……ゴブリン。君のことは忘れない
「えっと……ちょっと、刺激が強すぎたかしら?」
僕には目の前の生き物が目と口だけがある黒い人形のように見えていた。化け物は頬を人差し指でかきながら僕に近づいてくる。
「……こ、来ないでぇ。近づかないでぇ」
僕は涙目で目を閉じながらも、化け物に必死で両手を突き出して近づかれないように腕をぶんぶん動かしていた。早く帰ってアニマル動画で癒されたいよ~。
「……うーん。これは本当にどうしようかしら……、……、……えい」
「ひっ!?」
目の前の化け物が何かぶつぶつと言っているのに気がついて、僕は恐怖に身を縮こまらせる。だが、しばらく経っても何も起こらない。しびれを切らして僕は恐る恐る目を開けた。すると、目の前に大きなシャボン玉飛んでいた。
「……シャボン玉だぁ」
僕は大きくて綺麗なシャボン玉に見惚れて動きを停止する。幼稚園の頃に授業でたくさんのシャボン玉をクラスのみんなで飛ばしたのを思い出す。「シャボン玉飛んだ。屋根まで飛んだ」とかみんなで歌っていながら飛ばしたなぁ。みんな元気にしているかな? でも、普通に考えたらもう死んじゃっているかぁ。と思いつつ、僕は手を伸ばしてシャボン玉に触れようとする。
指先がシャボン玉に触れるとと大きな音が鳴ってシャボン玉は割れた。僕は音に驚いて地面に尻もちをつく。驚きで頭の中で何かが目覚めたような感覚が広がっていった。
「……はっ。僕は一体今まで何を!?」
僕は大きな音に動揺して思わず声を出してしまった。そして、状況を確認するために周囲を見回すと、僕を見下ろしているリンダ様とみぞおちから血を流して横たわっているゴブリンが目についた。ゴブリンの瞳には生気がなく濁っているように見える。
「……正気に戻った?」
リンダ様が僕を心配して顔を近づけてくる。それ以上近づかないでください。また、泣いてしまいそうですから。
「ええと……僕は……穢されてしまったんですね」
「……その言い方は止めてくれないかしら」
僕は服と手についた血を見つめながら思う、人間に近い姿をしているものを殺してしまったのだと。後味の悪い感触が身体中に残っている。だが、悪いことをした訳ではない。リンダ様はゴブリンが人間に悪さをするだろうと話していたし、本当なら気に病むことはないのだろう。それに地球で暮らしていた時だって僕はある意味で生き物を殺していたのだ。牛や豚、鶏などの命を奪って僕等は生きている。僕は牛や豚、鶏などが食肉用に加工されているのを見たことはないけど、それは罪なのかもしれない。これから生きていくのに命を奪ったこの感触は忘れてはならないものなのだろう。
ふと、小学生の頃に読書感想文のため読んだ狼王ロボの話を思い出す。アメリカの牧場で頭の良いロボと名付けられた狼が家畜を食い荒らすという被害が相次いで、動物学者であるシートンが退治するという話だ。結果的にロボは捕まって死んだのだが、彼は魔物とも呼ばれていたらしい。この話を読むと野生動物が必死で生きているのを感じて、結構ロボのことがかわいそうに思えるのではあるが、現実に被害を被っている人達は迷惑だったから退治を頼んだのだろう。
人間というのは自分達のためならば平気で他の動物どころか、同族の人間すらも殺すのは歴史が証明している。ゴブリンが退治されるのは、この町の人にとっては良いことなのだろう。僕の知らない場所で今日も色々なことが起きている。この世界で自分を見失わないためには、自分にとって何が大事なのかを考えるだけではなく、周囲のこともきちんと見て、強い心を身につけていく必要があるのかもしれない。
「おーい。大丈夫?」
リンダ様が自分の世界に浸っていた僕の頬を叩いている。リンダ様、止めてください。あなたに触れられるたびに僕のガラスメンタルがひび割れていくんです。これ以上はガラスメンタルが決壊して漏らしてしまうかもしれません。すでに先程した決心が隙間から漏れていく感覚がします。
「……大丈夫です。ちょっと、賢者モードに浸っていて」
「だから、そういう言い方は」
「リンダ様、お願いです……これ以上、僕を虐めないでください」
僕は平静を装うために表情だけは真面目モードになろうと頬の筋肉を必死にコントロールしていた。ちょっと、ぴくぴくしているのが分かる。
「さ、様? えっと……そんなに怖かったかしら? 私はあれを初めてした時、師匠にもう一度頼んだくらい楽しかったんだけど」
リンダ様はさらっとサイコパスな言葉を口走る。どうか、この人がこの世界の平均的な思考でないことを祈りたい。
「怖いです。普通の人はゴブリンのお腹に杖をぶっ刺すのを楽しんだりはしません」
「え? 共感してもらえると思ったのに……男の人ってモンスターを殺すのが楽しいんじゃないの?」
この人は男のことを何だと思っているのだろうか。きっと、いい年なのに結婚とかできていないんだろうな。男どころか人の心が分からなそうだし。
「それは人にもよるでしょうけど、ほとんどの人が刺激的なことをやるのが楽しいんだと思います。あとは自分を試したいとか、英雄願望がある人も多いと思います……中には一方的にいたぶるのが楽しい人もいるようですが、僕は趣味が悪いって思いますね」
「嘘、私って趣味悪いの!?」
「そういう趣味があると認めるんですね……」
「で、でも!? 私は罪のない人をいたぶるのは楽しいと思ってないわよ。むしろ、罪の意識に苛まれるし。モンスターや悪い人をいたぶるとすっきりするだけだわ」
「拷問官がいたぶるのを楽しんでいるのは問題だと思いますが」
「楽しんではいないわ。あくまでもすっきりした気持ちになるだけよ」
「……まあ、あれです。価値観の違いというものですかね。他の人にも聞いてみるといいかもしれません」
「……そうね。ここで言い争っても仕方がないわね。今度他の人にも聞いてみようかしら」
リンダ様は不毛な言い争いだと思ったのか話を区切ると、いつの間にか回収していた杖に付着している血を布で拭う。
「……目的のものも取れたし、今日はもう帰りましょうか。今から奥に行くと時間ギリギリになるかもしれないし。本当はもっと色々な採取物を教えようと思ったのだけど……はあ」
リンダさんは肩を落としてため息をつく。疲れたのは僕の方なのだが、と思いつつもそれに同意して僕は首を縦に振った。
「はい。今日はもう帰りたいです。血で汚れてしまっていますし」
僕は自分の服についている血に鼻を近づけてみる……くさい。血ってこんな臭いがするのか。正直言って、今日は帰ったらすぐに風呂に入って部屋で寝転びたい位だ。
「でも、これから午後も依頼受けているんでしょ? よほどの理由がない限りは、一度受けた依頼は違約金が発生するからきちんとこなさないとすぐにお金が無くなるわよ」
「依頼はきちんとこなすつもりです……あと、洗濯ってギルドでできませんかね?」
「午後からの依頼ってトンネル工事のやつでしょ。着替えるときにお金渡せばギルド職員がやってくれると思うわよ」
リンダ様からの返事にその手があったかと僕は思う。そういえば、アニメとかだと酒場とかでお金を握らせて何かを頼むというシーンが結構ある。僕も格好良いのでやってみたいと何となく思った。
「そうですね。ギルドの人に頼もうと思います」
「じゃあ、帰りましょうか。あと、ゴブリンの死骸は放っておくと他のモンスターが寄ってくる可能性があるから燃やすわ。道の上なら燃え広がらないから……上まで持ってこられる?」
リンダ様は僕に気を使ってくれているようだ。早くも人間の心が少しは分かるようになったのかもしれない。
「……自分で持っていけます。こういうこともできるようにならないといけないでしょうから」
僕はゴブリンを見る。みぞおちに杖による傷があるが手とかはさほど汚れていない。僕はゴブリンを手に取る決心をすると、右手でゴブリンの左足を持って宙ぶらりんにする。また、濁った眼を見たくないので僕からは背中が見えるように持ち、なるべく血がつかないように腕を伸ばして運んでいく。
「そういえば、あなたって力はあるのよね。あの依頼をこなせる位だし」
そんなに体格の良くない僕がゴブリンを軽々と持ち上げるのを見て、リンダ様は僕を褒めてくださる。止めてください。褒めることで何かを企んでいるかと考えてしまうではないですか。
「ここら辺に置いてくれればいいわ」
元々歩いていた道へと上がると、リンダ様は葉のない土だけの地面を指し示した。
僕は言われた通りにそこにゴブリンをなるべく丁寧に置く。さらばだ。リンダ様の被害者よ。せめて魂だけは安らかに。
すると、リンダ様はゴブリンに近づいて腰から短剣を取り出すとゴブリンの耳を切り落とした。
「えっと、それは?」
僕は顔を青ざめながらも先程よりはかなりメンタル的に強くなったので聞いてみる。
「これは討伐部位と言って、その獲物を仕留めたという証拠よ。ゴブリンの場合は耳ね。銅貨1枚にもならないけど。1つ星の冒険者ならきちんと功績になるわ。ほら」
リンダ様は僕に向かってゴブリンの耳を投げた。僕はゴブリンの耳を丁寧かつ慇懃無礼のないように素早く避ける。耳は葉の上に落ちたからか、「かさっ」と小さな音がした。やはり、リンダ様は人の心が分かっていらっしゃらない。今までそんな気楽に怖いものを投げられた経験なんてありません。
「何で避けるの……それ位は持てるようにならないと。ゴブリンを丸ごと持つよりは怖くないと思うんだけど」
「何となく。耳だけの方が生々しく感じられて怖いっす」
「とにかく、それを拾って籠の中にでも入れておきなさい」
「おぅ……」
僕は嫌々ながらも心を強く保って耳端を持って拾う。まだ、少し暖かい。触れたままでいるとどうにかなりそうなので、籠の中に思い切って放り込む。これで、今日は怖い経験はしなくて済むだろう……たぶん。
「うん。あとはゴブリンの死体の処理だけね」
リンダさんはゴブリンから距離を取ると杖の先端を向ける。
「炎よ。我が声に応えよ。燃焼するは我が魔力。重力より解き放たれし炎は球と成る。燃えろ。燃えろ。燃えろ」
リンダ様の背後に火球が出現する。「燃えろ」と言うたびに発生して合計で3つの火球がリンダ様の背後に浮いていた。
「敵を焼き尽くせ。収斂の火球!」
リンダ様の声と共に解き放たれた3つの火球はゴブリンの死体へと放たれた。そして、ゴブリンに当たる直前に合体して1つの火球となる。ただし、大きさは3つ合わさったにもかかわらず変わっていない。おそらくは合体させて威力を高めたのだろう。火球はゴブリンを丸ごと包んで形を保ったまま燃え続ける。それは小さな太陽のように見えた。1分程もすると火球は消えて、その場には黒焦げた地面と灰だけが残っていた。
「……死体に対してオーバーキルとは酷過ぎる」
「ここって一族で使っているから、中途半端にすると家族がうるさいのよ」
リンダ様は僕の言い方に反論する。だからといって灰にすることはないでしょうに。いや、逆にここまでされた方が優しいと言えるのだろうか。
「……ゴブリン。君のことは忘れない」
僕は灰塵と化した。ゴブリンに手を合わせてご冥福をお祈りするのであった。




