ノマドの国ノマディア
―――――少女に手を引かれるままなだらかな坂道を下りていって、辿り着いたのは広大な草原と花々の咲く牧歌的な土地だった。
「ノマディア!!」
じゃーん!!と見せ付ける少女の陽の光にも劣らぬ明るい笑顔が物語る、自然と共生しながら生き平和を愛する姿。
「すげえ………」
目の前に広がる光景にああこれこそ冒険なんだな、とサザは感激すら覚えた。
「おお!オリュザ!!遅かったな!!」
「お父さん!!」
少女が嬉しそうに中年の男性に飛び付く。
「お父さんあのね、そこのお兄さんが助けてくれたの!!」
…少女が男性に何を言っているのかさっぱり分からないが、何かを懸命に話している様子なのは見ていて伝わってくる。
少女がサザを指差せば、中年の男性はサザの方へ顔を向けた。
中年の男性はサザの姿に気が付くと、目の前の青年―――サザへ、流暢に労いの言葉と礼を述べた。
「君は?―――――ああ、怪我を…手当てをしてあげよう、急ぎでないのなら私の家へ来なさい、道中は色々と疲れただろう」
その言葉に、サザは慌てながら咄嗟に遠慮の言葉を吐き出そうとするが―――
「それと、うちの娘を助けて下さったそうで、この子の父として旅の方に礼を言わなくては。オリュザを助けてくれて有り難う。君が通りすがらなければ娘は助からなかっただろう…」
少女の父だと言う中年の男性に深々と頭を下げられ、サザは返す言葉を失った。
ここまで親切に、素性も知らないはずの旅人に対して手厚く迎えようとするのだから断る訳にはいかないだろう。
(…だよな、『人の好意は無碍にするな』って先生も言ってたしな―――)
出かかっていた遠慮の言葉を飲み込んで、好意にはしっかり甘えよう。
道中で疲れなかった訳では無いし、また先程の戦闘で怪我をしなかったとは言えない。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて…」
少女にまた手を引かれ、サザは少女の家へ向かっていった。
********
「お兄さん!沢山食べてね!!」
少女―――改め、オリュザがサザへあれこれと食事を渡してくる。
「コラ!オリュザ!困らせるんじゃない!!」
「う〜、ごめんなさい…」
父親から怒られて、涙目で小さく落ち込む。
「あ、俺それも気になる!―――あのっ、あれも良いですか⁉」
気を遣って、の言葉では無い。純粋にノマド族の出す料理がとても美味しくてつい他の料理にも食指が伸びる。
「――娘がすまないね。料理は美味しいかい?」
彼女の父親が朗らかに問うと、サザははっきりと答えを返した。
「はい!!ノマドの料理って初めてだけどどれもこれもとっても美味いですっ!!!」
「あら、それは嬉しいわ。まだあるからいっぱい食べて頂戴ね」
うふふ、と微笑む――――少しオリュザに面影の似た女性がサザの言葉を嬉しそうに受け止めて、彼女の父親の傍に座っていた。
母親にしては、夫である少女の父親より少し若く見える。
「おお、そう言えば君に名前を伝えていなかったな、私はアプトレム、隣に居る女性――妻はレタムというんだ」
「あなたが助けたのは長子のオリュザよ。改めて有り難うね」
彼女の両親、父親のアプトレムと母親のレタムが自己紹介と礼を兼ねて話し掛ける。
「あ、俺はサザっていいます。長子………もしかしてオリュザにはきょうだいが居るんですか?」
「ええ。下に7人居ますのよ」
「ひえっ⁉な、7人!!?」
これは驚いた。
「最近生まれたんだ。だからオリュザは8人きょうだいで一番のお姉さんになるんだ」
――両親の話している内容を完璧に理解している様では無いが、何と無くで分かっているのか、オリュザはえっへんと誇らしげにしていた。
「私、一番偉いお姉ちゃん!!」
「はははっ、そっか…お姉ちゃんなんだな、凄いじゃん」
サザは背伸びをする少女を見て微笑ましいと思ってか、オリュザの頭を優しく撫でた。
「えへへ」サザに撫でられて、オリュザは顔を赤くして小さくなってしまった様だ。
「あらあら」と母親のレタムが微笑み、父親も釣られてにこやかな表情を浮かべ、賑やかな晩餐は過ぎてゆく。
********
―――――皆が寝静まり、オリュザもその家族も家の中で寝息を立てて眠る頃、サザは妙に寝付けなくておもむろに外へ歩み出す。
傷もオリュザの両親が用意してくれた軟膏と彼等の手当てのお陰か、少し痛みは残るもののある程度癒えているらしい。
(こんなに誰かと賑やかに過ごしたのは、寄宿学校以来だな…………)
改まって己の過去を振り返り、夜の帳の降りた空を見つめる。
空は夜でも明るく、血が冷める程白い月が煌々と輝き、昼間しか視認する事の出来ないはずの堕ちたもう一つの月すら薄っすらと見える。
――月明かりに僅かに照らされたノマディアの色々な場所で、少し先の小高な崖に誰かが座っている。
『〜♪、♪、♪、♪、〜♪〜〜♪』
人影が見えた。オリュザ程の少女にも見えるそれは、サザが近付くと何かを口ずさんでいるのが聞き取れた。
歌の様に、或いは小さな伝承の様に語られてゆく言葉はサザも聞いた事の無い出来事で…
『――可愛いソフィア』
『私のソフィアは愛らしい』
『ソフィアは奇跡、ソフィアは神話』
『6月は花嫁の月』
『ソフィアは愛する人のために着飾るの、白いワンピース。6月3日の夕刻の5時』
『花嫁なんて柄じゃないけど』
『彼の愛する人でいたいから』
―――声の主はサザの姿にこれっぽっちも気付いていないのか、紡ぐ言葉は続いてゆく。
『可愛いソフィア』
『ソフィアは愛する人の左を歩くわ』
『彼の白い服に合わせた白いワンピース』
『裾をはためかせて、彼女の宇宙みたいに青い髪は揺れる』
『彼とソフィア、二人だけの世界』
『永遠でありなさい』
『ソフィアは愛する彼の隣で永遠を願うの、彼女達に祝福された清らかな処女、求められる甘く瑞々しい果実』
『何時か彼の唇に添われるソフィアの純潔よ』
『彼はソフィアだけのもの。彼の隣はソフィア以外には許されないわ』
『彼はソフィアだけのひと。彼を愛するのはソフィア以外には許されないわ』
声は蜉蝣の翅の様に透き通っていた。
その澄んだ少女の声から放たれる、「ソフィア」への圧倒的なまでの賞賛、賛美、祝福。
まるで絶大な信仰の様に、声の主は「ソフィア」を、その純潔と処女性を尊んでいる。
『牧歌の中で二人は歩く』
『白く緩やかな服を着て、ソフィアは白いワンピースを着て』
『彼の手に花の束、微笑みは二人の間のみのもの』
『彼はソフィアに愛を囀り、ソフィアも愛らしい声で彼へ愛を囀る』
『全ての人に望まれている世界』
『そうでなくてはならないわ、それを叶えなくてはいけないの』
『叶われればそれは永遠』
……サザは、言葉の中に潜む妙な違和感と最後の方の身勝手さに心の端がもやつく感覚を覚えた。
澄んでいる声の中に、何か得も知れぬ気味の悪さを感じて、まるで背中をぞっとさせる程には這い付き、そして、チクチクと刺してくる様な得体の知れないものを同時に感じる。
幸いにも声の主にはまだ気付かれていない。
なのにその場から離れる気にも、何故かなれなかった。
『その為に動きましょう、親愛なる女神様』
『シルフェーン』
『ソフィーティア』
『アンクァー』
『リナテラ』
『ペルゲーラ』
『私達は貴女の願いの為の部品、さあソフィーティアの娘』
『ソフィアを唯一の座へ、愛される完全な女神、永遠の神の妻に』
………?
(シルフェーン……?)サザは述べられた名前に聞き覚えがある、と回想した。
………シルフェーン、ソフィーティア、アンクァー、リナテラ、ペルゲーラ。
…ソフィーティアの娘ソフィア。
寄宿学校時代にも学ばされた、伝承の一片。
『彼女の名はシルフェーン。最初は無闇な繋がりを……』
そして公国と道中でロインが語った、あの伝承劇。
(…………もしかして伝承劇の一つか?)
サザは特に深い意味を考えるまでも無く、身体が冷えてきた事を気に掛けてくるりと踵を返してオリュザの家へ戻ろうとした、その時。
『……―――今回はどうなるのかしらね。うふふっ、壊し甲斐のある世界になるかしら?』
―――――はっ、と澄みながら恐ろしく蠱惑的な欲を孕んだ声がサザの耳にふと届いた気がして、サザは振り返る。
…既に、崖の上に人影は無かった。澄んだ少女の声は、先程聞こえていた「ソフィア」への賛美も祝福も誓約は聞こえない。だが、背中を這い刺す様な気味の悪さもすっかり消えていた。




