紅梅(こうばい)屋敷
紅梅屋敷
六
その荷車と子守が行き違った後は何の物音もしない田町の細路へ、捨吉はぬいと出た。
途端にちりりんと鈴の音がして、袖が擦り合うまでの所へ自転車が一台、と、瞬きをする間もなく、それに続いて
「危ない」と声を掛けてまた一台。あッと退ると、耳許へ再び、ちりちり!
土手の方から颯と駈け抜けて来た。全部で三台か、あるいは三羽か、三疋か。燕か、兎か、見分けもつかず、波が揺れるようにたちまち見えなくなった。
棒立ちになって、捨吉は茫然と見送りながら、
「何だ、一文も無ぇくせに」と言えば、
「てめぇじゃァあるまいし」の声。
「や、」
「どうした」
「へい」
「近頃はどうだ、些たぁ好い思いはしているか、てめぇ、桐島のお消しに随分ご執心だと言うじゃぁないか」
「どういたしまして」
「私にご遠慮には及ばんよ」
「否、遠慮しているのは先方へでございます。旦那にじゃぁございません」
「そうか、女に遠慮するなんぞ、いや意気地のない奴だ」と、屈託のない高笑い。少し禿げ上がった頭を光らせ、血色の好い顔形の、年齢は五十五、六。結城の襲衣に平絎帯(*1)、棒縞の綿入れ半纏をぞろりと羽織って、白縮緬の襟巻をした、この旦那と呼ばれたのは、二上屋藤三郎という遊女屋の亭主で、廓内の有力者である。今は、見番(*2)の取り締まりを勤めているのだが、それが今、向こうの路地の奥からぶらぶらと出て来たのであった。
界隈の者が紅梅屋敷と呼ぶ二上屋の寮(*3)は、新築され、実にその路地の突き当たりにあって、通りに並ぶ貧相な長屋の屋敷越しに見える。その建物からちらちらと覗く紅は、早くも咲き初めた莟である。
捨吉は更めて、腰をかがめて揉み手をし、
「旦那、ご一緒に」
「おぉ、お前もこれからかの」
というところへ、萌黄裏の紺木綿に『二』の字を抜いたパリッと糊の付いた半被で、その威勢だけは可いが、かれこれ七十にもなろうかという十筋右衛門(*4)が向鉢巻で現れた。
もう一人、唐縮緬の帯をお太鼓に結んだ品のいい高島田が、風呂敷包みを小脇に抱え、二人して寮の方から路地口へ。
捨吉はこれを見て、
「や、爺さん、こりゃ姉さん」と言えば、藤三郎が、
「ああ、今日は些との、内に芝居者(*5)のお客があっての、実はこっちの寮で一杯やろうと思って、その準備に来てみると、困るじゃぁねぇか、お前」
「へいへい、なるほど」
「お若が例の我が儘をはじめての、騒々しいから厭だと言うわ。じゃぁ一晩だけ店の方へ行ってろと言ったけれど、それを応と言う奴かい。また眩暈を起こしたり、虫の居所を悪くされちゃぁかなわねぇ。その上お前、ここいらの者に似合わず、俳優というと目の敵にして嫌うから、そこで何だ、客は向こうへ廻すことにして、その部屋の方の手伝いに爺やとこのお辻をな」
「へい、へい、へい、なるほど。そりゃぁお前さん方、ご苦労様」
「はははは、別荘に穴籠もりだった爺めが、土用干しでございますてや」
「お前さん、こんにちは」と、お辻というのも愛想をよくする。
藤三郎はそのまま土手の方へ行こうとして、フト研屋の店を覗き込んで、
「よくお精が出るな」
「いや」と、作平と共に四人の方を見ていた五助は、頭をひたりと打って、
「お天気で結構でございます」
「しかし寒いの」と、藤三郎は懐手で空を仰ぎ、輪を描くように見廻して、
「筑波の方に雲が見えるぜ」
*1 平絎帯……芯の入っていない柔らかい帯。
*2 見番……芸者に口がかかった時の取次や玉代の計算、芸者屋の取締りなどをする事務所。
*3 寮……廓外にある遊女屋の別宅。
*4 十筋右衛門……頭髪が非常に少なくなっている人物を指して言う。
*5 芝居者……歌舞伎などの役者。
七
「違ぇねぇ」
と、五助は藤三郎達が去った後、また額を撫で、
「怠けちゃぁ不可いと言われた日にゃぁ、それはそれで些とは文句のあるところだけれど、お精が出ますとおっしゃられてみると、恐れ入りますとしか言えません。
実際また、我ながらお怠けもせずに働きましたで、婆どんのいた頃は、まだ稼ぐ気もあったもんだが、もう叶わねぇ。
人間色気と食い気がなくなっちゃぁ働けねぇ。飲み気のために稼ごうという奴ぁ、これが少ねぇもんだよ。なあ、お勝さん」と振り向いて呼んでみたが、
「おや、もうお出かけだ。いや、よくまめに働くことだ。はははは、作平さん、まあ、話しなせぇ、もう誰もいねぇ。何ならこっちへ上がって炬燵にあたってよ。その障子を開けりゃ可い。はらんばいになって休んで行きねぇ」
「そうもしては居られんがの、通りがかりに、あれじゃ、お前さんの話が耳に入ったんで、少しつかぬことを聞くようじゃけれど、今のその剃刀が失くなるという日は、確か十九日とか言いなさったの」
「そう、十九日、十九日」と、気乗りをしたような重ね返事をしたが、その時ふと気づいたことがあって、
「そうだ、待ちなせぇ、今日は十九日と」
五助は身を捻って、確かこの辺りだったと、背後の棚にしている小箱の上から、分厚い一冊の註文帳を取り下ろした。
膝の上で、ぴたりと二つに割って開け、ぱらぱらと頁をめくって、指の尖でずッと一渡りしながら、眼鏡で見通すと、
「そうそうそう」といって、仰向いて、掌で帳面を二、三度叩いた。
作平もしょぼしょぼとした目で覗きながら、
「うん? 期限の仕事かい」
「何、急ぐのじゃぁねぇけれど、今日中に一挺、私の気持ちで研いで差し上げたいのがあったのよ。つい話しにかまけて、忘れてしまうところだったわい、まぁ」
「それは邪魔をして気の毒な」
「とんでもねぇ、ゆっくりしてくんねぇ。何さ、実はお前、聞いていなすったか、それが今日だ。この十九日にゃぁ一日仕事を休むんだが、休むにしてもよ、こう水を新しくして、砥石を洗って、ここで一挺念入りに、というのがあるのさ」
「気に入ったのを誂えるのかね」
「うむ、今そこへ行きなすった、あの二上屋の寮が」
と、向の路地を指さした。
「あ、あ、あれだ、紅梅が見えるだろう。あそこにそのお若さんてって十八になるのがいて、ほら、何だ、旦那の秘蔵女さ。
そりゃ見せてやりたいような容色だぜ。寮は最近出来たんで、やっぱり女郎屋の中で育ったには違いはないが、人は氏より育ちと言うけれど、作平さん、そうばかりじゃぁねぇ。
お蔭で命が助かったくらいの施しを受けてるのが幾らもあらぁ。
藤三郎という父親がまた夢中になって可愛がるもんだから、少姐の袖に縋りゃ、抱えられてる妓衆の證文も、その場で煙になりかねない勢いだ。けれど、そこがまた面白いところで、内に居るお勝なんざ、よく知ってて言うけれど、女郎衆などという者は、ハテ凡人にゃぁ分からねぇわ。お若さんの容色が佳いから頭を下げるのが口惜しいとよ。
私ぁびた一文世話になった訳じゃぁねぇけれど、そんなこんなでお前、その少姐を大の贔屓にしているんだ。どうだい、こう聞きゃぁお前だって贔屓にしざぁなんめぇ。死んだ田之助(*1)そッくりだぁな」
*1 田之助……女形として人気だった、三代目 澤村田之助をさす。
八
「ところで、ご註文の品は格別の扱いだ。今日だけは他の剃刀は研がねぇからね。仕事といや、内じゃ玄人のものばかりというもんだから、今日は一番、不浄を除けて、お若さんのを研ごうと思ってな。
うっかりしていたが、これが一挺来ていたというもんだ。ハハ、何時もこうさ。
大体、十九日の紛失の一件は、恐らく廓にこだわっているに違ぇねえ。祟るのは妓衆なんだからね。少姐なんざ、遊女じゃぁなし、しかも廓内にいるんじゃぁねぇから構うめぇと思ってよ。
まぁ、何にしろ変な話さ。今に見ねぇ、今日もきっとどなたかが取りにござる。いや、作平さん、狐は千年経てば妖怪になると言うが、私の剃刀研ぎなんざ、『商売往来』(*1)でも目立たねぇ古物だからね、こんな場所柄じゃァあるし、魔に魅入られやすいようです。
そういやぁ作平さん、お前さんの鏡研ぎも今となっては時代ものさ。お互いに古くさいものだが、どうだ、ご無事かね。二階から白井権八の顔でも映りませんかい。(*後書き参照)」
その箱と盥を担いだ痩せ細った作平は、まさしくかつては江戸市中にいたが、今では名前だけしか聞かないようになってしまった、鏡を研いで活業とする爺であった。
作平は淋しげに頷いて、
「ところがな、もし、ご同様じゃで」
「ご同様!?」と、五助は陽射しの具合を見て、仕事に懸かる気である。寮の美人の剃刀を研ぐ気であろう。桶の中で砥石を洗いながら、慌てたように言い返した。
「ご同様ってのはピンと来ねぇが、お前の方にも何か曰くがあるのかい」
「あるどころか、お前さん、こう言うては何じゃけれど、あんたは太郎稲荷のある田町の剃刀研ぎ、私は広徳寺前を右に寄った、稲荷町の鏡研ぎ。同じ稲荷なら私等が早やお狐さんみたいに変化をした類いじゃ。へへへへへ」と薄笑い。
「おやおや、テメエから名乗る奴もねぇもんだ」と、かっちり、つらつらと剃刀を砥石に合わせる。
「じゃがお前、東京と代が替わって、こちとらはまるで死んだ江戸のお位牌の姿じゃわ。羅宇屋(*2)の方はまだ新しいのが出来たけれど、こっちはもうすっかり姿を消した狸穴の狸、梅暮里の鰌などと同一じゃて。そのくせ職人絵合わせ(*3)の一枚刷りにゃ、烏帽子素袍を着て出ようというのじゃ」
「古いだけに、なおさら罪が重いわ」
「まんざら、その祟りに因縁のないことも無いのじゃ。時に十九日の」
「何か剃刀が失くなるのに関わっているのか」
「つい四、五日前、町内の差配人さん(*4)が、前の溝川の橋を渡って、蔀を下ろした薄暗い私の店さきへ顔を出さしったわ。さあ、店賃のご催促か。ならば、萬年町(*5)の縁の下へ引っ越しか。しかし、それにしても、そこに住んでいる尨犬とも話しをつけなきゃなりませんが、それも最早、出来ない次第。そうであれば、一刻も猶予ならん、今すぐ立ち退けでございましょう。そのことなら後でとは申しません、たった今、川ン中へ引っ越しますと言えば、
差配さん、苦笑いをして、
『狸爺め、濁酒をしこたま喰らい酔って、千鳥足で帰って来たから、その足で桟橋を踏み外そうという風かい。溝店の御開祖様とは兄弟分だ、若い頃から一度だって泥濘へ踏み込んだためしのない俺だと、手前、好き勝手に言いたい放題を並べるくせに』と。
仰せの通りでございます。そう言うと、
『どこまで始末に負えねぇか見当もつかねぇ。可いや、端っこ暮らしをしている水道尻の番太(*6)と手前とは、俺が芥子坊主の時分から居ついている根っからの厄介者だ。あてもねぇのに、毎日研ぎ物の荷を担いで、廓内をぶらついて、帰りにやぁ箕輪の浄閑寺(*7)へ廻って、以前ご贔屓になりましたと、遊女の無縁の卒塔婆に挨拶をして来やがる。そんな奴も差配内になくッちゃぁお祭の時、幅が利かねぇ。倅は稼いでるし、稲荷町の差配は店賃の取り立てにゃぁ歩行かねぇッてぇの』と来たぜ。むふふ」と作平は大得意。
この時、五助はお若の剃刀をぴったりと砥に当てたが、大声で笑い出して、
「気に入った、気に入った、私もその差配を贔屓にするぜ」
*1 商売往来……江戸時代の商人向けの教科書。色々な職業が解説されてある。
*2 羅宇屋……煙管の修理と清掃専門の職人。
*3 職人絵合わせ……江戸時代の職業・職人・風俗を絵にしたもの。
*4 差配人さん……「さはいにん」。大家の意味だが、実際には貸地や貸家などの管理を所有主に代わってする人を言う。
*5 萬年町……上野駅からほど近い下谷萬年町。貧民窟として有名。
*6 番太……番太郎の略。火災予防や盗難の予防、あるいは時を知らせる役割などを任された。
*7 箕輪の浄閑寺……浄土宗法山浄閑寺。吉原遊郭で亡くなった身寄りのない遊女の遺体が数多く運び込まれ、葬られた。花又花酔の「生れては苦界 死しては浄閑寺」の句で有名。
二階から白井権八の顔でも映りませんかい……「日本近代文学大系7 泉鏡花集」(角川書店)の朝田祥次郎氏の補注によれば、『初代桜田治助の歌舞伎狂言「幡隨長兵衛精進俎板」の大詰長兵衛内の場で、二階にかくまわれている白井権八の顔が、階下で長兵衛のかざす鏡にうつる場面がある。それを大江戸の太平の象徴と見る心。……以下略』とある。(P.570)
このように鏡花の作品には歌舞伎や浄瑠璃の知識がなければ理解できない箇所がいくつもある。また、見てきたように、遊郭における言葉、風習も知らなければ、意味を取ることが難しい。
今回、この作品を読むに当たっては、朝田祥次郎氏の注釈、解説に大いに助けられました。他にも、朝田氏による用語の解説で有意義なものも多くありますが、あまりにも煩雑になるので省略しています。興味のある方は、上書を参照していただければと思います。これがあれば、私の稚拙な現代語訳など必要ないかも知れません。……と言ってしまえば、身も蓋もないけれど。