夕空
夕空
十一
その時五助は反故紙を扱いて研ぎ澄ました剃刀を拭ったが、持ち直して掌に当てた。
折しも夕暮れの天は暗く、筑波から出た雲が、早くも屋根の上から大鷲の嘴の形をして田町の空を差し覗き、ひとしきり烈しくなった往来する人の姿は、入り乱れて、ただ黒い影だけが行き違っているように見えた。
この時、一際色濃く、鮮やかに見えたのは、屋根越しに遠く見える紅梅の花であったが、それは二上屋の寮の西向きの硝子窓へ、たらたらと流れるような細長い横雲の切れ目から、ほんの短い間だったが、夕陽が映ったからである。
剃刀の刃は手許の暗い中で、短く鋭い青い光を放ち、颯々と音を立てて、骨をも切れんばかりに皮を辷った。
「これだからな、自慢じゃぁねぇが、悪くすると人殺しの道具にならぁ。ふむ、それが十九日なのか」と言って、少し鬱ぐ。
「そこで久しぶりじゃ、私もこちらへは些と遠ざかっておったで、また、気にもなっていた廓を一廻りして、それから例の箕の輪へ行って、どうせ苔の下じゃぁろうけれど、適当に見当をつけて、そこをそのお嬢さんの墓だと思って挨拶をしてこようと、ぶらぶら内を出て来たが。
いつもの通りお前ン許へお邪魔をすると、不思議な話じゃ。後前はよく分からいでも、十九日という言葉に耳が立っての。
何じゃ知らんが、日が違わんから、こりゃ! とピンと来たのよ。
五助さん、お前の許にもそういう関わり合いがあるのなら、悪いことは言わん、お題目(*1)を唱えて進ぜなせぇ。
や、つい話し込んで遅くなった。やっとこさと、今日はもう箕の輪だけ廻ることにしよう」と、言うだけのことを言って、作平は早くも腰を上げようとする。
途端にがらがらと腕車が一台、目の前に現れて、人通りの中を曳いて通る時、地響きがして、土間もろともに五助の身体はぶるぶると胴震い。
「ほう」と言って、俯向いてぼんやりしていた顔を上げると、眼鏡を外して、
「作平さん、お前さんを怨むよ。そうでなくっても今日は例のお客様(*2)がなけりゃぁいいが、と朝から父親の命日みたいな気がしているから、正直言えば、心ン中じゃお題目を唱えているよ。
唱えて進ぜなせぇは分かるけれども、お前、言わなくてもいいものを、私ン許と関わり合があるたぁ、よく言ったもんよ。いやもう、てっきり疑いなし。絶対間違いなし。お旗本のお嬢さん、どうしたってそのままで済むものか。話の様子じゃぁ、念が残らないはずがない。七代までは祟ります。むむ、祟るとも。
冗談じゃぁねぇ、どの道、何か怨みのある遊女の幽霊とは思ったけれど、何楼の誰だか分からねぇ内はまだしも、そんなにぴったり日が合って、剃刀があって、辻褄が合っちゃぁ叶わねぇ。
それでお前、咽喉を突いたんだって言ったじゃぁねぇか」
「ここから、これへ」と、作平は垢じみた細い皺だらけの咽喉仏を露出して、握り拳で遣り方を見せる。
五助も我知らず、つい、ぱくりと口を開いて、
「ああ、ああ、さぞかし血が出たろうな、血が」
「そりゃ出たろうとも。たらたらたら」と、胸へ真っ直ぐに棒を引く。
「うう、そして真っ赤か」
「黒味勝ちじゃ、鮪の腸のようなのが、たらたらたら……」
「止しねぇ、何だな、お前、それから口惜しいッて歯を噛んで」
「怨み死にじゃの。こう髪を啣えての、凄いような美しい遊女じゃとの。恐いほど品の好いのが、それが、お前こう」と、口を歪める。
「おお、おお、苦しいから白魚のような手を掴み、足をぶるぶる」と、五助は自分で身悶えして、
「そして、お前、死骸を見たのか」
「何を言わっしゃる、私は話を聞いただけじゃ。遊女の名も知りはせんが」
五助は目を睜って、ホッと呼吸をつく。
「何だ、まぁ、脅かしなさんな」
*1 お題目……南無妙法蓮華経。
*2 例のお客様……剃刀が一挺失くなること。
十二
作平も苦笑いして、
「だってお前が、おかしくもない、血が赤いだの、指をぶるぶるだのと言うからじゃ」
「目に見えるようだ」
「私もだ」
「見えるのか、ええ?」
「ともかくの」
「何もそう、幽霊に親類がいるように落ち着いていてくれることはねぇ。これが同一でも、おばさんに雪責めにされて死んだとでもいう脆弱い遊女の幽霊なら、五助も男だ、そうまでも驚かねぇが、旗本のお嬢さんで、腕に覚えがあって、狼藉者を一人もんどり打たせたと聞いちゃぁ、どうしようもねぇ、身体も強ばるわな。
作平さん、こうなりゃ、お前が対手だ、このまま放しッこはなしだぜ。
一升買うから、お願いだからお前、今夜は泊まり込みで、炬燵で付き合ってくんねぇ。だいたい、今日はお勝さんが家にいる日なんだけれど、どうしたものか、今日に限って出てしまったのも具合が悪いッてもんだ。
そうかといって、吉原に厄介になろうという歳じゃぁなし、こんな理由で、むやみに廓に入るかい。却って敵に生け捕られるも同然だ。夜が更けてみな、油に燈芯ッてのは、その雰囲気からして堪ったものじゃぁねぇ。恐ろしい。名代部屋(*1)の天井から、突然剃刀が天降って来くりゃぁ生命に関わるからの。よ、隣の店はなかなか可いぜ。はんぺんの煮込みなんぞをいただいて、別に厚切りの鮪でも取って置かぁ、あれやこれやと、お前とまた昔話でもはじめてよ……」と、歳にも似合わず悄気込んだ。
作平は嬉しいとは思ったけれど、嬉し涙よりも先に水洟を啜って、
「可い話だな。酒と聞いては腰を上げにくいところだが、このまま腰を据えていては浄閑寺のお花主(*2)に相済まぬて」
「それを言うなというのに。無縁塚をお花主だなどと、とかく魔のものと親しくするから悪いや。で、どうする」
「もう遅いから廓廻りは見合わせて、直ぐに箕の輪へ行って来ます」
「うむ、それもそうだの。私も信心をするが、お前もよく拝んで、お許しをもらってお暇して来ねぇ。廓どころか、浄閑寺の方も一ッ走りに行って早いこと済ませてきた方が可いぜ。とても独りじゃやりきれねぇ。荷物は確かに預かったい」
「私も何か旨ぇ乾物など見付けて提げて来よう。待っていてさっせぇ」と作平はてくてく戸外へ出掛けたが、
「寂しいって言うが、こんなに人通りがあるじゃないかい」
「いいや、ここいらを歩行くのに怨霊を成仏させるような頼もしい徳のある人は一人も居ねぇ。それにひとしきりの間ひッそりすりゃぁ、またその時の寂しさっていうのは、まるで時雨が留んだ後のようだ」
作平は空を仰いで、
「すっかり曇って暗くなったが、この陽気はずれの寒さでは……」
五助はすかさず、
「白いものか、おお禁物、禁物」
*1 名代部屋……妓楼で客人を待たせる部屋。
*2 浄閑寺のお花主……浄閑寺に葬られている遊女達。
つづく