忘れ物たちへのラブレター
夜明け前に上がったらしい雨の名残が、校庭のあちこちで早朝の青空を映していた。
もくもくとした白い雲を浮かべる水面に、小さく波紋が生まれる。降り立ったハクセキレイが、尾羽で水たまりを打ったのだ。
湿った砂利は、スパイクに悪い。砂の粒で細かな傷がつき、入り込んだ水気で金属ピンが錆びてしまうからだ。
それでも彼女はいつものように靴紐をきゅっと結び、スタートブロックに足をかけた。
「位置について」
クラウチングスタートの姿勢を取り、神経を研ぎ澄ませ、号令を待つ。
頭を下げているせいで、高い位置でポニーテールに束ねた長い黒髪が、地面すれすれに落ちた。
「なあ。髪、切らないのか?」
「……は?」
用意──という決まり切った台詞が聞こえてくるはずが、不意を突くような質問が降ってきた。
思わず顔を上げる。
揃いのデザインのユニフォームを着た、短髪の男子が見下ろしている。同じ陸上競技部で、百メートル走専門の部員だ。
「なに?」
「髪。切らないのか。地面につきそうだぞ」
彼女は上体を起こす。
「……切らないよ」
「切っても……いい、と俺は思うが」
男子部員が、このくらいはどうだ、と言うように鎖骨の辺りを手で示した。
「切らないって決めてるから」
彼女はスタートブロックから足を外し、手のひらについた砂をぱぱっと払った。
陸上競技部の早朝練習に来る部員は限られている。高校から家の近い部員しか、満足に参加することができないからだ。
この時間、サブトラックのセパレートコースには彼女と男子部員しかいない。
彼女と男子部員がわざわざ一人ずつ走っているのは、スタートの感覚を鍛えるためだ。
走り出す一人の横で、もう一人が号令を出す。
他人のタイミングで管理されるスタートにいかに素早く反応できるかは、大会に向けてのよい練習になる。
「話は終わりか?」
「──あ、ああ」
しゃがんでから少し時間が経ってしまっていた。
彼女は一度立ち上がり身体を伸ばす。
「……集中が切れてるなら私は一人でやるからいいぞ」
「ああいや、大丈夫だ。──位置について」
普段の調子に戻った男子部員の掛け声で、彼女はまたスタートブロックに足をかけた。
園芸部員は朝から忙しい。
特に暑い季節は、気温が上がり出す前に水をやるのが植物のためになる。
白いシャツと黒いスラックスに、園芸部とプリントされた深緑色のエプロンをつけた一人の男子生徒が、四リットル如雨露を持って水道と中庭を往復していた。
「おはようございまーす」
バラの生け垣に向かって、如雨露を傾けた。
きらきらと、葉の上に水が降り注いでいく。
水滴を受けて、葉っぱたちがゆらゆら揺れた。
「はは、気持ちよさそうだね。いい子いい子」
人間と同じで、植物も褒めたほうが育ちが良い──というのは彼の持論である。
中庭の垣根の役割をしているバラに話しかけながら、男子生徒は青空を見上げた。
昨晩は雨だった。
今朝の水やりはほどほどでよさそうなものだが、今日はこれから気温がぐんと上がるらしい。
来たる夏本番に向けて、今のうちからしゃんとしておいてもらわなくては困る。
特に今世話をしているバラたちは、水が足りないとすぐにその葉が焼けたように赤茶に変色してしまう。
中庭の一等地に植えられた花だ。綺麗に保ってあげたい。
「日向くん、おはよう」
後ろから声がした。
如雨露を平行になるよう握り直し、彼は振り返る。焦げ茶の癖っ毛が、夏の風に靡いた。
「おはよう桃園さん」
夏用の白いセーラー服に深緑色のエプロンをした女子生徒が、軍手と鋏を二つずつ持ってやって来るところだった。黒髪が鎖骨の上でくるんと弾んでいる。
「また間に合わなかった」
ちろっと舌を出す。
「十分早いよ。桃園さん、通学距離どれだけあると思ってるの」
「でも、日向くんに全部させるわけにはいかないもの」
「気にしなくていいのに」
朝の手入れは部活動の一環であるのだが、彼は好んでやっているつもりだった。
実のところ、理由は二つある。
「日向くん、本当に植物が好きよね」
「うん」
如雨露を最後の一滴まで傾ける彼の横では、女子生徒が軍手をはめている。
「水やり終わった? 剪定しよ」
「ありがとう」
差し出された軍手と鋏を受け取り、彼は空になった如雨露を中庭の芝の上に置いた。
「昼休みのメニュー、今日はサブトラック組と外周組どちらにする?」
「外周でいいだろう。先週はずっとサブトラックだった」
「そうだな。──鍵」
陸上競技部の短髪の男子部員が手を出した。
先ほどスパイクとユニフォームをしまい閉めてきた、部室の鍵を要求している。
ポニーテールに指を通していた彼女は、その手をちらりとだけ見てまた前を向く。
「どちらが返しても同じだろう。別に私でいい」
「なら俺でも構わないだろ」
校舎の二階を、二人は職員室へ向かっていた。
職員室前の廊下には、中庭に面した大きな窓がある。
話の途中で、彼女が半歩そちらへ近づいた。セーラー服の襟に、長めのポニーテールがかかる。
シャツとスラックスを着た男子部員も、空を見上げる。
「また途中で降られないといいな」
先週は雨に恵まれていた。
屋外で練習に励む運動部たちは、少しでも雨脚の弱い場所を求めて、校庭を無駄に右往左往したものだ。
「──ああ」
窓の外を見ていた彼女は、少し遅れて返事をする。
男子部員が雲の浮かぶ青空から視線を下げたときには、彼女はもう廊下の先にある職員室のほうを向いていた。
「そろそろ終わろうよ」
中庭では、女子生徒と癖っ毛の彼が剪定作業をしていた。
もうすぐ予鈴が鳴る時間だった。
女子生徒は彼に、朝の活動を切り上げるよう誘う。
「うん。お疲れさま」
「行こ」
女子生徒が両手から軍手を取る。
彼も軍手から片手を抜き、風にそよぐ前髪を目元が見えるように掻き上げた。
「僕はもう少し眺めてから行くよ。先に行っていいよ」
「じゃあ……私も眺めよっと」
女子生徒は、彼の隣で少し大袈裟に深呼吸をする。
彼はどこか迷うように、眉を少しだけ八の字にして微笑んだ。
「……退屈じゃない?」
「退屈じゃないよ」
女子生徒がにこりと笑って、カールした毛先が揺れる。
「これは何色なの?」
「ピンクかなぁ。ほらあそこ、蕾があるでしょ? 色が少し見えない?」
「あ、ほんとだ」
目の前の細い低木群を指し示す彼の指を、女子生徒の目が追う。
目線の先には、ぷくりと丸い蕾が数個。
あと何日かすれば、花を咲かせるだろう。
「わぁ、きっと綺麗ね。みんな喜んでくれるかな」
「うん──」
嬉しそうに低木を覗き込む女子生徒に対して、彼の返事は少し言葉が足りない。
「日向くん?」
「ん? なあに?」
女子生徒は蕾から顔を上げたが、隣にいるのはいつも通りの彼だった。
「各自、ペースを守って走るように! では、先頭から順にスタート!」
ピッ! というホイッスルの音で、体操服姿の男女が走り出す。
陸上競技部副部長の三年生が、正門から部員たちを順次送り出していた。
空は、昼休みになっても晴れていた。遠くには、もこもこと白い雲が浮かんでいる。
前の列の部員たちが出発して、ポニーテールの彼女を含む数人が正門に並ぶ。
「七見。どうしたらそんなに軽く走れる」
隣には朝の練習で一緒だった短髪の男子部員がいて、足首を回しながら彼女に話しかけた。
「私の場合はだが、足の裏の前側を使っている」
「お前、土踏まずのバネ凄いもんな」
答える彼女は、青空を見上げている。
「次の列、スタート!」
ピッ! と音が鳴って、彼女たちは正門から出ていった。
外周とは、高校の敷地周りを走る、ランニングトレーニングのことをいう。
この日も、アスファルトを蹴る足音と弾む呼吸が、太陽の下をいくつも駆け抜けていた。
各列は小さな集団を作り、前の集団から一定の距離を保って走っている。
彼女は、いつもまっすぐ前を向いて走る。
同じ集団で走る男子部員は、その少し後ろで、彼女が一歩踏み込むたびに跳ねる黒髪を見ていた。
白い体操服の上で、長めのポニーテールがしなっている。
艶のある黒髪は、手入れが大変ではないのだろうか。
百メートルを走るときも、邪魔にはならないのだろうか。
コンマ零一秒が大切なレースでは、風の抵抗は少ないほうがいいはずだ。
もう少し短くしたほうがいいだろう。今より短くても似合うだろう。
その黒髪が減るのは勿体ないが、こんなに揺れるポニーテールは、その綺麗さは、知っている者が少なければ少ないほどいいような気がする。
裏門のある通りにさしかかった。この先はフェンス越しにプールと格技場の後ろを回る。
不意に、彼女がポニーテールに手をかけた。
走りながら、長い黒髪を指で梳く。
跳ねていた髪が引っ張られ、ポニーテールは一度、肩より前に消えた。
男子部員は思わず「どうした」と声をかけそうになったが、彼女が髪を気にしたのはほんの一瞬で、すでに前を向いていた。
フェンスの向こうのプールから、水泳部のホイッスルが聞こえる。
格技場からは剣道部だろうか、威勢のよい掛け声が響いている。
その横を、陸上部の部員たちはアスファルトをリズミカルに蹴って進んでいく。
そのとき、曲がり角でもないのにポニーテールが横に振れた。
少しスピードを落とした彼女に、男子部員がちょうど真横に追いつく形になる。
ほんの短い時間、彼女はどこかに目線を定めていて、それは学校の敷地の中のようだった。
男子部員はその視線を追いかけたが──そこには用具倉庫が立ち並んでいるだけであった。
「ねぇ。この霧吹き、もう役に立たないよね」
「本当だ。もう割れそうだね」
園芸用具用の倉庫の前で、園芸部の女子生徒と癖っ毛の彼が話していた。
上半身には白い体操服を着て、下は紺色のプリーツスカートと黒いスラックスという格好だ。
エプロンをつけた二人の額は、汗ばんでいる。
真昼の太陽のせいだけではない。裏門横のトラックから、腐葉土の袋を運び終えたばかりなのだ。
本来二人でやる仕事ではないのだが、ほかの部員はしおれかけたグリーンカーテンの応急処置に走り回っているので仕方がないのだった。
「最後にちょっと遊ばない?」
壊れかけの霧吹きを手に、女子生徒が含み笑顔になる。
都合のいいことに、近くには水道がある。
癖っ毛の彼も、いいね、と笑った。
「わぁ、涼しい……! 虹とか見えないかなぁ?」
「桃園さん──僕にばっかりかけてない?」
「ふふっ、気のせいだよ」
水を入れた霧吹きを天に向かって吹き、降ってくるミストに年甲斐もなくはしゃいでいる。
二人とも細かい水滴を纏い、彼の癖っ毛も女子生徒の黒髪もしっとりと濡れていた。
「桃園さん。ちょっと僕のおでこにかけてくれる?」
彼が前髪を持ち上げた。
女子生徒はにこにこ笑っていたが、少し困った顔をする。
「……さすがに人の顔に向かってはかけられないよ?」
「やっぱり僕にばっかりかけてたんじゃないか」
笑顔で霧吹きを受け取り、彼は自分で額に水をかけた。
エプロンの裏側で、ぐいと拭く。
「はあ、さっぱりした」
そして霧吹きを女子生徒に返し、彼は倉庫の後ろ側に植えられたケヤキの木を見上げる。
濡れた顔に、木陰をすり抜ける風が心地良い。
そのまま木の更に向こう側にある、フェンスのほうを見た。
「日向くん、虹が出たよ……!」
太陽に向かって霧吹きを高く掲げ、女子生徒は宙に見とれている──だが、指から手応えがなくなってしまった。
「──あっ、そんなぁ。壊れちゃった」
「ん? 虹?」
彼は今こちらを向いたようだ。
「見てなかったの? もう出来ないのに」
「それは残念──もう戻ろうか」
少し責めるような顔をする女子生徒から、割れてしまった霧吹きを受け取った。
校舎のほうへ歩き出した女子生徒の後ろに続きながら、彼はもう一度だけフェンスを振り返った。
「お疲れさまでしたー!」
夜も九時を回っていた。
空はすっかり暗く、星が輝きはじめている。
部活を終えた学校中の生徒たちが、ばらばらと下校していく。
ポニーテールの彼女も、部室棟に併設された女子更衣室で、ユニフォームから白いセーラー服に着替えた。
ほかの女子生徒に比べて少し高い、すらりとした長身。選手として恵まれた身体だ。
プリーツスカートのウエストの位置は高く、細い脚にハイソックスがよく似合っている。
紺色のスカーフをきゅっと結び、ポニーテールも結い直した。
片手に革鞄を持ち、もう片手で肩にかかった長い髪の束を襟の後ろへ払いながら部室棟を出る。
正門までの道の両脇はイチョウ並木になっていて、彼女はその根元を覆う草花を眺めながら歩いていく。
正門まで来ると周りにいた部員たちに手を振り、学校前の道を曲がっていった。
街灯がまばらな暗い通学路を、すたすた歩いていく。
商店街を抜け、コンビニの前を通り過ぎ、少し傾斜のきつい坂道を登れば、高台に並び建つ団地の一つに彼女の家がある。
「──七見」
キキッとブレーキ音がして、隣に自転車が止まった。暗闇の中、青いライトがアスファルトを照らす。
白いシャツを着て黒いスラックスを穿いた、短髪の男子部員だ。
「静沢」
彼女も立ち止まる。
「送る。暗いだろ」
「静沢は遠いだろう。遅くなるぞ」
「方向は同じだ──乗れよ」
男子部員が自転車を一漕ぎして、少し前に出る。
彼女は一瞬荷台を見つめ、
「近くまででいい」
そう言ってから、横向きに腰掛けた。
夜なのに暑い。もうすぐ真夏だ。
自転車で街を駆け抜けると、制服から出ている素肌に夜風が当たって涼しい。
短距離走専門の男子部員は、漕ぐ力が強くスピードも速い。
後ろに座る彼女は革鞄を膝に乗せ、はためくプリーツスカートを押さえている。ポニーテールも、自転車の動きに合わせて揺れていた。
自転車が、彼女の通学路の中で唯一明るいコンビニの前を過ぎた。
「何か飲むか?」
前から声が聞こえてくる。
「もう通り過ぎてるだろう」
彼女も前に届くように声を上げる。
そして二人は坂道までやって来た。
細い街灯が一つ、坂道の始まりに立っている。
「ここまででいい」
彼女が声をかける。
「上まで行ってやる」
男子部員が自転車のギアを上げた。
「いい。止まってくれ。降りる」
「──掴まってろよ」
踏み込む右足にぐっと力を込めた男子部員。彼女は強引に荷台から飛び降りた。
急に自転車が軽くなり、男子部員は片足をアスファルトに着く。
「……乗ってろよ」
「いい。ありがとう」
「上まで行ってから聞く。乗れよ」
「ここまででいい」
彼女は坂道の下で立ち止まったまま、頷くこともしない。
短髪の男子部員は自転車から降り、方向転換をして戻ってきた。
「……なんでだ?」
「ここまででいいんだ」
男子部員は彼女を見つめ、彼女は坂道を見ている。
「嫌なのか」
「嫌……なわけではない」
「なら」
男子部員が一歩自転車を近づけた。
彼女は首を横に振る。
「この坂道は登れない」
「……どうしてだ」
革鞄を両手で持ち、彼女はまっすぐ坂道を見つめている。
男子部員はスタンドを立てて自転車を止め、彼女に向き直った。
「……七見。俺が嫌いか?」
「嫌いでは……ない」
彼女が男子部員を見上げた。
身長の高い彼女だが、短髪の男子部員もまた背が高かった。
弱い街灯が照らす下で、男子部員は真剣な瞳で彼女を見ている。
「この坂道に問題があるのか?」
「そういうわけでは……ないんだが」
ポニーテールが夜風に靡いた。
夜の中へ溶け込むような黒髪に一瞬目を奪われる──だが、彼女がポニーテールの真ん中を捕まえてしまった。
「……なら、俺が駄目なのか?」
髪を押さえたまま、彼女は俯き、小さくため息をついた。
「……駄目なわけじゃない。でも、一緒に登ろうと約束している人がいる。だから他の人とは登れない。申し訳ない」
男子部員は二人の間のアスファルトへ視線を落とした。
「……わかった。気をつけて帰れ」
「ありがとう」
彼女が顔を上げる。
彼女の瞳はどこか深みを帯びているような、素敵な黒だ。ランニング中にまっすぐ前を見つめて走る横顔は美しい。
彼女の長い黒髪は艶々と流れるようで、綺麗だ。スタートブロックに足をかけるとき、首にかかるようにすらりと落ちていくポニーテールは、魅入るほどに危なっかしい。
陸上部なのに白いその肌と、女子にしては少し高めの身長──。
秘密にしておくには眩しいのだ。
ぼんやりとした街灯の光の下で、男子部員は自転車に跨がった。
「静沢」
「──なんだ」
彼女はポニーテールから手を離していた。口を開きかけて、言葉を探している。
男子部員は自転車のペダルに足をかけた。
「……明日も鍵、早い者勝ちな」
「──わかった」
そして彼女が頷いたのを見てから、走り去っていった。
その後ろ姿を見送り、彼女は坂道の始まる場所で、ほうっと小さくため息をついた。
街灯の下から勾配の少し急な坂道を見上げる。
タッと軽くアスファルトを蹴ると、一息に駆け上がっていった。
翌朝も青空だった。
昨日より乾いたサブトラックで、ユニフォーム姿の彼女が走っているのが見える。
「ちょっと勿体ないよね」
「──そうだね」
毛先がくるんと丸まった黒髪の女子生徒と、焦げ茶で癖っ毛の髪の園芸部員の彼が、正門から校舎へ続くイチョウ並木の草むしりをしている。
昨日と同じく、上は白い体操服で下は制服だ。足には、二人ともレインブーツを履いている。
ここに植えられているイチョウはどれも雄株で、その根元に生えているのは白詰草だった。
白い花が咲いて、三つ葉のクローバーがたくさんある。
「あ。四つ葉」
「えっ、ほんと? わぁ」
彼は三つ葉の絨毯の中から、軍手の指でクローバーを一本摘まみ上げた。
その手を女子生徒が見つめている。
「あげるよ」
「えっ、いいの?」
差し出された四つ葉を、女子生徒は軍手を外した手のひらで嬉しそうに受け取った。
「ありがとう。押し花にして、栞にしようかな」
「いいね。素敵」
彼も微笑む。
草むしりはイチョウの木、六本分まで進んだ。
かさが少ない雑草なのでゴミも大した容量にはなっていないが、今朝はこのくらいで切り上げていいだろう。
「これ長ーい」
女子生徒が、クローバーの中から白詰草の花を一本引き抜いた。
長い茎の一輪だ。
「日向くんも花冠作れる?」
「作れるよ」
二人はイチョウの根元にしゃがんで、茎の長い花を選んで摘んだ。
「できた」
数分して、女子生徒は花冠を完成させた。
前にしゃがむ彼のほうはとっくに花冠を作り終え、せっせと別のものを作っている。
「見て。ちょっと豪華に作ってみたの」
「──ほんとだ。そうなると本当に勿体ないね」
女子生徒は、白詰草を三つずつ編み込んだ花冠を見せる。
白詰草はこのようにして遊べる、見た目にも可愛らしい雑草だ。
園芸部としては、メインの植物を優先するために除草しなくてはならず、雑草に対してときどき心苦しい。
「じゃあ、片付けようか」
「うん。えっ、あ……」
彼は、自分が作った花冠をぽいとゴミ袋に放った。
クローバーの上に置いていた軍手をエプロンのポケットに詰め、袋を片手に立ち上がる。
そのもう一方の手には、さきほど作っていた白詰草の細工物をそっと包んでいた。
少し遅れて女子生徒も立ち上がった。
「……捨てちゃうの?」
「え? ……あ。無意識だった」
「……私のあげる」
女子生徒は豪華な花冠を差し出した。
「いいの? ありがとう。乗せてくれる?」
微笑んでほんの少し屈む彼。彼の背はそれほど高くない。
女子生徒は少しの間花冠を握りしめ、その癖っ毛に乗せた。
「ありがとう」
それだけ言って、彼は歩き出してしまう。
待って、と言うより早く追いついた女子生徒は、首を傾げるようにして彼の右手の中を覗く。
「……くれないの?」
「えっ」
彼は驚いた顔で横を向いた。
「それ。くれないの?」
指差され、自分の右手の中を見る。
「……あ、これ……。これは……ごめん。あげる人がいるんだ」
「それを?」
彼の手の中にあるのは白詰草の指輪だった。
白くこんもりと丸い、特別大きな花で作られている。
「うん。……ああ、えっと……」
いつもにこにこしている彼が口籠もるのは初めてであった。
「……私も欲しいな、それ」
女子生徒が彼の目をじっと見つめる。
彼のブラウンの瞳は、日の光の下では明るく薄い色に見える。それは不思議な明るさで、いつまでも見ていたい。
彼の髪は癖があって、いつも柔らかくうねっている。焦げ茶色の頭は暖かそうで、手を埋めてみたくなる。
甲斐甲斐しく植物を世話する彼からは、お日さまのような香りがする。
男子にしてはあまり高くない身長に、優しい口調、物腰。
彼の特別になりたかったのに……。
「……ごめん。僕がこれを作ってあげるのは、一人だけなんだ」
彼は優しい眼差しで、でも視線を伏せている。
「……もう決まっちゃってるの?」
「決めてるんだ」
女子生徒も、自分のレインブーツのつま先を見た。
丸い毛先が一束、鎖骨から宙に落ちる。
「……そうなの」
「ごめんね」
眩しい朝日を、イチョウの青葉が遮ってくれていた。
二人は校舎の前まで帰ってきた。
少し前を歩いていた、頭に花冠を乗せた彼が振り向く。
「──桃園さん」
「……なあに」
女子生徒が顔を上げると、彼はゴミ袋をコンクリートに置き左手を差し出していた。
「軍手、ありがとう。僕がしまうよ」
女子生徒は言われるままに手を動かしかけたが、エプロンのポケットから引っ張り出そうとした軍手を、ぎゅっと奥まで押し返した。
「私でいいよ。いつもと同じ」
そしてコンクリートに置かれたゴミ袋を掴み、その場に立ったままの彼の横を通り過ぎる。
「僕が持つよ、重いでしょ」
「それ──」
追いかけ、手を伸ばしてきた彼から大きく一歩離れ、くるりと振り向く。
その動作に、黒髪が遅れて弾んだ。
「──潰しちゃったら、私も可哀想なんだからね」
彼がほんの少しだけ目を丸く見開いて、それから微笑んだ。
女子生徒はもう一度髪を弾ませ、歩いていく。
彼は右手の中を見て、それから校庭のサブトラックを振り返った。
右手を大切そうに丸め、左手も添えて包む。
そして校舎の横を通り、園芸部の部室へ戻っていった。
毎月第四火曜日の放課後は部活動がなく、それは夏休み中といえども例外ではない。
だからといって下校時間が早まるわけではなくて、夏期講習のスケジュールは午後いっぱいまで組まれていた。
夕方六時を過ぎてから、やっと解放された生徒たちが、わらわらと下校していった。
「──ごめん、待たせた」
「私も今来たばかりだ」
はあはあと息を切らし、ブレーキの代わりに革靴をアスファルトに擦って自転車を止めようとしながら、園芸部の彼が学校近くの公園に現れた。
噴水前のカエデの並木道に設置されたベンチの一つでは、陸上競技部の彼女が文庫本を読んで待っていた。
「──、帰ろうか」
「休まなくていいのか?」
「大丈夫──」
呼吸の整わない彼が、自転車のハンドルにへばりついている。焦げ茶の癖っ毛が、夕暮れの風に靡いた。
彼女は、セーラー服の胸ポケットから桜の押し花の栞を取り出し、ページの間に挟んで文庫本を閉じた。
「バラは咲いたのか?」
「──、あと少し……来週くらいかな」
「そうか」
立ち上がり、自転車の隣に来た彼女は、彼より頭一つ分、背が高い。
「咲いたらメールするから、休み時間にでも見に来て──慧ちゃんが好きなピンクだよ。棘も切ってるから、危なくない」
「そうか。──休まなくて平気か」
少し首を屈めて彼を窺う彼女。ポニーテールがセーラー服の襟の上を流れ、すらりと肩に落ちる。
彼女のすぐ横で自転車を押して歩く彼は、カゴに放り込んでいた自分の革鞄を縦にしてスペースを半分空ける。
「大丈夫──慧ちゃん、鞄入れなよ」
「いい」
彼女は両手で革鞄の持ち手を握りしめ、背筋を伸ばし、だんだんと夕焼けに染まる西の空を見た。
彼女の長い黒髪に、夕日が反射している。
彼は手を伸ばし、その毛先にそっと指を絡めた。
「──っ」
髪を弱く引かれ、ぎこちない動きで彼女が振り返る。
「ずっと綺麗だね──サラサラだ」
彼がにこやかに指を離すと、彼女は心なしか竦めていた肩を下ろした。
二人は公園を抜け、住宅街を過ぎ、コンビニの一つ先の曲がり角から出た。
コンビニ前の車道は、反対車線の側にガードレールが設けられていて、それより外は白いコンクリートに覆われた法面の崖になっていた。
車道は、傾斜の急な坂道へと続いている。ここを通るのは高台に建つ団地の住民の自動車くらいで、喧噪とは無縁な、静かな道だ。
コンビニ先の曲がり角で、自転車は車道に降ろされた。
サドルに跨がり、ふう、と彼は息を吐く。
「──乗って」
「無理はするなよ」
肩越しに声をかけてから、彼女は荷台へ腰掛け、革鞄をプリーツスカートの上に乗せた。
ガードレールの向こう、遥か下に広がるのは、市の大部分を占める大きな街。
もっと遅い時間になれば、一つしかない頼りない街灯のおかげで、繁華街を彩るネオンの景色を楽しめるのだ。
角から出てくるまで、家々の壁をオレンジ色に染めていた夕日は、ここでは高台に邪魔されて見えない。そのせいで高台まで伸びる坂道は薄暗い。
「じゃ、行きまーす……」
彼はペダルを強く踏み込み、車道を漕いでいった。
坂道にさしかかる。
彼はカチ、とギアを上げ、彼女は、革鞄を押さえていないほうの手でサドルに掴まった。
二人乗りの自転車は、坂道を上へ、上へと登っていく。そして、スピードが少しずつ落ちていく。
座っている彼女にも、一漕ぎごとにペダルが重くなっていくのが伝わった。
自転車は次第に蛇行し、眼下の繁華街がガードレールに見え隠れする。
転がる前に飛び降りなくてはならない。
「日向」
彼女は名前を呼んだ。
彼は無言で固いペダルを踏み込んでいる。
「日向!」
もう一度呼ぶ。
大きく息を吸う音が聞こえ、彼の声が前から降ってきた。
「昔、みたいに、呼んでよ……!」
夏の夕方。温い空気は、体温との温度差が小さく吸い込みやすいはずなのに、苦しい。
彼女は彼のほうに身を乗り出した。
「──憂一」
「……な、に」
背中に大きくしわを寄せて動く白いシャツ、ベルトと細いスラックス。彼は懸命に漕いでいる。
彼女も、左右に振れ始めた荷台でなんとかバランスを取っていた。
「──代わろう」
「いやだよ……! この坂は──僕が──連れて行く──んだから……!」
勾配に対して、スピードが足りていないのだ。
二人は、二人乗りをするのはコンビニを過ぎたT字路の車道から、と決めている。
その距離では彼の筋力には荷が重い。
「──でも私のほうが体重が重いぞ──」
「そんな、風に、言わないでよ……!」
身長も運動量も、彼女のほうがあるのだ。
当然ともいうべき事実を彼はまだ無視して、ペダルを踏む。
「憂一」
彼の名を呼ぶ。
「憂一!」
ハンドルを握る彼の手が、汗で滑りそうなのはわかっている。
「──憂ちゃん」
白い背中に向かって呼びかける。
突然、ペダルが動かなくなり、彼は自転車ごと横に倒れた。
彼女はひらりと飛び降りる。
横倒しになり地面から浮いた車輪が、カラカラと回った。
坂道の、半分よりわずかばかり下の地点である。
彼女は自転車の下敷きになっている彼のほうに周り、カゴから放り出された彼の鞄を拾った。
「……毎日……一人で練習……してるのに……」
アスファルトに倒れたまま、彼は胸を大きく上下させている。
「まだ二年あるだろ」
彼女は彼のそばにしゃがんだ。
二人は高校一年生だ。入学のときに掲げた目標は、達成にはまだ時間がかかりそうである。
額に浮かんだ汗を、彼女が薄桃色のハンカチで拭ってくれる。
彼は視線を上げ、真上にいる彼女を見上げた。
「……今日は……登り切れるかと……思った……」
「……なんで」
彼はやっと地面から起き上がり、シャツの胸ポケットから木箱を取り出した。彼がいつもルーペを入れている木箱である。
「……慧ちゃん、右手くれる?」
彼は彼女のすらっとした手を取り、その薬指に、木箱の中にしまっていた白詰草をはめた。
彼女が指を見つめている。
彼はまだ荒い息を何度か吸い直し、花の指輪がよく見えるように、繋いだ手を顔の前に上げた。
「大人になったら本物をあげるね」
この台詞は、二人の間で何度も交わされてきた。このあと、彼女はいつもはにかみながら頷く。
しかし今日は違った。
「今は?」
「へっ?」
落ち着かない呼吸に困らされている彼は、思考回路への酸素も足りていない。
彼女はアスファルトに膝をつき、目線を合わせた。
「憂ちゃん」
「……はい」
じっと見つめられ、彼はしばし呼吸を忘れる。
彼女の手が彼の頬を包み込み、顔と顔が近づいて、唇と唇が触れ合った。
一秒──二秒──三秒──四────。
「──もう無理! 死んじゃう!」
勢いよく彼女から離れ、彼は思い切り息を吸った。
胸に手を当て、激しく打つ心臓を押さえる。
彼女のほうは変わらない表情で、放っておかれている自転車を起こした。彼の鞄をカゴに入れ、振り返る。
「帰ろう」
「……慧ちゃん……」
風にポニーテールを靡かせる彼女を見上げて、心臓がさっきまでとは違う意味で苦しくなってきた。
彼は立ち上がり、彼女から自転車のハンドルを受け取る。頬と耳が熱かった。
二人は歩いて、静かに坂を登っていく。
「……明日も一緒に帰りたいなぁ」
高台の影に入り、坂道は暗い灰色になった。
彼が自転車のライトのスイッチを入れた。白い光が二人の前を照らす。
「明日は部活だ」
彼女は空を見上げている。
「慧ちゃん、今も雲好き?」
「好きだ」
彼女は小さな頃から、空に浮かぶ白い雲を眺めるのが好きなのだ。
彼は、空を見る彼女の横顔を見つめた。
「一ヶ月に一回じゃ足りないよ……」
彼と彼女が一緒に帰れるのは、よほどのことがない限り、第四火曜日の放課後だけである。彼女にとって、陸上部の練習は何より大切だった。
陸上競技に懸ける情熱を理解していても、校内で目を合わせられるタイミングを知ってはいても、物足りない。
「メールしてるだろ」
「メールはメールでしょ」
彼女の携帯電話は桜色で、彼の携帯電話は白い。
「電話もしてる」
「電話も電話だよ」
高台の頂上へ歩きながら、彼女が当たり前のことを淡々と挙げていく。
彼は口を尖らせた。
「隣のアパートだろう」
「そうだけど……」
すぐ隣を見ても、彼女は前を向いたままで、また両手で革鞄を持っている。
「慧ちゃん」
彼は、甲高い摩擦音がしないように気をつけてブレーキをかけ、自転車を止めた。
セーラー服の袖を引き、少し背伸びをして。
振り返った彼女の頬に────ちゅ、と唇を押し当てる。
彼女がパッと頬を押さえた。
その隙に、彼は自転車を押して駆け出す。
「お休み、慧ちゃん!」
「……待て、日向!」
出遅れた彼女が追いかける。
足の速さでは負けない──はずなのに。
「名前で呼んでって!」
彼はもう、団地の敷地まで登り切ってしまいそうだ。
その一言にたじろいで、ますます差が開く。
「……憂一! …………待ってってば!」
すっかり暗くなった高台の上。見下ろす繁華街のネオンが、ちらちらと明るい。
最後の数メートルを一息に駆け上がり、彼女は待っていた彼のところへ駆け寄る。
「……ポカリ、飲んでく?」
団地の入り口から、彼の家のあるアパートへたどり着く前に、彼女の家のあるアパートが建っている。
「うん。冷えてる?」
「朝、冷蔵庫に二本突っ込んできた」
「やった。喉渇いたよ」
二人は高台の敷地の端っこでしばらくネオンの光を眺めたあと、自転車を置くために一緒に駐輪場へ向かった。
<終>