娘と女、2人の進路 (前)
赤字で『南雲茉莉花』と書かれたあの紙が投げ入れられてから、その後は何も起こらなかった。
それ以上の警告も、具体的な脅威もない。
外に出るときは、常に周囲に警戒を払っている。
けれど誰かがあとをつけている様子も、駐車場や周囲の物陰に潜む影も、ない。
茉莉花の居場所が確定できたから、しばらくそのまま泳がせる。
そういうことなのだろうか?
けれどその考えは、安易に過ぎるようにも思える。
コチラとしては明確な警告を与えられ、そのまま放置されることは、精神的にキツい。
もちろん何かが起こって欲しいわけではない。
欲しいわけではないが……
警告を与え放置しておくとは、非常に効果的な策だ。
それを俺が、自分の身体のしんどさで証明している、それが気に入らんがな。
◇
「どうだ、順調にやっているか?」
「さーてな、そいつはどうかな。
北見家という庶民の家族ごっこに混ぜてやってはいるが、それに意味があることかどうか……
まあ、元気で楽しそうには、しているぜ」
「そうか。
なら、それはそれで、いいじゃないか。
案外、それが彼女の幸せかもしれんぞ」
「いや、そうも言ってられないな」
「なんだ?
不確定事項でもあるというのか?」
「ン、コチラの居場所を知られている」
「……」
「どうした? 西?
聞こえているのか?」
「ん、ああ。
すまんな。
いったいなぜ、それが確認できた?」
「ポストに投げ込みがあった。
『南雲茉莉花』と赤字で書かれただけだったがな。
たしかに外出して、買い物もしたさ。
篭りっきりで引きこもっていた訳じゃない。
それにしたって、一般人のイタズラで『南雲茉莉花』と書いて、部屋を特定して投函するなんてあり得んだろう。
探し回っている連中に、居場所がバレていることは間違いない」
「北見が工場に……
そうだな、忘れものでもしてきたというのか?」
「……つまらん冗談はよせよ、西。
潜入するのに身バレするようなものを、この俺が持ち込むと思うのか?
オマエはそういう奴に、大事な仕事を依頼してんのか?」
「……いや、すまなかった。
馬鹿にするつもりはないんだ。
ただな……」
「ただ、どうした?」
「こちらでそういう動きは掴んでいない。
探すのに協力しろ、という話が対立する俺にまでくるほどだからな」
「フーン、撹乱情報か、あるいは西のライバルグループも、仲間内でイロイロあるのか……
何か情報が掴めれば、と思ったんだがな。
ポストに投函されて以来、相手の動きがまったくない。
だから助かるといえばそうだが、逆に相手の尻尾も掴めん。
だから対応のしようがない、というのがコッチの現状だ。
さすがに俺も、長期間を仮眠で過ごすのはキツすぎるからな。
どうにかしたいところではあるが……
その様子じゃ、西様に直接の御支援、御協力を賜るってのは、どうやら無理そうだな」
「すまん。
こちらでも何か掴めればすぐ連絡する。
逆に北見の方でも何かあれば俺に連絡を寄越せ。
想定外の事態ゆえ、できる限り対応する」
「しゃーないな。
当面、なんとかするわ」
「そう長くはならんはずだ。
今の内閣は事実上の選挙管理内閣だ
1月末日に冒頭解散になる。
年明けに候補者は一気に決まるだろう」
「それでもクソ長いぜ。
今日が29日か?
凜々花の高校がはじまっちまえば、もうお手上げだ。
両方には俺は張りつけない。
なんせ1人しか、いないんだからな。
強引に口を割らせて録音で済む話なら1日も掛からんが、そうもいかないしな」
「決まりそうな気配はないのか?」
「今のところな。
もう少しプレッシャーを掛けてみるさ。
お嬢様には嫌われるかもしれんが、危険がある以上、そうノンビリもしてられん」
「こちらでも動きは探ってみる」
「頼むよ、ま、いくらか話せてスッキリしたよ」
◇
「あっ! それそれ、その昨日の新聞。
テーブルの上に置いて、パパ」
「ン、真ん中でいいか?」
凜々花が鍋つかみで、火傷しないように土鍋を持ってくる。
今日の朝メシは、夕べの水炊きの残りをおじやにしたものだ。
残り物をちぎって火にかけ、米をブチ込んで最後に卵を落とす。
ただそれだけの、シンプルイズベストな料理だ。
北見家では土鍋なんて、普段は使わない。
娘と2人で鍋にしたって、しんみりと寂しく、サマにならない。
いつもは両手鍋で煮る程度のなんちゃって鍋で、ただの煮込みのようなものだ。
けれどやっぱり3人だということもあり、積極的にみんなで食べるような、イベント系の料理ばかりしている。
夕べは鍋、その前はホットプレートで焼肉、さらに前はホットケーキまで……
メニューについては我慢することが多々あるが(ホットケーキはメシじゃないだろ!)、凜々花の、あるいは茉莉花の思い出や経験になるなら、それもいいかと思う。
そんな2人の様子を眺めているのも、悪くはない。
ふと鍋敷きにしている新聞に目をやると、そこには学習塾のチラシがはみ出していた。
――塾か……
この冬休みがはじまる前のこと。
凜々花は友だちが通っているという学習塾のチラシを見ながら、ウンウン唸っていたことがあったのだ。
――体験無料!
――必ずぐんぐん伸びる
そのチラシには、そんな威勢のいい文句が太字でデカデカと踊っていた。
にらめっこしつつ、しばらく悩んではいた凜々花だったが、今回の冬季講習は見送った。
「行った方がいい気はするけれど、進学するのがいいのかどうか、決めきれないから」
参加をしなかった理由を、そう俺に言っていたことを思い出した。
凜々花自身の成績について、俺は特段の心配はしていない。
高校自体もそこそこのところへ進学したし、今の成績も特別優秀……とまでは言わないが、俺が口を挟むようなほどではなかった。
ただ進学か就職か、はたまたそれ以外があるのか、それについて決めるのは先送りにした。
それだけのことだ。
人によっては『早い方が絶対にいい』なんてのもあるだろうが、俺自身が何かを娘に押し付けるつもりはなかった。
何を選ぶにせよ、凜々花の人生だ。
遅かれ早かれ、自分で選べばいいことなのだ。
茉莉花ほどに、急いで決める必要もない。
急いで決める必要も、ないんだが……
――自分で選んで、決めるか……
フム、あえてここで持ち出してみるか?
「なあ、凜々花。
来年はどうするんだ? 塾。
今年の冬は、チラシだけもらってきたものの、見送ったというか、決まらなかったというか……」
「あー、それね。
うん、どうしようかな……」
凜々花はうつむいて、左手で加工用に持った椀の中身を、箸で突っつくようにほぐしている。
もちろん、そんなにほぐす必要はないだろう。
躾に厳しい家庭なら、ビシッと注意するところだ。
「時間てのは、あるようでないからな」
「それはまあね、わかっているんだけどー」
「ま、俺自身はどっちでもいいと思うがな。
それが進学であろうと、就職でも専門でもな。
就職してからだって、本気と熱意があれば大学に行くことだってできるさ。
逆に進学して合わずに、やめて就職する奴だって、もちろんいるだろうからな。
行ってみないと、やってみないと、わからないってことは多いからな。
ただな、タイミングや流れってのもあるぜ」




