作平物語
作平物語
九
「ところで、聞かっしゃい、差配様の言うのには、
『作平、一番念入りにやって欲しいものがある、その代わり儲かるぜ。十二分のお手当だ』と、膨らんだ懐中から取り出したのは、朱総付きで、錦の袋に入った一面の鏡。
何でも差配さんがお出入りしている、麹町辺りのご大家の鏡じゃそうな。
さあ、ここじゃよ。十九日の因縁に関わるのは。
『憚ってお名前は出さないが』と差配さんは言わっしゃるが。
そのご大家は今、後家様じゃ。まぁ、未亡人と言うのかい。ところで、その旦那様というのはしかるべきお侍。いや、もうその頃は、お侍と言うのではなく、金モールを着けた軍人と言うのじゃけれども。
鹿児島戦争(*1)の時に大きなお手柄を立てて、馬車に乗らっしゃるほどのご身分になんなさったと。その方が若い時のことよ。
誰もこの迷いだけは免れぬわ。やっぱりそれ、こちとら吉原遊郭の遊女に馴染み深いのが一人できて、雨の夜も、雪の夜も通い詰めじゃ。とどの詰まりがの、床の山で行き倒れ、というくらい離れられない仲になった。遊女はこのままんま、そのお方と死んで一緒になりたいという一心。それ以外のことは考えられなくなったというものかい。居続けの朝のことだと言うが。
遊女は自分が薄着なことも、髪の乱れたのも気が付かないほど、すっかり男の情人だという顔付きで、しみじみと相手を見れば、窶れりゃ、窶れるほど嬉しいような男振りじゃが、大層髭が伸びていた。
鏡台の前に座らせて、嗽茶碗で濡らした手を、男の顔へ、こう懸けながら背後へ廻った、とまあ思わっせぇ。
遊女は、何か思うことがあってしたことなのか、わざと八寸の延べ鏡を鏡立てに据えていた。男はそれに映る女の顔から目を放さない。
背後から肩越しに気高い顔を一緒に映して、遊女は死のうという気じゃ。
『あなた私の心が見えましょう』と、覗き込んだ時に、男は
『ああ、堪忍しておくれ』と、据えてあった鏡を取り、俯向けにして、ぴったりと自分の胸に押し着けたと。
『何を、他人でもあるまいものを、あなた』と言いながら肩につかまった女の手を、背後ざまに弾ねて、
『いいや、恨み言になるけれど、お前には今さらだが、どうしようもない気持ちになっている。母様によく肖た顔を、ここで見るのは申し訳がないのだ』と言って、がっくり俯向いて男泣き。
遊女はこれを聞くと、何と思ったか、それだけのものさえ持てようかという痩せた指で、剃刀を握ったまま、顔の色を変えて、ぶるぶると震えたそうじゃが、突然逆手に持ち直して、何と、背後からものも言わずに、男の咽喉へ突っ込んだ」
五助は剃刀の平を指で圧えたまま、ひょいと手を止めた。
「おお、危ねぇ」
「それにの、刃物を刺すといやぁ、針刺しへ針を刺すことくらいに得意な婦人じゃった。
『俺ぁ遊女の名と坂の名はついぞ覚えたことはねぇ』って、差配さんは忘れたと言わしッたっけが、その遊女は本名をお縫さんと言っての、身分としてはそれほど大したことはなかったけれど、歴とした旗本のお嬢さんで、お邸は番町辺り。
何でも、徳川様が没落した時分に、父様の方は彰義隊へ入んなすって、お前、お嬢さんは可哀相にお屋敷の前で茣蓙を敷いて、蒔絵だの重箱だの、お雛様だの、錦絵だのを売ってござった。そこへ男が通りかかって、お互い見染め合ったという悪縁じゃ。男の方は長州藩の若侍。(*2)
それが物が変わり、時が移りして、講釈師の言い種じゃぁないが、有為転変の末、吉原で巡り会う、という運命的な交情であったげな。
牛込見附で、半端侍の乱暴者を一人、内職を届けた帰りがけに、もんどりを打たせたという腕前のお嬢さんじゃ。廓でも一時、近寄りがたいほどだったというのが、思い込んで剃刀で突いた一撃だ」
「ほい」
*1 鹿児島戦争……西南戦争。
*2 男の方は長州藩の若侍……女の家は幕府軍、男は新政府軍、たがいに敵同士。
十
「男はまったく油断していた。万に一つも助かる生命じゃぁなかったろうに、ご運が良かったのかの。遊女は気が急いたのか、少し狙いが外れたところへ、俯向いて胸に押し当てていなすったその鏡で、かちりとその剃刀の刃が留まったと。
私はどちらがどうとも言わん。遊女の贔屓をするのじゃぁないけれど、思い詰めたほどのことなら、遂げさせてやりたかったわ。それだけ心得のある婦人が、し損じたとは、まぁ、どうじゃ」
「で、どうなった」
「その代わり返す手で、自分の咽喉を刎ね切った遊女の姿の見事さ!
口惜しい、口惜しい。可愛いこの人の顔を余所の婦人に見せるのは口惜しい! との、唇を噛んだまま、それきりだ。
男は鏡を見なすった時に、本当にハッと我に返って、もう悪所(*1)には来るまいと、屹とした気持ちになったのじゃろうな。
その様子を見て悟った遊女も勘が鋭かった。男は煩悩の雲が晴れた真実の月をはじめて拝むようなもの。生命の親というか、智識というか、それをそのまま押し戴いたのがその鏡じゃ。そう、総付き錦の袋に入ったのはその鏡のはずじゃて。お家にとっては宝じゃもの。
念を入れて仕上げてくれ。その未亡人様が実の児よりも可愛がっておいでなさる甥御が一人、悪所の茶も飲まず、ごく最近、ある立派な学校を卒業なされたので、そのお祝いにご教訓をかねてお贈り物になさるつもり。まぁ、早く言ってみりゃぁ、気が緩んで女狂い、つまり悪所入りなどをなさらぬようにというのじゃ。
『作平頼む』と、差配さんが置いて行かれたので、畏まり奉って、昨日それが出来て、差配さんまで差し出すと、そのまま直ぐに麹町のお邸とやらへ行かしった。
灯ともし頃に帰ってきて、
『作、喜べ』と、大枚三両(*2)。これはこれはと心から辞退をしたけれども、
『いや、先方様でも大喜び』と、実は鏡について先刻の話のあったのは、ご維新になって八年、霜月(*3)の十九日じゃ。月こそ違うが、日は同一、丁度昨日の話で今日十九日、更めてその甥御様に送るのに間にあった、ということで、『研ぎ賃には多いだろうが、一杯飲んでくれ』とこう言うのじゃ。
頂きます、頂きます。飲み代にというのなら、百両でもご辞退などはいたしませんと、さあ飲んだ、飲んだ、昨夜一晩。
酔った頭で、なぁ五助さん、考えてみればなるほどなと思った。その大家の旦那がすっかり心を入れ替えられたんだ。こりゃもっともだて。
お連れ合いの今の未亡人様が忘れずに大事にしてござっしゃるお心掛けも立派だ。謂れがあってお宝ものにされた鏡は錦の袋入、こいつも可いわい。その研ぎ手に私をつかまえた差配さんも気に入った。研いだ作平も先ず可いわ。立派な身分になんなすった甥御も可し。戒めのためと言うて、贈り物にさっしゃる趣向もよかった。手間賃じゃない、飲み代にせいという言葉も可し、酒も可い。が、五助さん。
その発端になった旗本のお嬢さん、剃刀で死んだ遊女の身になってご覧、またこれ位よくない話しはあるまい。
迷いじゃ。迷いは迷いじゃが、自分の可愛い男の顔を、他の婦人に見せるのが厭さに、男が一緒に死んでくれないとしたころで、殺して自分も死のうとまで思い詰めた心根はどうじゃい。
それを考えれば、酒も咽喉を通らぬものを、と思うだろうが、いやそうではない。いつも浄閑寺にお参詣する私への礼心に、魂がこの世に留まっている無縁の信女(*4)達の代表として、お縫さんが麹町の宝物である鏡を稲荷町まで持ってこさせて、私に一杯振る舞うてくれる気だと、早や手前勝手な解釈。単に飲みたいだけの理屈をつけて、さあ、煽るほどに、溺れるほどに呑んだわ、五助さん、どうだ。
私の顔色の悪いのは、こう言っちゃぁ何だが、今日だけは貧乏のせいではない。三年に一度という二日酔いの上機嫌じゃ。ははは」といかにも心よさ気に見えた。
*1 悪所……遊里。
*2 三両……三円のこと。
*3 霜月……陰暦11月。新暦では11月下旬から1月上旬頃にあたる。
*4 信女……女性の戒名の下に付ける称号。
鏡研ぎ職人について。
前回触れなかったが、朝田祥次郎氏の注釈(補注)には
「ガラス製が行われる以前の鏡は金属製なので、日がたてば自然に曇るのを、磨く職人である。むしろにすわって、朴の木の炭で鏡のさびを落とし、砥の粉をふりかけ、朴の葉の束で磨き上げたという。……以下略」(前掲書P.570)とある。