第二話 ドドグニズ・ゲルゴリゴロゴス
「……名は何という?」
『誘拐犯に名など言えるか、痴れ者が。ワシを家に帰せ』
役目を果たし、光の消えた魔法陣の上で横になり、尻を掻きながら彼女はそう言った。取り付く島もない。彼女の言う通り、望まぬ召喚は確かに、誘拐だと言っても間違いではないのだろうが……鬼は鼻糞をほじって、床に擦り付けた。
宰相は怒りで頬の筋肉を痙攣させながらも、理性的に会話を進める。
「お前は勇者様を守り、共に戦うものとして召喚されたのだぞ。その使命を全うするつもりは無いというのか?」
『様……?この場で一番強いのはお主じゃが、勇者は他にいるのかえ?』
確かに!と少年は無言でブンブンと頷いた。勇者様と呼ばれる彼よりも強い者は実際、この国に沢山いるのだ。なぜ僕が、とはいつでも思っていた。
「私は宰相だ。この国を守らねばならん。だが勇者様が守るのは、世界だ」
『ふーん。……ああ、使命とやらは、そうじゃのう、報酬次第じゃのう』
鬼を自称する女は横たわったまま、ニヤニヤと宰相を見てそう言った。笑っているのには理由がある。先程から、神官達と宰相が魔術で彼女を縛ろうと頑張っているのが分かるからだ。そしてそれが自分に何の痛痒も与えない事も。
「ぐっ……!」
彼女は確かに、鬼だ。日本が生まれる前から存在している、原初の鬼。確かに魔術の心得など無いが、その肉体は神と変わらない。異世界といえど、人間にどうこうできるようなものではなかった。そうとは知らず、その場の勇者以外の全員が、彼女を睨み、気付かれぬように魔術を行使しようと無駄な努力を続けている。
『どれ、そこな坊主。暇ならワシに、酒でも持って来てくれんかの』
「!!は、はははハイ!」
勇者様と呼ばれている少年は頷いて、逃げるようにしてその場から走り去った。実際に逃げたと言ってもいいだろう。戻ってくるかも、分からない。
『フッ、あはははは!!あれがお主の言う勇者様か?ずいぶんとまあ……』
「くっ、黙れ!貴様、言わせておけば!」
騎士が一人、槍を前に構える。その腕にすがって震えていた神官が、あんっ、と情けない声を上げて振り払われた。神官は壮年のハゲた男であった。
その勢いのまま、横に寝転ぶ鬼の顔目掛けて槍を突き出す。何十年と騎士としてその身と技を鍛え上げてきた彼は、避けられる可能性も意識していた。しかし……まさか、身じろぎすらせずに、その女らしい美しい顔に、そのまま槍が当たるとは思っていなかった。そしてまさか、槍の穂先が砕けるとも、思ってはいなかった。
『なんじゃ?痒いのは顔ではなく尻なんじゃが。というか、誘拐しておいて、初対面の女の顔を槍でつつくとはの、結構な騎士様じゃ』
「なっ……くっ……」
『何が"くっ……"じゃ。姫騎士でもあるまいに。情けない声出しおって』
鬼は日本のサブカルチャーにどっぷり浸かっているようだ。この場に勇者がいれば、ずいぶんと話が盛り上がったのかもしれない。
そして件の勇者様が、カチャカチャと音を立てて戻って来た。その腕には大きな酒瓶を何本も抱えている。どうやら本当に持って来てくれたようだった。まことに律儀であるし、鬼は酒好き、というイメージ(大正解)に従ってかなりの量を持って来てくれた事で、鬼は勇者を少し見直したのだった。
『おお、助かる。ここにテレビは無いのかえ?』
「へ?い、いや、ありません!ごめんなさい!」
『よい、まあ本当にテレビを持って来られても、何というか世界観的に興ざめじゃしのう……まだ観てないアメトーークが何本か残っておったのじゃが』
「えっ……何芸人が好きなんですか?」
『イケてない芸人か、運動神経悪い芸人かのう』
「あーヒザ神はよかったですよね……僕は徹子の部屋芸人かなあ」
『それを見ておらんのじゃよ、ツタヤでもいつも借りられておってのう』
「あー……」
勇者様の名前は、高橋 義則。
彼もまた鬼と同じく、数か月前にこの国の神官によって召喚されたのだった。現代日本人として大人しく高校生をしていた彼に、いきなり世界を救えと誘拐犯達は要求したのだ。異世界からの召喚などという途方も無く魔力を消費する術を使えるのに何故、彼を選ぶような馬鹿をしたのか。
実際の所は、彼らに選択肢など無かったのだ。呼ぶ事は出来ても、呼ぶものの選び方を知らなかった。勇者召喚も、召喚獣召喚も、そもそも召喚術自体が不完全で不安定なものだった。猫の手も借りたいと、猫以下を呼び出してしまったのだ。
義則には特別な力も、いや人並みの力も、肉体も、魔力も、度胸も、根性も無い。優しさはあるが、それだって人並みか、それより少しだけ上……程度である。本当の本当に外れくじという奴だったのだ。
しかし魔王が生まれ、魔物に浸食される国に住まう者達にとって、必要なのは希望だった。だから彼はそれでも勇者様なのだ。彼の旅には騎士団が随行して、騎士団が魔物を倒す。彼が役立つのはパレードと国民に対する慰安活動のみだった。
だから国は、強力な召喚獣を彼の傍につけようと考えたのだ。
『なるほどのう……』
「ごめんなさい、僕が弱いせいで……」
『ヨシノリの所為ではあるまい。悪いのはこやつらじゃ』
「それでも、ごめんなさい。ええと……」
『うん?名前はすまんが、ワシらにとって真の名を知られる事は、命をその手に握られる事と同義での。教える訳にはいかんのじゃ』
「そうですか、聞いてごめんなさ……」
『止めよ。謝り過ぎじゃヨシノリ、情けない』
「ええと、ごめ……」
『ああもう!よい。ならばお主が名付けるといい。新しいヤツをな』
「え、いいんですか、僕なんかが……」
『よいと申しておるが。さっさとしろ、男じゃろうが、あ?』
鬼として数千年生きてきて、ここまでの草食系は見た事がない、と鬼は嘆いた。戦国時代も過ぎれば人の世に鬼の居場所など無く、それからはただ娯楽を楽しむためだけに生きて来た鬼は、昔よりもずっと丸くなっていた。そうでなければイライラして、義則の首を捩じ切っていただろう。
「ええと、でも、うーん……」
それでも、その優柔不断さには怒りを覚えたが。そういえば殺すばかりで、人間の友を持った事はないと考えた。勇者の友となるのも、それもまた一興ではないか。召喚獣と勇者という、おあつらえ向きの設定まで用意されているのだから。そう思えば、むしろワクワクしてくるというものだ。異世界転生モノの小説を実際にこの身で体験する機会など、そうそう無いだろう。
「では、"ドドグニズ・ゲルゴリゴロゴス"と」
宰相がそう言って口を挟んできた。
『嫌じゃ。長い。濁点が多すぎる。センスがおかしい。お主には聞いておらぬ』
今は、この国の誰であってもこの鬼には手足も出ないと、宰相がそう言って他の者達を下がらせている。勿論、最低限の人数の騎士達は今だに立ってはいるが。ただ黙って、壁際で、置物のように。
鬼は酒を飲み、皿に盛られた肉と果実を喰らいながら、横になって欠伸をしている。その傍若無人な態度に宰相は頭の血管が切れそうになるが、どうあがいても勝てないという現実を受け止める事は出来ているのだった。
「……ええと、」
『……はあ。ノブツナ、じゃ』
「え?」
『昔の。上泉信綱と呼ばれた事もあったのじゃ』