点灯頃(ひともしごろ)
点灯頃
十三
「はい、はい、誰方だい?」
作平のよぼけた後姿が見えなくなってからも、五助は少時薄暗い先を見通していたが、さてと、周りを見廻せばなおのこと暗く、もう点灯頃であった。
物の色は分かるが、思いなしか陰気でならず、何時もより早く洋燈を、と思うところへ大音寺前の方から盛んに曳き込んでくる乗込客、今度は五、六台、引き続いて三台、四台、少時は引きも切らず、がッがッ、轟々という音に地鳴りを交えて響く。馴れたこととは言え、腹にこたえ、鬱陶しそうに、ぼんやり眺めていたが、それもやがて途絶えると、裏口にフト気配があった。
五助はわざと大声で、
「お勝さんかね。……何だ、隣か?」と面倒臭そうに呟いたが、
「あれ、まぁお上がんなせぇ、構わずずいと入って可いよ、誰方だね」
と言って、耳を澄ますと、
「畜生、この間もその手で驚かしゃぁがった尨犬か。しかもあの時は真夜中だったろう。トントントンに、誰方だと聞きゃぁ黙然で、蒲団を引っ被るとトントンだ。誰方だね、うむ、黙りか、またトンか、びっくりか、トンと来るか。で、とうとう戸外から廻ってお隣にもご迷惑をかけた。どれくらいか臆病面をさげて極まりの悪い思いをしたか知れやしねぇ、畜生め。人が臆病だと思いやぁがって」と、むかっ腹を立ててずいと立てば、不意に膝掛けの端が足に絡み、亀の子みたいに這いつくばった。
この野郎、とばかり膝掛けを蹴飛ばし、仕事場から一段膝をついてにじり上がり、裏口へ続く室の障子を密と開けた。その室は早くも真っ暗がりだが、足をずらしてつかつかと出ても、馴れているので畳の破れにも突っかからない。台所は直ぐ横になっているので、長火鉢の前から手を伸ばし、柄杓をそのまま手に取った。水を並々と一杯汲んで、突然頭から打っかぶせる気である。お勝がそんな家業でも、流石に婦人、ぴったり閉めてある水口の戸をガラリと開けて、
「畜生!」と言ったが、拍子抜け。犬も何もいないのであった。
首を出して見廻すと、がさともしない裏のごみ捨て場。そこへ潜って遁げたのでもない。その先には黒塀が犇めき合って、遥かに一並び、一ツ折れてまた一並び、三階の部屋々々の棟の数は多いけれど、未だどこにも灯は点っておらず、森として三味線の音も聞こえない。ただ遥かに空を衝いて、その夜の真っ黒な雲の中に暗緑色の燈が陰惨とした光を放ち、大屋根に一眼、一角の鬼が突っ立ったように見えるのは、二上屋の常燈である。
五助は水口から半身を突き出して立っていたが、頻りに背後を見られるような気がしてならず、誰もいないところへ柄杓で水をぴっしゃり撒き、
「ちょッ」と舌打ちをして振り返った。暗がりを透かすと、開けたままの障子の中から切り取ったように戸外の人通りが見える。
やがて元の仕事場の座に戻って、フト気づいてはッとなった。
「おや、変だぜ」
五助は片膝を立て、中腰になり、四つん這いになったりして捜しまわり、膝掛けを振ってみたりして、きょときょとしながら、
「あれ? 先刻はあんなことだったから、手に持ったまま、待てよ、作平が行った後……、むむ、おかしいな」
正に今日の日、先程研ぎ上げた、紅梅屋敷、すなわち寮の女、お若の剃刀をどこへか置き忘れてしまったのであった。
「懐中へは入れていないよな」と言いながら、慌てて懐中へ入れた手を、そのまま胸にして、顔の色を変えたのである。
しばらくして、
「まさか棚へ」と、思わず声に出して、フト顔を上げると、一枚開けた障子の際の敷居に裾を垂れ、扱帯の上あたりで褄を取って、鼠地に雪散らしの模様のある部屋着姿。眉鮮やかで、鼻筋が通り、真っ白な頬に鬢の毛が乱れたのまで判然と見え、背がすらりとして、結い上げた髪が鴨居にも支えそうそうなのが、じっとこちらを見詰めていた。五助は声も出せず、身も縮み込んで、凍りついた。
「五助さん……」と何とも言いようのない太い声をして、左の手で襟を開け、褄を持っていた手を、ふらふらとしている袖口に入れると、裾がはらりと落ちて、背が二、三寸伸びた。と思うと、肉付き豊かな温もりもまだありそうな乳房も見える懐から、まともに五助に差し向けた蒼ざめた掌に、毒蛇の鱗が輝くような一挺の剃刀を挟んでいて、
「これでしょう……」
五助はぐぁんと耳が鳴った。頭に響く声は幽かだが、山に、川に、野の末に、糸より細く聞こえるように、
「不浄除けに別にするンだとさ、ほほほほほ」
僅かに開いた唇に、艶々とした鉄漿がちらりと見え、いかにも幻だと思えるのが目の当たりにあった。
「わッ」と言うと真俯向き。五助は生きた心地もない。
「横町に一ツずつある芝の海(*1)だ、ほら見ろよ、長屋の中を突き通して廓が見えるぜ」と、こんな時にも戸外では暢気なもの。
「や! 雪だ、雪だ」と誰かが言ったかと思うと、どやどやと学生がやって来た。みんな大へべれけで、『雪の進軍氷を踏んで……』と軍歌を歌いながら、どっと雪崩れるように通って行った。
*1 横町に一ツずつある芝の海……「柳多留」初篇に見える川柳。
つづく