいたら君は幸せになれないんじゃないかと思ったんだ」
わたくしはエヴァンに詰め寄る。
「何故ですかっ」
「ローズは、僕を甘やかしたいといろんな仕事を一人でするようになった。それだといつかローズが潰れてしまう。だから、ローズにはもっといい人がいると思ったんだ」
馬鹿な人。愚かしいくらい、優しい人。わたくしは、エヴァンに体を預ける。エヴァンも、わたくしを抱きしめてくれた。
「キス、してください」
「う、うん」
心臓が、ドキドキと痛いくらい音を立てた。唇を尖らせて顔を上に向かせる。そして、ゆっくり瞼を閉じた。
エヴァンの吐息とわたくしの吐息だけが耳に届く。そして、二人の吐息が混じり合った。
それはあまりにも柔らかくて温かくって、少しだけ、ささくれていた。少しだけ開けた瞳の先にいる愛しい貴方は、頬を紅潮させていた。
本当に、愛している。大好き。これからも、エヴァンと支え合って生きていきたい。
わたくしは、唇を離した後、「もう一回、してください」と微笑む。エヴァンも恥ずかしそうに笑ってわたくしにキスを落としてくれた。やっぱり、わたくしは愛されるならエヴァンがいい。
わたくしは愛が欲しいから愛されたいんじゃない。貴方に、愛して欲しいんだ。
さて、とわたくしは自分に活をいれる。さぁ、ここからは反撃の時間。あのヒロインに、一泡吹かせて見せようではないか。
◇◇◇
わたくしは、その後一週間休み肌や体調を整えた。放課後にはエヴァンが花束やお菓子を持ってきてくれるから、とても嬉しい。
そして、体調が回復したわたくしは今学園にいる。移動教室の道すがら出会ったリーシェさんは、わたくしを見て優越感で鼻を膨らませた。
「あら、体調は大丈夫ですか?」
歩くわたくしにリーシェさんはつき纏う。今はエヴァンもいないから、彼女はわたくしの思い通りについてきてくれた。
「えぇ、エヴァンが毎日お見舞いに来てくださるから直ぐに良くなりました」
「……そう、ですか」
わたくしとエヴァンの仲がギクシャクすると思っていたのに、拍子抜けしたのだろう。つまらなそうな顔をしたリーシェさんは、黙ってわたくしの隣に並んで歩く。
そして、階段を歩いている時リーシェさんが脚を踏み外した。落ちながらニヤリと笑う彼女に、心底侮蔑の表情を返す。落ちて死んでしまったらどうするのかと。
だからわたくしは、彼女の手を掴み、リーシェさんを引き上げる形で代わりにわたくしが階段から落ちた。リーシェさんは驚愕に目を見開く。その顔に少しスッとしたわたくしは、地に打ち付けられる寸前床に手をつきロンダートのような動きをした。そして、無事着地すると周囲から割れんばかりの拍手がなる。リーシェさんはようやくここが何処か気がついたかのように顔を青くさせた。
そう、ここはこの学園で最も大きい踊り場がある階段。わたくしは事前にこの踊り場に人が集まるようにしていた。それから、授業を始めるのが遅くなるという事も。教師達は、リーシェさんは『わたくしに虐められた』と訴えるだけでわたくしに危害を加えても、貶めた物言いをしたこともないから注意だけしか出来ず、またリーシェさんはわたくしが絡まなければ模範生な為罰することが難しく苦労していたらしい。喜んで手伝ってくれた。
落ちるリーシェさんを助けた。そしてわたくしが代わりに落ちた様子を大勢の生徒が見た。これでわたくしに対する不信感も大分払拭出来た筈だ。
だからこそわたくしは、怯えた目をするリーシェさんに――手を差し伸ばした。
「……え?」
暫くわたくしの手と顔を見比べた後恐る恐ると手を伸ばしたリーシェさんの手を取り、床に座り込んでいた彼女を立ち上がらせる。
そして、皆に聞こえるようにわたくしは話しだした。
「そう言えば、貴女には弟さんがいるそうですね? なんでも病弱だとか」
そう、これが乙女ゲームでは語られなかった設定。この乙女ゲームは、学園からではなくエヴァンが学園を卒業してから物語の歯車は回りだす。
ある日丘の上で寝ていたリーシェが起きた時、偶然そこに来ていたエヴァンが一緒になって寝ている事に驚いてから二人は親交を深めていく。ルドリアックとの党派争いに疲れていたエヴァンは、此処で小動物のように可憐なヒロインに恋に落ちるのだ。あ、駄目です。デレデレとした顔をヒロインに向けるエヴァンを思い出してムカついた来ました。
だから、弟がいたことは初めて知った。そして、もう先が長くないことも。平民出身のリーシェは良い病院に入れる事は出来ず、今必死になっているのだ。もしかしたら、ゲーム開始時もう弟は死んでいたのかもしれない。
たしかにエヴァンに取り入れば、国で最高峰の医者をつけることも夢ではない。なんとなくやるせなくなる。
そうわたくしが思案していると、急にリーシェさんは頭を下げた。深く深く頭を下げるその様には、言いようのないほどの恐怖が滲んでいた。
「お、弟には手を出さないでください! あたしはどうなっても構いません! 弟は、あたしがした事は何も知らないんですっ、だから、どうか!」
「えぇ、赦してあげます」
「やっぱりそう……って、え?」
驚いたようにリーシェさんは顔を上げた。パチクリとした空色の目とわたくしの目が合う。
「わたくしが赦す、と言ったのです」
周りの生徒も驚き、声を上げる。
「シェリアローズ様! その人は貴女を蹴落とそうとしたんですよ!?」
「罰を!」
「――わたくしの話を聞きなさい」
わたくしの言葉に、皆が口をつぐむ。それを合図に、わたくしは話しだした。
「わたくしは、リーシェさんに病弱な弟がいると知ってから、調査をしました。そうしたら、リーシェさんの住むアビル領では適切な医療や助成金が受けられていない事が分かりました」
「……はい、何度か役所や領主の方に掛け合って助成金を受給出来ないか申請しました。だけど『平民が楽をしてお金を得ようとしている』と突っぱねられるだけでっ。他の領地にもお金がないから、行けなくって!」
ぐすりと鼻を啜りながらリーシェさんは悔しげな声を出す。
「だから、奨学金でこの学園に入って、良い所に就職しようと、思っていたんです。だけど、弟はもう限界で……その時エヴァン殿下に会って、エヴァン殿下に取り入ればいいんじゃないかって。本当に申し訳ありません!」
乙女ゲームを思い出した少女は思ったのだろう。『自分に恋に落ちる筈であるエヴァン殿下に取り入るのが最短』だと云う事に。だからこそ、原作とは違うわたくしが邪魔だったのだろう。
「あたしはどんな罰でも受けます。だから、だからどうか弟と父と母だけは見逃してください! お願いします」
「元よりそのつもりですし、貴女を罰する気もありません。それに、こうして困っている民がいたのに気付けなかったのは、わたくし達上に立つ者の落ち度です。今、貴女の領地にはエヴァンが向かっています」
「え――?」
「領主は横領の罪で逮捕され、新しい領主に今引き継ぎ作業が行われています。近々、無償で受けられる病院も建てる予定です。役所も今、人員の見直しをしています」
泣きそうな声でリーシェさんが問う。
「それって、もしかして……」
「はい、弟さんは病院で治療を受けられます」
彼の病気は、病院で適切な治療を受けられれば直ぐに治るもの。
リーシェさんは崩れ落ちる。
「ごめん、なさい。ごめんなさいっ。ありがとうございます」
子供のように泣く彼女からは歪みきった色はもう抜けていて、幼子のような無垢さがあった。わたくしは彼女を抱きしめる。そうすると、生徒や教師からも拍手があがった。
そう、わざわざ人を集めたのはわたくしの為だけではなく、リーシェさんへの皆からの怒りを無くすためでもあった。だって、放って置けなかったのだ。努力をしても報われないリーシェさんが、前世のわたくしに重なったから。
それから、わたくしとエヴァンは他の領地にも訪れた。そして領民の声を聞くことで、リアルな問題が浮き彫りになる。それを解決するには労力がかかるが、「弟が元気を取り戻した」とリーシェさんが嬉しそうに報告してきたから、もっと頑張ろう、と素直に思えた。
わたくしは、エヴァンの未来の妻ですしねっ。