左の衣兜(ポケット)
左の衣兜
二十二
意外な言葉に、若者は呆れたような目をしながら、今更ながらお若の顔を見やった。こんな時に口から出るはずもない綺麗な思いがこちらの胸にも通じたので、遠慮のない調子で、
「いずれお詫びをします。更めてお礼に来ますので、申し訳ないのですが、どうか一つ腕車の世話をしてくれませんか。こういうお宅だから、帳場にお馴染みがあるでしょう。お近くなら、私も一緒について行きますから。どうかお願いします」
杉は女の方をちょいと見たが、
「あなた、今何時だとお思いなさいます。私どもでは何でもありゃしませんけれども、世間じゃ夜の二時過ぎでしょう。あれ、あの通り、まだ戸外はあんなでございますよ」
若者は降りしきる雪の気配を身に感じて、途中のことを思い出したのか、また慄とした様子。座に言葉が途絶えると、広く果てしない雪の広野を隔てて、里の方に向かい、遥か遠く鶏が鳴いているような気がした。
「お若さん、お泊め申しましょう。そして貴下、気を休めてからお帰りなさいまし。私どもの分際でこう申しちゃぁ失礼でございますけれども、何だかあなたはお厄日ででもいらっしゃいますように思いますわ。
お顔の色もまだお悪うございますし、ご気分もおよろしくないようでございます。雪におあたりなすったのかも知れません。何だか、ご大病の前ででもあるように、どこかご様子がお淋しくッて、それに悄乎しておいでなさいますよ。
ご自分じゃ整然としておいで遊ばすのでございましょうけれども、どうやらお心が確りなさっていないようにお見受けいたします。
お聞き申しますと悪いことばかり。お宅から召したお腕車は壊れたでしょう。松坂屋の前からのは間違えて飛んだ所へお連れ申しますし、お時計はなくなりました。またお気におかけ遊ばすには及びませんが、お託かり下さいましたものも失くなっていますね。腕車のことも二度。失くしたのも二度、重ね重ねのご災難。二度あることは三度あるとも申します。これから四ツ谷下だりまで、そりゃ十年お傭いつけのような確かな若い者を二人でも三人でもおつけ申さないでもございませんし、雪や雨の難渋なら、皆がご難を少しずつ分けさせて頂いて、貴下のお身体に差し支えないようにされましょうけれども、どうもご様子が変でございます。お怪我でもあってはいけません。内へお通いつけのお客様で、お若さんとどんなにご懇意な方でも、ついぞこちらへは入らしった験しはございませんのに、しかもあなた、こういう晩、更けてからおいで遊ばしたのも、ご介抱をいたせという成田様のおいいつけででもございましょう。
悪いことは申しませんから、お泊まんなさいまし、ね。そうなさいまし。
そしてお若さんもお炬燵へ、まあ、入らっしゃいまし、なんぞお暖なもので縁起直しに貴下、一口差し上げましょうから、
ほら、何はさて置きましても、この雪じゃありませんか、ねぇ」と言えば、欽之助も、
「実はどう言うんだか、今夜の雪は一片でも身体へ当たる毎に、毒虫に螫されるような気がするんです」
と、いい歳をした男児でもあろうに、どうしたことか、あやかしの糸に纏われ、備わっている身の気品を失うまで、この寒さには参ったのであった。
「ですからそうなさいまし、さあ、もうご安心下さい。お若さん、宜うございましょう? 旦那はあちらで十二時まで。それからはあちらで間違いなくお休みになられます。夜が明けて爺やとお辻さんが帰って参りましたら、それは杉にお任せ下さい、ねぇ、お若さん」
お杉大明神様と震えつくほど嬉しい話では、と思いきや、思いの外、お若は空吹く風のように、今の言葉を耳にもかけない様子でどこか恍惚して眠そうである。(*1)
その様子に、若者よりもお杉の方がドキリとしたが、ピンと来て(*2)、呆気に取られながら、心配そうな顔を見せた。そんなお杉をお若はちょいと見て笑って、うつむいて、
「夜が明けると直ぐにお帰んなさるんなら厭!」と言えば、
「それなら」と、杉は勢い込み、突然欽之助の上着の衣兜の口をしっかりとつかまえて、
「こうやって、お引き留めなさいましな」
*1 恍惚して眠そうである……遊女の霊がお若に乗り移っている様子を捉えたもの。
*2 お杉はドキリとしたが、ピンと来て……お杉はお若が若者に一目惚れをしたのだと気が付いて。
二十三
寝衣に着替えさせたのであろう、その上着と短胴服などを一抱えにし、少し襟元の乱れた咽喉のあたりへ押さえつけるように胸に抱き、ほんの僅かの間に窶れてしまったように見える頤を深く埋めて、俯向いた姿で、奥の方の六畳の襖を開けて、お若は悄乎して出て来た。
出て来た襖の内には炬燵の裾、屏風の端が垣間見えた。(*1)
背片手で密と後を閉めて、三畳ほどの暗い所で姿が見えなくなったが、再び静々と十畳の広室に現れた。二室越しの二重の襖はいずれも一枚開けたままである。玄関の傍の、同じく六畳にある長火鉢はかんかんと音を立てていて、その傍には大型の台洋燈がある。その明かりは青畳の上を辷って、お若の冷たそうな爪先を、ちらちらと雪が散るように照らしていた。お若は足袋を脱いでいたのである。
この灯りがさしたので、お若は半身を暗がりに残しながら、少し伸び上がるようにして密と見ると、火鉢には真鍮の大薬罐がかかっていて、もう一つ小鍋をかけたまま、お杉は行儀よく坐り、艶々した円髷の、その斑布の櫛をまともに見せて、身動きもせずに仮睡をしている。
差し覗いてすっと身を引き、しばらく物音もさせなかったが、やがてばったりと、抱えていたものを畳に落として、嘆くような忍び泣きの声を洩らした。
しばらくすると、お若はまた密とその着物を取り上げて、一ツずつ壁の際にある衣桁に力なく、洋袴を掛け、短胴服を掛けて、それから上着を引っかけたが、持ったまま手を放さず、じっと立って、再び密と爪立つようにして、間を隔てた所で、着物の縞も判然と、静かに眠っているお杉の姿を、あたかも草双紙の挿絵を見るようにして覗き、それからまた立ち戻って、もう一度、衣桁に掛けた上着の衣兜を、しかもその左の方を確乎と取って、お若は思わず、
「ああ、厭だっていうんだもの」と、いかにも死んでしまいそうな声で独り言を言った。
「……こう引き留めて、二人の約束を交わせと、杉が……こうやって永遠の契りを交わせと! そう言ったのに……」
お若は我を忘れたように、じっと上着を押さえたまま身を震わせて、しがみつくように掻き抱いた。と、その途端、かちりと音がして、爪先へ冷りと当たるものがあった。全身に針を刺されたように慄と寒気を覚えた。と見ると、それは一挺の剃刀であった。
「まあ、恐いことねぇ」
なおかつ、びっしょりと濡れながら、袂の端に触れたのは、その剃刀を包んで五助に研ぎを頼んだ時のままの、見覚えのある反故紙である。
お若はわなわなと身を震わせたが、左手にとってじっと見る間に、顔色が颯と変わった。
「わッ」
と、研屋の五助は喚いて、むッくと弾ね起きた。炬燵の向こうで、ころりと転がっていた貧乏徳利を枕にして寝そべっていた鏡研ぎの作平は、同一蒲団を被って寝ていた所を弾ね返されて、
「何じゃい、騒々しい」
五助ははだけた着物の、大の字で寝ていたそのままの姿で、蟇蛙のような及び腰。顔を突き出し、目を見張って、障子越しに紅梅屋敷の方を見詰めながら、がたがた、がたがた、
「大変だ、作平さん、大変だ、ひ、ひ、人殺し!」
「貧乏神が抜け出す前兆か、えらく怯えてるの。しっかりさっし、しっかりさっし」と言いながら、余りにも血相を変えているので、放っては置けず、自分も起きる。枕許には大皿に刺身のつま、猪口やら箸やらが乱雑のまま。
「いや、お前、しっかりしてくれ、大変だ、どうも恐ろしい祟りだぜ。並々ならぬ執念だ」
*1 屏風の端が垣間見えた……屏風は寝床を隠すためになくてはならないもの。そこに寝床があったことを示している。
次回最終です。