「猫パンチ」
「伝説の肉球」を作った次の日の夜、デュマさんと共にギルドの食堂へおっさんを訪ねた。
デュマさんから話を聞いたおっさんは驚きの表情を浮かべる。
「ほ、本当に娘は助かるのか?」
「可能性は高いと言っておこう。何しろ、まだ効果を確かめていないからな」
デュマさんが不敵に笑う。だが、その表情は自信に満ち溢れていた。
「ちょっと、待っていてくれ」
おっさんは食堂の奥へと引っ込んでいった。そして、数分も経たないうちにコック姿から白地のシャツ、茶色のズボンを履いて戻ってきた。肩掛け鞄も背負っている。
「では、行こうか」
デュマさんの掛け声とともに僕等はおっさんの家へと向かった。
おっさんの家はデュマさん宅と同様の4番通りにあった。ただ、周りの家と比較してあまり大きくはない。一般的な家よりも小さな1階建てのレンガの家だ。もっとも、娘さんと二人暮らしだそうだから丁度良い広さなのかもしれない。
「あら? 今日は早いのね」
おっさんの家のドアを開けると、見知らぬおばさんが玄関へとやってきた。細身の体の40歳くらいの外見のおばさんだ。料理中だったのかエプロンをしている。服屋のおばさんから、娘さんは亡くした奥さんの忘れ形見と聞いたので、おそらくは仕事中に娘さんを見てもらっている近所の人か、雇っている家政婦なのだろう。
「ああ、実は……」
おっさんはおばさんに「伝説の肉球」の説明をし始める。
「良かったわね。モッロさん」
おばさんが泣き顔でおっさんに言う。
「いや、まだ効果があるかは分からないんだ」
おっさんはこちらを見てくる。
「だが、可能性は高い」
デュマさんが自信満々で告げる。
「私も付き添ってよろしいでしょうか?」
「ああ、構わないよ」
「ありがとうございます」
おばさんはこちらに向かって会釈をする。
「皆様方、こちらです」
おっさんは普段の不愛想な表情を見せることもなく、笑顔を作ると丁寧な態度で娘さんの部屋へと通してくれた。
娘さんはベッドの上で眠っていた。頬が赤く染め、薄っすらと汗をかいている。また、若干苦しそうな表情を見せていた。
「さて、早速だが、マサムネ君」
デュマさんが視線を向けてきたので、鞄から「伝説の肉球」を取り出す。
娘さんの傍にいたおっさんはそれを確認すると、娘さんを起こさないように、そっと掛布団を半分ほど折り、上半身から取り除く。そして、娘さんの上半身をゆっくりと起こした。
「頼む」
「はい」
僕はおっさんに促された通り、娘さんの腕をそっと持ち上げて「伝説の肉球」を右手にはめた。
「……うっ」
娘さんは一瞬、艶っぽいうめき声を上げる。そして、ゆっくりと目を開けると視線を向けてきた。可愛い女の子ではあるのだが、無言、無表情で見つめられると怖い。しばらく、その緊張状態が続く。
「かゆい」
娘さんは突然そう呟くと「伝説の肉球」を左手で外そうとした。
「おっと」
反射的に女の子の腕を掴んで阻止する。
「……あ、あなたは誰!?」
娘さんは手を引っ込めようと試みる。
だが、手を離すわけにはいかなかった。再び「伝説の肉球」を外そうとするかもしれない。
「えっと、僕は……」
「エ、エマ、私のことが分かるか?」
説明しようとしたところ、おっさんが娘さんとの間に割り込んできた。抵抗するのも変なので、空気を読んで、娘さん……エマさんの腕から手を離し、その場から身を引く。
「えっ、お父さん? 急に、何?」
エマさんはおっさんの行動に混乱しているようだった。
「おお、正気を取り戻した。皆さん、ありがとうございます」
おっさんはエマさんの左手を両手で掴んで、涙を流す。
「お、お父さん! 本当に何なの!? あ、あの、すみませんが、状況を説明してもらえませんか?」
エマさんは僕に視線を向けてくる。
「えっと、うん。分かりました」
エマさんに肉球病のこと、デュマさんがそれを治す「伝説の肉球」を作ったこと等をかいつまんで説明した。ちなみにいつまでも離れようとしない邪魔なおっさんは、おばさんに協力していただいて、部屋から出てってもらっている。今はエマさん、デュマさんと僕だけが部屋にいた。
「信じられません。あれから、そんなに時間が経っていたなんて」
「えっと、本当に猫パンチされてからの記憶はないの?」
「うーん。あ、おぼろげながら度々公園に行ったような……」
エマさんは顔を下に向けて考える表情になる。
「多分、一週間に一度は公園で猫パンチさせていると聞いたから、その時の記憶かな。あの時は薬を飲ませないで、起きていただろうし」
脳中にエマさんが繰り出した素晴らしい動きが描かれる。
「ともかく、あとは安静にして休むと良い。「伝説の肉球」は外すなよ。治るのには三日かかるからな。あと、注意事項として、そいつを装着したまま人を猫パンチするなよ」
「へ? 猫パンチ?」
デュマさんの言葉に顔を上げて、困惑した表情を見せる。
「言い方が悪かったかな。今、君の頭の中にいた肉球病の菌が「伝説の肉球」に集まっている。最終的には消滅するが、肉球部分が人に接触すると他の人に感染する」
「え?」
エマさんが絶句する。
これは本にも書いてあったことだ。「伝説の肉球」は使い捨ての道具で3日経ったら焼却処分すればいいらしい。3日というのは確実に治る時間だ。
「ただ、少しの接触なら問題ないから、そんなに心配することはない。あくまでも肉球を押し付けられるほどに接触した時だけだ。伝説の肉球の上に布でも巻いておけば」
「ドン!」と急に部屋の外から壁に何かが衝突したような大きな音がした。
「ブルーノ! 何をする!」
続いておっさんの大きな声が家中に響き渡る。
「何だ?」
「何事だ?」
「何でしょうか?」
僕、デュマさん、エマさんも声を上げる。
そして、乱暴な足音が部屋に近づいてきた。
嫌な予感がしたので、部屋の外に出てみることにした。すると、視界の先にはブルーノがいた。また、廊下の奥ではおっさんとおばさんが、ブルーノの取り巻きA、Bに地面に組み伏せられて、動きを封じられている。
「おや、おや。これは、これは。マサムネ坊ちゃんではありませんか」
ブルーノはこちらを馬鹿にしたような笑顔を向けてくる。表情から自分がここにいることを知っているようだった。何故か、頬に殴られたような跡がある。
「……こんなことが許されると思うのか? 二人を離せ」
ブルーノは慎重な性格だ。自分がかかわっているとなれば、ホテルゴンダの件もあって強くは出られないはず。そう考えて、強気な姿勢を見せる。
「許されるんだなあ。これが」
ブルーノは得意げな顔で懐から一枚の紙を取り出す。
そこには差し押さえの告知と記載されていた。
「……エマさんと自宅が担保に?」
紙には貸したお金が一定額を超えたら、エマさんの身柄と自宅を差し押さえるという契約内容が書かれていた。
「ひひひ、そうだ。もう少しシェフで遊びたかったが、お前に腹が立ったからな。合法的にストレスを解消することにした。返済期限を延ばしていたのは、俺の優しさで。1週間前には過ぎていたのさ。今回ばかりはレオナルドの野郎にも横やりは入れられねえ」
ブルーノはにやりと口の端を上げる。
どうやら、こいつは僕に嫌がらせをするためだけにタイミングを見計らって、差し押さえをしにきたらしい。何て、粘着質な性格をしているのだろうか。
「おっと、俺に手を出してみろ。今回ばかりは俺の方が圧倒的に有利だぜ。国の法律が守ってくれるからな」
怒りの表情が顔に出ていたらしい。
ブルーノは一瞬だけ怯えた表情を見せたが、すぐに余裕の表情を見せる。
「ひひひ、兄弟。これから、いいショーを見せてやるから楽しみにしてな」
ブルーノは僕を押しのけてエマさんの部屋に入る。
慌てて後を追って、部屋へと入った。
「おや、本当に病気が治っていたのか。俺のために病気を治してくれたとは有り難い」
ブルーノが楽しげな気配を含ませた声を出す。
「ブルーノか」
「だ、誰ですか? あなたは!?」
デュマさんとエマさんがブルーノの姿に反応を示す。デュマさんはブルーノを知っているようだ。一方のエマさんは知らないようだった。
「エマちゃんは……病気の間の記憶がないのかな。一応、何度か会ったことはあるんだが。初めまして、俺は金貸しのブルーノだ。さて、早速だが、これを見ていただきたい」
ブルーノは先程見せてきた差し押さえの告知の紙を二人に提示する。
「そんな……」
エマさんの顔が一瞬で青ざめる。
「という訳だから、デュマさんにはご退場いただきたい」
「……提案だ。ブルーノ」
ブルーノの言葉にデュマさんが顎に手を当てて答える。
「提案?」
「ああ、私が借金を返済しよう。それなら、文句はないだろう?」
「天下のデュマさんに貸しを作れて、金も回収できる……普段なら縦に首を振るところだが……今回は駄目だ」
「何故だ?」
「それはなあ。このクソガキがむかつくからだ!」
ブルーノは僕を指差す。
「このガキは俺のメンツどころか、貴族とのつながりも一つ消しちまった。こいつをどうにかしなければ、その怒りが収まらねえんだよ!」
ブルーノは大声を上げて、鬼の形相でこちらを睨みつけてくる。
「ひひひ、そうだ。もっと怯えた表情を見せろ。いやあ、法に守られた正義を執行するのは楽しいぜ」
ブルーノはぞっとする程の邪悪な笑顔を見せると、エマさんのいるベッドに身体を寄せた。そして、顔をエマさんの目の前に近づけ、顔と身体を値踏みするように見る。
「ひっ!?」
エマさんの青ざめた表情にさらに怯えが広がる。
「……まだ、青い果実だがいけるだろう。と、その前にデュマさんには部屋を出て貰おうか」
ブルーノがデュマさんを一瞥する。
だが、デュマさんは苦虫を噛み潰したような表情をしつつも動かない。
「頭のいいデュマさんなら分かるだろう? ここは、すでに俺の家だ。家主が出て行けと言っているんだぜ。このままでは、立派な不法侵入だ。流石に犯罪者にはなりたくはないだろう?」
「……エマ君。すまない」
デュマさんは部屋から出て行こうとする。そして、部屋の入り口に立っていた自分の肩に手を置いた。
「国からの差し押さえ許可が出ている以上、今回ばかりはどうしようもない。君も外に」
「おっと、マサムネ坊ちゃんは駄目だ。ここで、俺とエマちゃんの愛し合う姿を堪能してもらう」
ブルーノはデュマさんの言葉を遮る。
その言葉に大きな動揺が心の中に広がった。
そして、エマさんの顔に更なる絶望が浮かび上がる。
「何を言って。マサムネ君が家を出るのは問題ないだろう」
「ひひひ。さて、ここでクイズです」
そこで、ブルーノは下卑た笑顔を浮かべる。
「借金をした人が差し押さえに来た男を殴ったとしましょう。さて、借金をした人は罪になるでしょうか?」
ブルーノは頬を人差し指で軽く叩く仕草をする。
その行動にブルーノと会う直前に聞こえた大きな音を思い出した。あれはおっさんがブルーノを殴った時の音なのかもしれない。
ブルーノの顔を見ると、にやりと唇の端を上げる。こちらが理解したと捉えたようだ。
「……さて、続いてもう一つクイズです。殴られた男はとっても腹が立っています。ここで、借金をした人が罪に問われないためにはどうすればよいでしょうか?」
ブルーノはこちらをじっと見てくる。
「お、お願いします。こ、この場にいてもらえませんか」
エマさんは震え声でこちらに懇願してきた。
「……分かりました。デュマさん、すみませんが」
「ああ」
デュマさんはそれだけ言うと部屋を出て行った。
「聞き分けのいい子は好きだぜ。さて、マサムネ坊ちゃん。寒いから部屋を閉めて貰えるかな」
言われたように部屋のドアを閉めた。
ブルーノは部屋のドアが閉まったことを確認すると、エマさんに馬乗りになり、服を両手で切り裂いた。
「きゃー!」
エマさんは両腕を交差させて、下着があらわになった胸元を隠そうとする。
「いいねえ。初々しい、その叫び声……と、さっきから気になってはいたが、その腕の変なのを外せ。気分が萎える」
ブルーノはエマさんの装着している「伝説の肉球」の腕の部分を掴んだ。
「や、止めて。離して!」
エマさんはブルーノの手を振りほどこうとする。どうやら、襲われたことで大きく錯乱しているようだ。また、肉球病の後遺症なのか、明らかに体格が上のブルーノも押さえつけるのに苦労した表情を見せる。
「おい、それは」
「伝説の肉球」を外すと、今までの苦労が水の泡だ。僕は説明をしようと二人に駆け寄ろうとする。
「くそっ、本当に病気だったのかよ。なんて馬鹿力……」
ブルーノがそう言った時だった。エマさんがブルーノの手を振りほどくことに成功する。そして、ブルーノの頬を「伝説の肉球」を装着した手でビンタした。
「バチン!」と大きな音が鳴り、静寂が部屋を支配した。
エマさんは自分がやったことを自覚したのか、目を見開いてブルーノの表情を伺っている。
そして、ブルーノはゆっくりと肉球の跡がついた頬を何かを確かめるように撫で、叫んだ。
「この! くそ女が!」
「きゃ!?」
ブルーノがエマさんの頬を平手打ちすると、エマさんがベッドに叩きつけられた。
「畜生が! ゆっくりとなぶってやろうと思ったが……」
ブルーノはそこまで言うと、動きが止まった。
「……ブルーノ?」
僕はゆっくりとブルーノに近づいていく。
ブルーノの視線はよく見ると、エマさんではなく、エマさんの顔の横にある枕に向かっていた。
「……?」
エマさんもしばらく経過しても何も起きないことに不審に思ったのか、目を開ける。
「どけ」
ブルーノはエマさんに馬乗りになっている状態から、片足を上げてエマさんをベッドから地面に蹴落とした。
「きゃ!?」
エマさんはベッドから地面に落ちる。
そして、ゆっくりと枕を叩く音が部屋の中に響き渡る。
「ひ、ひひひ。パンチ、パンチ、パンチ……」
……そういえば、治療中に「伝説の肉球」で殴られると感染するとかなんとか。
「……これはどうすればいいのだろうか」
ブルーノは肉球病にかかってしまったようだ。天罰というのを信じてはないが、最悪の事態は防げたような気がする。だけど、本当にどうすればよいのだろうか?
一端深呼吸すると、とりあえずは外にいるデュマさんに相談するのが最善だろうと、エマさんを起こした後に部屋を出て行くことにした。