二人使者(ふたりのつかい)
二人使者
十八
欽之助は茶を一腕、それがあたかも霊水であるかのようにぐっと飲み干して、
「お恥ずかしい話だけれど、実は上野の方へ出る方角さえ分からない。吉原はそこに見えるというのに、車は一台も無い。人っ子一人通らない。訊く人もいない。一体何時頃かと、時計を出そうとすると、おかしい。掏られたのか、落としたのか、鎖ごとなくなっている。時間さえ分からなくなって、しばらくあの坂の下り口にぼんやりして立っていた。
心細いったらない。おまけに目も当てられない吹雪と来て、酔い覚めでもあり、寒さは一段と身に応える。四ツ谷まで百里くらいもあるように思いましたよ。そうすると何だかまた夢のような気持ちになってね、生まれて初めて迷子になったもんだから、こりゃ自分の身体がどうにかなって、こんなことになったのじゃぁなかろうかと、馬鹿々々しいけれども、恐くなったんです。
ただ車夫に吉原に行くと間違えられただけなら、今の雪の季節に薄物を着るなんてことがないくらい、些とも不思議なことはないんだけれども。
気になるのは、昼間腕車が壊れたでしょう。それに、伊豫門で皆が席について、杯のやり取りが二ツ、三ツあって、私は五勺で酔っ払ってしまう方だから、もうふらついて来た時分でした。女中が耳打ちをして、
『玄関までちょっと……、どうしてもお目にかかりたいという方がいらっしゃいます』ッてね。つまり、私を呼び出した者がいるんだ。
灯りのついた時分で、玄関は未だ暗かった。家で用でも出来たのかと、何の気なしに女中について、中庭を通って玄関へ出てみると、叔母の宅に世話になって、従妹に書物なんかを教えている婦人が来て立っていました。
『先刻奥さんが――というのは叔母のことですが――お見えになって、四ツ谷のお宅へいらっしゃると、もう貴下はお出かけになった後だとのことで、お約束のものが昨日できあがって参りましたものですから、それを貴下にお贈り申したいとおっしゃって、お持ちになったのでございますが、お留守だというのでそのまま持ってお帰りなさいました。あの児のことだから、大丈夫だろうとは思うけれど、そうとも限らない。お朋友のお付き合いで、他なら可いが、吉原へでも行くと危ない。お出かけ先へ行ってお渡し申せ、とこれを私にお預けなさいましたから、腕車で大急ぎで参りました。何でも広徳寺前にいる、名人の研屋が研ぎましたそうでございますから』ッてね、紫の袱紗包みから錦の袋に入った八寸の鏡を出して、何と料理屋の玄関で渡そうとするじゃありませんか」と、そこまで話すと、若者は一呼吸ついた。お若と女中は、じっと耳を傾け、目も放さず。
「鏡の来歴は叔母が口癖のように話すから知っています。何でも叔父がこの廓で道楽をして、命に関わるところをその鏡のお庇で助かって、それからようやく人並みの人間になったッてね。
私も決して良い所とは思わないけれども、大抵様子は分かっている。叔母さんと来た日にゃぁ、若い者が吉原に入れば、そこで生命がなくなるという風に信じ込んでいるんだ。
その人に甘やかされて、子どものようにして可愛がられて育った私だから、失礼だが、様子は分かっていても、廓は恐ろしい所だと思っているし、叔母の気性も知っている。けれども、どうです、飲もうといって、何はともあれ、屈託のない若い豪傑達が目の前に揃っていて、しかも艶麗なのが周りをちらちらする所で、ご意見の鏡とは、こりゃぁ洒落にもならない。
そうして懐へ入れて持って帰れと言われて日にゃぁ、私は人魂を押つけられたように気が滅入った。しかも、お使い番が女教師で、おまけに大のキリスト教信者と来ては助からない」と、打ち微笑み、
「相済みませんが、どうか私の宅の方へお届け下さい、と言って平に謝ると、使いの婦人が、
『私も奥さんとは考えは違っていて、このようなものは信じませんが、貴君を心から思っておられる方の志は通すもんです。私もその方のお気持ちがよく分かったもんですから、こうして喜んで参りましたくらいです。しかし、こういうお使いは生まれて初めてです』と言った。こりゃ誰だって、本当にそうでしょうよ」
十九
「しかし、土手下で雪に道を遮られて、帰る途さえ分からなくなった時、思い出して、ああ、もしもあれを頂いて持っていたら、こんなことにはならなかったのかも知れない。考えてみればいくら叔母だって、わざわざ伊豫紋まで鏡を持たせて寄越すなんて、なまじっかな考えでは出来ないことだ。それを持たせて寄越したのも何かの前兆。私が受け取らないで女の先生を帰したのも、腕車が壊れたのも、車夫に途を間違えられたのも、思えば、来るはずもない吉原近くへ来る約束になっていたのかも知れないと、くだらないことだが、慄としたんです。
もっとも、その時だって、悪し様に言って、受け取らなかったのじゃぁない。懐へでも入れば受け取ったんだけれども」と、自分の胸の辺りをさし覗くようにして、
「こんな服装だから困ったんです。叔母には受け取ったということにして、密と貴女から四ツ谷の宅の方へ届けておいて下さいッて、頼んだもんだから、若い夜会結び(*1)のその先生は気に染まないようだったけれど、
『それでは腕車で直ぐ、お宅の方へ』と言って帰っちまったんですよ。
あとは大飲み。
何しろ土手下で目が覚めたという次第なんですから。
それからね。
何でも、来た方にさえ引返せば、吉原に入る憂慮はないと思って、とぼとぼ歩行いていると向かい風で。
右手に大溝(*2)があって、雪を被った小家が並んで、そして三階造りの大建物の裏らしく、ぼんやり明かりのついているのが見えてね、刎橋が幾つも幾つも、まるで卯の花縅の鎧の袖を、こう」
と、着せてもらった半纏の袂を引いて、
「裏返したように溝を前にして、家の屋根より高く引き上げてあったんだ」
それも物珍しいので、もやもやしている胸の中にも、脇見がてら二ツ三ツ四ツと、五足毎に一ツくらいを数えながら、靴も沈むほど積もった路を、一足一足踏み分けて、欽之助が田町の方へ向かって来ると、お歯黒溝が折れ曲がって、途切れようとする所に、一ツだけ、その溝の色を白く裁ち切って刎橋の架かったままのがあった。
「そこの所に婦人が一人立っていました。よし、路を訊こうと、声を掛けようと思った時、近づく人に白鷺が驚き立つように、前へとすたすたと歩行き出したのです。何だか気が咎めて、こっちも立ち止まると、烈しく雪の降り荒ぶ中へ、その姿が隠れたが、見ると刎橋の際へ引き返してきて、またするすると向こうへ走る。
で、続いて歩行き出すと、今度は向き直ってこっちへ帰って来るから、私もまた立ち止まるという具合。それが三度目には擦れ違って、婦人は刎橋の所に。
私は歩行き越して入れ違いに、今度は振り返って見るようになったんだ。
そうするとその婦人がこう、彳んだ切り、うつむいて、さも思案に暮れたという風情で、悄然として、その哀れさといったらなかったものだから、私は二足ばかり引返した。
何か一人ではできかねることがあるのだろう、そんな時には頼めそうな人に力になって欲しかろう。自分を見て遁げないものなら、どんな秘密を持っていようが、声を掛けても構うまいと思ってね。
実は何、こっちだって味方が欲しい。またどんな都合で腕車の相談ができないものでもないとも考えたから。
あなた、どうしたんですッて」
「まあ、ご親切に」と、話に聞き入っていたお若は、不意に口へ出した。心で思っていたことが声に出たのであった。
「傍へ寄ってみると、案の定、裸足でいる。(*3)実にしどけない風で、長襦袢に扱帯を締めたッ切り、鼠色の上着を合わせて、兵庫という髪型が判然見えた。それもばさばさして、今寝床から出たという姿だから、私は知らないけれど疑いはない、玄人だ。背の高いね、恐ろしいほど品の好い遊女だったッけ」
*1 夜会結び……明治・大正時代に流行した女性の髪型。
*2 大溝……遊郭の周囲に巡らされているお歯黒溝のこと。
*3 案の定、裸足でいる……吉原の遊女は冬でも足袋を穿かなかったという。
二十
「その婦人に頼まれたんです。姉さん」と言いかけて、美しい顔をまともに屹と女に向けた。
お若は気持ちが浮き立ったように若者の顔からちょっと背けて、大呼吸をつきながら、黙って聞いているお杉と目を合わせた。
「誰かしら?」
「へい」と、お杉はただまじまじするばかり。
「姉さんにその遊女が今夜お届けしなければならない約束のものがあると言うんだ。寮にいらっしゃるお若さん、同一ご主人だけれども、旦那とかには言われないこと、朋友にも知られてはならず、新造などに悟られては大変なので、昼から間を見て、と思っても、つい人目があって出られなかった。
ちょうど今夜は、大一座の客があって、雪は降る、部屋々々でも寝込んだのを幸いに抜けて出て、ここまでは来ましたが、外の土を踏むのさえ久しぶりで、足がすくんで震える上に、今はこういう所へ出られる身分ではないから(*1)、どんな目に遭うとも限らない。
『寮はもうそこに見えます。一町もないくらいの所、紅梅屋敷と言えば直に分かりますが、あれ、あんなに犬が吠えて、どうすることもできないから、生命を助けると思って、これを届けて下さい』ッて、拝むようにして言ったんだ。なるほど、今考えるとここいらで大層犬が吠えたっけ。
何、頼まれる方にすれば、別に大したことでもない。様子の分からない廓のことだが、本人にとっては何かしら一大事ででもあるようだから、私が直に品物を託かって来たんです。
ただ渡せば可いのかと言うとね、何もおっしゃらないでも寮の姉さんはよくご存じ、とこう言うので承知をしました。
その寮はッて訊くと、ここを一町ばかり、左の路地へ入った所だと言う。ちょうど可い、帰路もそこだ。で、そのまま別れてずっと行くと、先刻尋ねました路地の突き当たりになる通りの内に、一軒灯りの見える長屋の前まで来ました。振り向いてみると、その婦人がまだ立っていて、こっちへ指さしをしたように見えたけれども、朧気でよくは分からない。なので、ここは一番、その灯りを頼りにしようとする時、
路地をお入んなさいッて、酒にでも酔ったらしい爺さんの声で教えてくれた。
何、一々詳しいことをお話しすることもなかったんだけれど、こっちへ入って、はじめてこの明るい灯りを見ると、何だか雪路のことが夢のように思われたから、自分でも確乎と気を落ち着かせるため、それから、ちゃんと経過を言わないでは、夜中に婦人だけの所へ、たとえ頼まれたッても変だから。
そういう訳です。ともかく、その頼まれたものを上げましょう」といって、無造作に肘を張って、左胸の衣兜の中へ手を入れた。――
固くなって聞いていた二人とも身動きして、お若は愛くるしい頬を支えて白い肱に襦袢の袖口を搦めながら、少し仰向いて、考えているらしく、銀のような目を細め、
「何だろうね、杉や」
「そうでございますね」と言っただけで、一大事の、生命がけの、約束の、助けるのと、杉には些とも心当たりはなかったが、敢えて客の言葉を疑う風はなかった。
「待って下さい」とこの時、また右の方の衣兜を探って、小首を傾げ、
「おや? じゃぁ外套の方だったか」と、片膝を立てかけると、
「私が」と言って、杉が立ち上がって外套を取りに行った。
「確か、左の衣兜へ」
と、差し俯向いた所へ、玄関から、この人のと思うから、濡れているのも厭わず、大切に抱くようにして持ってきた。
敷居の上に斜めに拡げて、またその衣兜へ手を入れたが、冷たかったのか、慄としたようであった。
*1 今はこういう所へ出られる身分ではないから……遊女は勝手に廓の外へ出ることは禁じられている。
二十一
「可うございますよ、お落としなさいましても、あなた、些ともご心配なことはないの」
探しあぐんで、外套を押しやって、少し慌てたように広袖を脱ぎながら、上衣の衣兜へまた手を入れて、顔色を変えて、悄れたように、じっと考えているのを見て、お若はゆったりと構え、あたかも意にも介していないような、しかも情の籠もった調子で、却って慰めるように言った。
お杉は気が気でなくなり、憂慮しげに若者の様子を見守りながら、さすがにこの時は口を入れかねていたのであった。
欽之助はますます当惑の色を顔に表し、
「可いじゃァありません、可かぁない、可かぁない」
と自ら我が身を罵るように、
「落とすなんて、そんな暇はある訳はないんだからからねぇ。頼んだ人の生命にもかかわる」と、早口に言って、また四辺を見廻した。
「一体どんなものでございます」と、お杉は若者の言葉に続いて、彼を庇うようにして言う。
「私も更めはしなかった。否、実は見ようとも思わなかったんです。何でもこう、紙に包んだ、細長いもので、受け取った時、少し重みがあったんだがね」
お若はちょっと頷いて、
「杉」
「ええ」
「瀬川さんの……ね、あれさ」と得心させる。
「ええ、なるほど、貴下、それじゃぁ、何でございますよ、抱えの瀬川さんという方にお貸しなすったあれですよ。あの、お頼まれなすった遊女は、背の高い、品の可い、そして淋しそうな顔色の……。ああ煩っているもんだから。間違いなく、そうですよ!」
と、勢いよくそれに決めた。
「今夜までに返すからと言ったにゃぁ言いましたけれども、何、少姐さんは返してもらうおつもりじゃございませんのに。やっと今こっちじゃぁ思い出しましたくらいですもの」
「何です、それは?」と、少しホッとした顔つきで言った。口振りを聞けば金子らしい。そうであればと思いながら、今も衣兜の中に入れたままの手尖に触れるのは袂落とし(*1)。
そこには、勉学のために近々ドイツに行こうとする脇屋欽之助が、叔母である今は亡き陸軍少将松島主税の夫人からもらった、ここに投げ打っても差し支えのない金がある。これなら、余りにも情けない自分の落ち度の罪を、この佳人の前に差し出しても未だ十分余裕があると考えたのである。
訊かれて、お杉はその言葉を引き取り、
「些とばかりのお金子です」と言えば、
欽之助は嬉しそうに、
「じゃぁ、私が償おう。否、どうぞそうさせておくんなさい。大きな額なら、私が取りに帰ってくるまで待ってもらうけれど、それほどでもない額なら、使って可いのを持っているから」と、言葉を強めて言った。
「とんでもない、貴下」と杉。
お若は知らん顔をして、莞爾している。
欽之助は熱心に、
「お願いだから、可いんだから。それでないと、本当に面目を失う。こうやって顔を合わしていても冷や汗が出るほど、何だか極まりが悪いんだ。夜夜中、見ず知らぬ者が入り込んで、変な話だ」
「あなた、可いんですよ。私はお金子を持っています。何にも使わないお小遣いが沢山あるわ。銀のだの、貴下、紙幣だの」と言いながら、窮屈そうに坐って畏まっていたお若は、裏が勝色(*2)の褄を崩して、膝を横にし、玉のように白い腕を投げ出すように火鉢にかけて、斜めに欽之助の顔を見た。姿も容も、そして、また世にこれほどにまで打ち解けて、ものを隠さない人を信じた、美しい、しかも蟠りのない言葉はあるまい。
*1 袂落とし……着物を着たとき、紐(鎖)を首に掛け、先に付けた袋を左右の袂に振り分け、小銭や煙草を入れておく小物入れだが、ここは洋服を着ているので、ポケットの中にあるもの。
*2 勝色……褐色。紺色の一種。黒く見えるほど濃い藍色。
つづく