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泉 鏡花「註文帳」現代語勝手訳   作者: 秋月しろう
4/10

作平物語

 (さく)(べい)物語


 九


「ところで、聞かっしゃい、差配(おおや)(さま)の言うのには、

(さく)(べい)一番(ひとつ)念入りにやって欲しいものがある、その代わり儲かるぜ。十二分のお手当だ』と、膨らんだ懐中(ふところ)から取り出したのは、(しゅ)(ぶさ)付きで、(にしき)の袋に入った一面の鏡。

 何でも差配(おおや)さんがお出入りしている、麹町辺りのご大家の鏡じゃそうな。

 さあ、ここじゃよ。十九日の因縁に関わるのは。

『憚ってお名前は出さないが』と差配(おおや)さんは言わっしゃるが。

 そのご大家(たいけ)は今、後家(ごけ)様じゃ。まぁ、未亡人と言うのかい。ところで、その旦那様というのはしかるべきお侍。いや、もうその頃は、お侍と言うのではなく、金モールを()けた軍人と言うのじゃけれども。

 鹿児島戦争(*1)の時に大きなお手柄を立てて、馬車に乗らっしゃるほどのご身分になんなさったと。その方が若い時のことよ。

 誰もこの迷いだけは免れぬわ。やっぱりそれ、こちとら吉原遊郭の遊女(おいらん)に馴染み深いのが一人できて、雨の夜も、雪の夜も通い詰めじゃ。とどの詰まりがの、床の山で行き倒れ、というくらい離れられない仲になった。遊女(おいらん)はこのままんま、そのお(かた)と死んで一緒になりたいという一心。それ以外のことは考えられなくなったというものかい。居続けの朝のことだと言うが。

 遊女(おいらん)は自分が薄着なことも、髪の乱れたのも気が付かないほど、すっかり男の情人(いろ)だという顔付きで、しみじみと相手を見れば、(やつ)れりゃ、窶れるほど嬉しいような男振(おとこぶ)りじゃが、大層髭が伸びていた。

 鏡台(きょうだい)の前に座らせて、(うがい)茶碗で濡らした手を、男の顔へ、こう()けながら背後(うしろ)へ廻った、とまあ思わっせぇ。

 遊女(おいらん)は、何か思うことがあってしたことなのか、わざと八寸の延べ鏡を鏡立てに据えていた。男はそれに映る女の顔から目を放さない。

 背後(うしろ)から肩越しに気高い顔を一緒に映して、遊女は死のうという気じゃ。

『あなた私の心が見えましょう』と、覗き込んだ時に、男は

『ああ、堪忍しておくれ』と、据えてあった鏡を取り、俯向(うつむ)けにして、ぴったりと自分の胸に押し着けたと。

『何を、他人でもあるまいものを、あなた』と言いながら肩につかまった女の手を、背後(うしろ)ざまに()ねて、

『いいや、恨み言になるけれど、お前には今さらだが、どうしようもない気持ちになっている。母様(おっかさん)によく()た顔を、ここで見るのは申し訳がないのだ』と言って、がっくり俯向(うつむ)いて男泣き。

 遊女(おいらん)はこれを聞くと、何と思ったか、それだけのものさえ持てようかという痩せた指で、剃刀を握ったまま、顔の色を変えて、ぶるぶると震えたそうじゃが、突然(いきなり)逆手(さかて)に持ち直して、何と、背後(うしろ)からものも言わずに、男の咽喉(のど)へ突っ込んだ」

 五助は剃刀の(ひら)を指で(おさ)えたまま、ひょいと手を止めた。

「おお、危ねぇ」

「それにの、刃物を刺すといやぁ、針刺しへ針を刺すことくらいに得意な婦人(おんな)じゃった。

(おら)遊女(おいらん)の名と坂の名はついぞ覚えたことはねぇ』って、差配(おおや)さんは忘れたと言わしッたっけが、その遊女(おいらん)は本名をお(ぬい)さんと言っての、身分としてはそれほど大したことはなかったけれど、(れっき)とした旗本のお嬢さんで、お(やしき)は番町辺り。

 何でも、徳川様が没落した時分に、父様(おとっさん)の方は(しょう)義隊(ぎたい)(へぇ)んなすって、お(まえ)、お嬢さんは可哀相にお屋敷の前で茣蓙(ござ)を敷いて、蒔絵(まきえ)だの重箱(じゅうばこ)だの、お雛様だの、錦絵だのを売ってござった。そこへ男が通りかかって、お互い見染め合ったという悪縁じゃ。男の方は長州藩の若侍。(*2)

 それが物が変わり、時が移りして、講釈師の言い(ぐさ)じゃぁないが、有為(うい)転変(てんぺん)の末、吉原で巡り会う、という運命的な交情(なか)であったげな。

 牛込(うしごめ)見附(みつけ)で、半端(はんぱ)(ざむらい)の乱暴者を一人、内職を届けた帰りがけに、もんどりを打たせたという腕前のお嬢さんじゃ。(くるわ)でも一時(いっとき)、近寄りがたいほどだったというのが、思い込んで剃刀で突いた一撃だ」

「ほい」



 *1 鹿児島戦争……西南戦争。


 *2 男の方は長州藩の若侍……女の家は幕府軍、男は新政府軍、たがいに敵同士。




 十


「男はまったく油断していた。万に一つも助かる生命(いのち)じゃぁなかったろうに、ご運が良かったのかの。遊女(おいらん)は気が()いたのか、少し狙いが外れたところへ、俯向(うつむ)いて胸に押し当てていなすったその鏡で、かちりとその剃刀の刃が()まったと。

 (わし)はどちらがどうとも言わん。遊女(おいらん)の贔屓をするのじゃぁないけれど、思い詰めたほどのことなら、遂げさせてやりたかったわ。それだけ心得のある婦人(おんな)が、し損じたとは、まぁ、どうじゃ」

「で、どうなった」

「その代わり返す手で、自分の咽喉(のど)()ね切った遊女(おいらん)の姿の見事さ!

 口惜(くや)しい、口惜しい。可愛いこの人の顔を余所(よそ)婦人(おんな)に見せるのは口惜(くや)しい! との、唇を噛んだまま、それきりだ。

 男は鏡を見なすった時に、本当にハッと我に返って、もう悪所(あくしょ)(*1)には来るまいと、(きっ)とした気持ちになったのじゃろうな。

 その様子を見て悟った遊女(おいらん)も勘が(するど)かった。男は煩悩の雲が晴れた真実(ありのまま)の月をはじめて拝むようなもの。生命(いのち)の親というか、智識というか、それをそのまま押し戴いたのがその鏡じゃ。そう、(ふさ)付き錦の袋に入ったのはその鏡のはずじゃて。お(いえ)にとっては宝じゃもの。

 念を入れて仕上げてくれ。その未亡人様が実の()よりも可愛がっておいでなさる甥御が一人、悪所の茶も飲まず、ごく最近、ある立派な学校を卒業なされたので、そのお祝いにご教訓をかねてお贈り物になさるつもり。まぁ、早く言ってみりゃぁ、気が緩んで女狂い、つまり悪所入りなどをなさらぬようにというのじゃ。

『作平頼む』と、差配(おおや)さんが置いて行かれたので、(かしこ)まり(たてまつ)って、昨日それが出来て、差配(おおや)さんまで差し出すと、そのまま直ぐに麹町のお邸とやらへ行かしった。

 ()ともし頃に帰ってきて、

『作、喜べ』と、大枚三両(*2)。これはこれはと心から辞退をしたけれども、

『いや、先方(さき)様でも大喜び』と、実は鏡について先刻(さっき)の話のあったのは、ご維新(いっしん)になって八年、霜月(*3)の十九日じゃ。月こそ違うが、日は同一(おんなじ)、丁度昨日の(こと)で今日十九日、(あらた)めてその甥御様に送るのに間にあった、ということで、『研ぎ賃には多いだろうが、一杯飲んでくれ』とこう言うのじゃ。

 頂きます、頂きます。飲み(しろ)にというのなら、百両でもご辞退などはいたしませんと、さあ飲んだ、飲んだ、昨夜(ゆうべ)一晩。

 酔った頭で、なぁ五助さん、考えてみればなるほどなと思った。その大家(たいけ)の旦那がすっかり心を入れ替えられたんだ。こりゃもっともだて。

 お連れ合いの今の未亡人様が忘れずに大事にしてござっしゃるお心掛けも立派だ。(いわ)れがあってお宝ものにされた鏡は(にしき)袋入(ふくろいり)、こいつも()いわい。その研ぎ手に(わし)をつかまえた差配(おおや)さんも気に入った。研いだ作平も()()いわ。立派な身分になんなすった甥御も()し。(いまし)めのためと言うて、贈り物にさっしゃる趣向もよかった。手間賃じゃない、飲み(しろ)にせいという言葉も()し、酒も()い。が、五助さん。

 その発端になった旗本のお嬢さん、剃刀で死んだ遊女(おいらん)の身になってご覧、またこれ位よくない話しはあるまい。

 迷いじゃ。迷いは迷いじゃが、自分の可愛い男の顔を、(ほか)婦人(おんな)に見せるのが厭さに、男が一緒に死んでくれないとしたころで、殺して自分も死のうとまで思い詰めた心根はどうじゃい。

 それを考えれば、酒も咽喉(のど)を通らぬものを、と思うだろうが、いやそうではない。いつも(じょう)閑寺(かんじ)にお参詣(まいり)する(わし)への(れい)(ごころ)に、魂がこの世に(とど)まっている無縁の信女(しんにょ)(*4)達の代表として、お縫さんが麹町の宝物である鏡を稲荷町まで持ってこさせて、(わし)に一杯振る舞うてくれる気だと、早や手前勝手な解釈。単に飲みたいだけの理屈をつけて、さあ、(あお)るほどに、溺れるほどに呑んだわ、五助さん、どうだ。

 (わし)の顔色の悪いのは、こう言っちゃぁ何だが、今日だけは貧乏のせいではない。三年に一度という二日酔いの上機嫌じゃ。ははは」といかにも心よさ()に見えた。



 *1 悪所(あくしょ)……遊里。


 *2 三両……三円のこと。


 *3 霜月……陰暦11月。新暦では11月下旬から1月上旬頃にあたる。


 *4 信女(しんにょ)……女性の戒名の下に付ける称号。




 

鏡研ぎ職人について。

前回触れなかったが、朝田祥次郎氏の注釈(補注)には

「ガラス製が行われる以前の鏡は金属製なので、日がたてば自然に曇るのを、磨く職人である。むしろにすわって、(ほう)の木の炭で鏡のさびを落とし、砥の粉をふりかけ、朴の葉の束で磨き上げたという。……以下略」(前掲書P.570)とある。


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