名残の薔薇が咲き乱れる庭で……
京都の六条の路地奥にある常陸邸で、光輝は野分きで倒れた秋の草花の手入れをしていた。
「もう、そのへんで……お茶にしまへんか?」
妻の末子に声を掛けられ、光輝は庭から縁側にと向かう。この古い邸には相応しくない真っ赤な薔薇が座敷に生けられていた。
「あっ、山科のおば様が贈って下さったの。花に罪は有りませんもの」
不審そうな光輝の視線に気づき、末子は苦笑しながら説明する。
「だと思ったよ」
節約家の末子がわざわざ不似合いの薔薇を買うわけが無いと、光輝は納得して笑う。
昼でもほの暗い屋敷で、真っ赤な薔薇が咲き誇っている。
『あの人は、薔薇のように高貴な方だった……』
光輝は、夏の終わりの高く澄んだ空を見上げて、あの人が亡くなったのもこの頃だったと目を瞑った。
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「もう、そろそろ起きなさい」
ベッドで寝ている光輝に、薔子は声を掛ける。
「あと、もう少し……」
若い頃は眠たいものなのだと、薔子は寝返りをうった光輝の薄い筋肉がついた肩を、揺すって起こす。
「日が昇ってから、屋敷から帰したりしたら、私の恥になります」
三十路の未亡人が、十代の若い燕を通わせているなどという噂を立てられたくないと、薔子は容赦なく光輝を起こす。
「そんなの気にしなくても良いのに」
うう~んと、伸びをする若い背中に薔子は見惚れてしまう。朝日が一筋当たり、若竹のようにしなやかな背中を寝室の闇に浮かびあがらせる。
光輝は、年上の恋人が自分に見惚れているのを敏感に感じて、ふざけかかる。ベッドに引き倒し、キスをねだるが、昨夜の情熱的な薔子ではない。
「本当に、早く帰らないと! 大学に遅刻しますよ」
興醒めな事を言われて、光輝は不機嫌そうにベッドから立ち上がる。
「貴女が、もう、来ないで欲しいと言うなら、二度と屋敷には参りません」
若さとは、これほど傲慢なものなのか? 薔子は、その光輝の傲慢さすら愛しく思う。身仕度している光輝を背中から抱き締めた。
「私の立場も考えて下さい……ずっと、お逢いしたいからこそ、悪い噂が立たないよう、慎重に行動しないと」
ソッと耳元で言い聞かせる。薔子は、光輝の叔父の未亡人にあたる。この関係が世間に知られたら、身の置き場が無くなる程のスキャンダルが襲いかかるのは必定だ。だからこそ、二人の恋愛は燃え上がる。
光輝に甘い父親が大学の合格祝いに買い与えた赤いスポーツカーで立ち去った後、薔子はいつまでこの秘密が守れるだろうと溜め息をつく。
庭に見事に咲いている薔薇の花を愛でながら、物思いに耽っていたが、部屋を模様替えすることを思いついた。
「光輝を驚かせてやりましょう」
若い恋人の驚く顔を想像して、薔子は微笑んだ。
「光輝さん、近ごろ様子がおかしいですよ」
大学の食堂で、幼馴染みの惟光に訝しがられるが、光輝は無視してカレーライスを食べる。
「あんなに合コンを主宰していたのに、全くしなくなって。私は別に構いませんが、問い合わせが多くて困っています。それと、舞ちゃんと、由貴ちゃんと、香里奈ちゃんが、連絡してくれと……」
チロっと視線を上げた光輝に、面倒くさいからパスと言い放たれて、絶対に怪しいと確信を持つ。容姿端麗、頭脳明晰な光輝だが、女癖だけは悪かった。高校時代から、二股、三股などざらだったのだ。
「昼からの講義はサボるから、ノート宜しくな!」
お腹が大きくなったら眠くなったと、トレイの後片付けも惟光に任せて立ち去る。傲慢な光輝だが、いつもはこんな事はしない。何か追求されたくない事があるから、自分から逃げたのだと感じる。
『光輝様……何を隠していらっしゃるのですか?』
大学では、友だちとして接しろ! と命じられているが、惟光は生涯離れずお遣えしようと心に決めている。その自分に隠し事だなんて、百年早いと、トレイを持って立ち上がる。
「わぁ! まるで南国リゾートですね」
訪れた光輝が驚くのを、薔子は微笑みながらリビンクへと誘う。そこには白い蘭と観葉植物がジャングルのように生い茂っていた。籘の敷物の上には低い黒檀の彫刻が施してあるテーブルと、白い皮のソファーが置いてある。
「どう? お気に召した?」と、妖艶に微笑む薔子の横に座る。
「朝まで置いてあったヨーロッパのアンティーク家具は何処にやったのですか?」
呆気に取られている光輝の姿を見ただけで、忙しく模様替えさせた苦労が実った気がする。
「それより、こちらの方が気になりますね」
更紗を身に纏った薔子に、光輝は微笑み返す。エキゾチックな香の中で、夜は過ぎていった。
「ゆっくりと二人で過ごしたい」
年下の恋人の睦言は可愛く思うが、薔子は街が起き出す前に、屋敷から帰す。光輝とは血は繋がっていないが、同じ源姓を名乗っている引け目がある。夫が亡くなったのだから、旧姓に戻しても良いのだが、継子である秋子の為にそのままにしているのだ。
「秋子ちゃんが、光輝との関係を知ったら、軽蔑するでしょうね」
前妻の娘である秋子と薔子は、不思議と気が合った。夫が亡くなってからは、前妻の実家で暮らしているが、時々は会っている。
「本当はイタリアへ留学したいの! でも、お祖母様は反対なのよ」
歌の勉強なら、オペラの本場のイタリアへ留学した方が良いと薔子も思うが、まだ高校生では許されないだろうと笑う。薔子には子どもがいないが、秋子のことは娘として可愛がっている。前妻の祖父母もいつまでも元気だとは限らない。万が一の時は、引き取って育てる覚悟もある。
「だから、薔子さんも一緒にイタリアへ行きましょうよ!」
薔子は、イタリアの輝く空と、歴史を感じる建物を思い浮かべる。それは美術を学んだ薔子にはとても魅力的だが、未成年の秋子の保護者は祖父母なのだ。それに、今は若い恋人と熱愛中だ。
「もう少し、日本で勉強してからにしなさい」
そう言い聞かした時の秋子の不満そうな顔を思い出した薔子は、もう一度会ってみなくてはと溜め息をついた。世間知らずのお嬢さんが一人でヨーロッパに留学などしたら、ジゴロに身ぐるみ剥がされてしまう。それでは、亡くなった夫に申し訳ない気がするとまで考えて、その夫の甥と不適切な関係を結んでいるのにと、自分の行いの矛盾に苦笑する。
「何だか疲れる……」
教養高く、センスも良い薔子に憧れて、口説き落として恋人になったのだが、夜も更けてから訪問しろだとか、朝も日が昇る前に帰れとか、若い光輝は少し気楽な恋愛が懐かしくなった。しかし、そんな時に父親に関係がバレた。
「光輝、少し話がある」
日頃は、幼い時に母親を亡くした光輝に甘い父親だが、今日は厳しい顔をしている。書斎に呼び出され、薔子との関係を清算するようにと叱られた。
「お前の従妹の秋子の義理の母にもあたるのだぞ!」
叔父は亡くなったのだから関係ないとの反論は、義理の母親という言葉で封じられた。薔子が秋子を可愛がっているのは、光輝も承知している。
「真面目に思っているのか?」と問い詰められると、自分と四つしか年下でしかない秋子の父親になる覚悟などありはしない。
「わかりました」と言った時から、光輝の薔子への傾倒ぶりに拍車が掛かった。
反対されたり、障害がある程、恋は燃えあがるのだ。それは、薔子も同じだった。親戚にバレた面目の無さと、亡き夫への申し訳なさを感じるからこそ、若き光輝との恋にのめり込む。
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「光輝様、夏休みなのに別荘にも行かれないのですか?」
惟光にまで嫌味を言われるが、ふと、元気が無さそうなのに気づいた。
「何かあったのか?」と質問したが、何もと誤魔化す。惟光が自分に秘密を持つとは! 光輝は調べて、惟光の母親が入院していることを突き止める。惟光の母親は、身体の弱かった光輝の母親の代わりに育ててくれた大事な乳母だ。
「何故、入院していると、言わなかったのだ!」と惟光を叱りつけ、お見舞いに行く。
「まぁ、お坊っちゃま! このような場所にまで……もう、思い残すことはございません」
光輝は、さめざめと泣く乳母に呆れる。
「胃潰瘍では死にはしないと思うぞ。それに、ころころと肥っているではないか? 暴飲暴食を控えて、長生きしておくれ」
乳母は涙を拭いて「本当に胃潰瘍なの?」と息子に尋ねる。
「何度も、そう言っただろ! お医者さんも、胃潰瘍だと言ってるのに、何故信じないんだ」
お坊っちゃま呼ばわりには辟易したが、乳母と昔話をして帰る。
「光輝様、お見舞い、ありがとうございました」
簡単な胃潰瘍なのに、胃ガンだと思いこんで死ぬのだと騒いでいた母親が、元気になったのに感謝する。車で屋敷まで送ろうとするが、結構だと断られる。
『しまった! この病院の場所は危険ゾーンだった』
この二ヶ月ほど、女あさりをしなかったので油断した惟光だ。
「一人?」
ふらりと入ったショットバーで、逆ナンされた。いつも付き合う女のレベルではないが、可愛い顔をしている。
「一人だと良いことがあるのかな?」
数杯、乾杯したあと、夕子と名乗った女にアパートにお持ち帰りされた。
「これは、玄関か?」
靴が散乱している場所で靴を脱ぐのを躊躇うが「なぁに? それ、冗談なの?」と笑い飛ばされる。光輝は履いている靴で、ハイヒールやデッキシューズなどを脇に寄せて、どうにかスペースをあけ、脱いで部屋に上がる。
「まるでカオスだな!」
小さなワンルームマンションには物が溢れていた。
「片付けるの苦手なの……そこら辺に座って」
恥じる気も無さそうに、ぺろっと舌を出す夕子に、何故かそそられた。
「そんなことよりも……」
コーヒーでも出そうとしている夕子を抱き締めると、ベッドになだれれ込んだ。
「若いのに……手慣れてるのね」
そう言う夕子も二十歳をこえてそうには無い。挑発的な目をキスでとじさせる。
アパレル系の専門学校に通っている夕子の部屋に、光輝は居着いた。狭いし、片付いては無いが、意外と居心地が良い。しかし、隣室のテレビの音が聞こえるのには驚いた。
「もしかして……」さっきのベッドでのいとなみも、隣室に聞こえていたのかと、光輝の方が赤面する。
「だから、テレビの音量が大きいのかも……」
昼まで、ベッドでだらだら過ごしながら、キスをしたりしていると、薔子との交際は何だったのだろうと思う。
お腹が空くと簡単なスクランブルエッグを夕子は作り、フォークで食べさせあっては笑い転げる。
「恋愛って、楽しいものだったんだなぁ」
薔子の前では常に背伸びして過ごしていたが、夕子とは自然体でいられる。今まで付き合って来た育ちの良い、自分との結婚を狙っている女とも違って、何も要求しないのが気に入った。
「何? 恋愛って楽しいものに決まってるじゃないの?」
二人で、くすくす笑いながらキスをする。
「今夜は、美味しい物を食べに行こう!」
気楽な暮らしは楽しいが、流石にスクランブルエッグには飽きたと、光輝は二人でレストランに繰り出した。
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「何故、そんなつまらない女と……」
光輝が訪ねて来なくなってから二週間が過ぎたが、プライドの高い薔子は、自ら電話やメールなどはしないで、悶々としていた。今夜は、秋子の誕生日なので銀座まで出かけたのだ。
秋子をタクシーで帰した後、昔通っていたバーでカクテルでも飲んで帰ろうかと思って歩き始めたら、通りの向こうに腕を組んで歩く光輝を見つけたのだ。若い女は、ブランドの粗悪な偽物を着て、派手な化粧を施している。
「きゃははは……」
笑い声に背を向けて、薔子は屋敷へ帰った。
庭には咲き乱れた薔薇が、夜風に揺れていた。薔子は、散り遅れた薔薇が、自分と重なって見えた。
「見苦しい!」
鋏を取り出して、薔薇を滅茶苦茶に伐っていく。手に棘が刺さろうが、顔に枝が触れて血が流れようが構わない。
「私が慕っているのに、あんな女と!」
フッと、意識が遠退いて、薔子は薔薇の繁みに倒れ込んだ。
「あれは薔子さんだったのか?」
夕子のアパートに帰った光輝は、銀座の通りの向こうに薔子が居たような気がしたと、首を傾げる。
『惟光の母親を見舞うから、今日は行けない』と連絡してから、二週間も放置していたのだ。女連れを見られて気まずいのもあるが、自分がどうしたいのかもわからないから悩む。
高級なシャンパンを何杯も飲んで、銀座では大笑いしたり、泣き出したりと騒いでいた夕子は、アパートに着くなりベッドに倒れ込んで寝ている。高いレストランに行くからと、何時もより派手な化粧をしていたが、それもはげて、年相応な寝顔が可愛い。
「夕子も嫌いでは無いが……」このままつき合うか? と聞かれたら、首を横に振るしか無い。あまりにも育った生活環境が違いすぎて、高級なレストランでも落ち着かない態度が目についた。
「かといって、薔子さんとは……」
ふと、エキゾチックな香りが小さなワンルームマンションに満ちた。
『そんなつまらない女と、くらべないで下さい……』
光輝は、ゾクッと寒気がして部屋を見渡すが、ベッドには夕子が寝ているだけだ。
「うっ……苦しい!」
突然、寝ていた夕子が苦しみだした。飲み過ぎたのかと、吐かそうとするが、ぐったりと意識も無くなる。
光輝は、救急車を呼び、惟光にも連絡をする。
「夕子が急に苦しみだした! 救急車を呼んだが、何処の病院へ運んで貰ったら良い?」
惟光は、夜中に突然の連絡が来ても、てきぱきと答える。光輝を信じてはいるが、夕子とやらが危険な薬物を常用しているかも知れないのだ。源家の名誉を護らなくてはいけない。
「セント・アウグスティヌス病院へ搬送させて下さい! こちらから、受け入れ要請の連絡はしておきます」
超一流の医者が常駐しているセレブ御用達の総合病院の名前を聞いた救急隊員は、こんなワンルームマンションの住人を受け入れてくれるのか疑問に思ったが、光輝の有無を言わさぬ態度で搬送する。
「連絡は受けています!」
医者が緊急時搬入口まで出迎え、夕子を引き受けてくれた。惟光も駆けつけて、光輝を連れて帰ろうとする。
「後は、医者に任せましょう。急性アルコール中毒なら、吐かせて、点滴すればなおりますよ」
秘密厳守が売りの病院だが、入院患者や見舞い客の目についてはいけないと、治療室の前のベンチに座り込んでいる光輝の腕を取って立たす。
「あっ、またこの香りだ!」
治療室の中で、夕子の容態が激変したと騒いでいる。惟光は、このまま死の場に立ち会わせてはいけないと、呆然としている光輝を強引に病院の外へと連れ出した。
「薔子さんの屋敷へ向かってくれ!」
車に乗った途端に、他の女の家へ行けと命じられて、流石の惟光もキレる。
「嫌です! 光輝様、夕子さんは生死の境をさ迷っているのですよ!」
「ならば、降りる!」と、光輝はドアを開けようとする。
結局、惟光は折れて、薔子の屋敷の前に車を乱暴に止めた。
「薔子さん!」ピシャリと閉じられた門扉を、光輝は力まかせに殴りながら叫ぶ。惟光は、腹を立てて運転席に座っていたが、驚いて飛び出すと、光輝を止める。
「光輝様、もう夜も更けてますよ。他の家にも迷惑です」
そう諭すが、光輝はあろうことか、門扉をよじ登って屋敷に侵入する。いくら親戚だからとはいえ、夜中に不法侵入はまずいだろうと惟光は驚いた。しかし、このまま放置は出来ないと、門扉をよじ登るが、屋敷の窓を石で割ろうとしているのを見て、驚きバランスを崩して転がり落ちる。
「ゲッ! ハサミ! 危なかった」
惟光は、目の前のハサミから、うしろずさる。目を上げると、庭の薔薇は、無惨な姿に刈り込まれていた。
「誰が、こんなことを……あっ、光輝様! そんなことをしては駄目ですよ!」
ガシャン! と大きな音でお屋敷街に明かりが次々と灯ってきく。
警備会社の警告音も響き、惟光は『あちゃあ!』と頭を抱える。光輝の世話を命じている父親から大目玉を食うのだろうが、今はそれどころではない。掃き出し窓から侵入した光輝の後を追う。
「何故、何故……いくら洗っても消毒薬の匂いが消えないわ」
薔子が手首から血を流しながら、ザーザーとシャワーの流れる水の下で立ち尽くしていた。
「薔子さん……もう、良いのですよ」
光輝は、手に持っているナイフを取り上げると、バスタオルで薔子を抱き留める。
「病院へ連絡してくれ!」と言われる前に、惟光は電話していた。薔子の傷をタオルで縛り、バスローブを着せてセント・アウグスティヌス病院へと帰る。
「傷は深くはありません。しかし、暫くは入院して治療した方が良いでしょう」
精神科で療養することになった薔子とは、面会謝絶で会えなかったが、夕子は元気に退院した。
「光輝が源財閥の御曹子だと知って、声をかけたの。でも、好きになったから、部屋に連れて帰ったのも本当よ……」
口封じに、夕子は念願のパリ留学を手に入れて去っていった。
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秋になり後期学期が始まったが、光輝は登校もせず、元気がない。光輝に甘い父親は、夕子がそんなに好きなら、パリに留学しても良いと言い出す始末だ。
「まさか、夕子は好きでしたが、一生を共にする相手ではありませんよ」
なら、やはり薔子の件かと、父親は溜め息をつく。何時までも秘密にはしておけない。
「薔子さんは、秋子のイタリア留学に付いて行く事になった」
この前の夜の騒ぎは、夫を亡くして自殺未遂したと誤魔化され、転地療養した方が良いと、イタリア留学の付き添いが決まったのだ。
光輝は、夕子の具合が悪くなったのは、何か薔子と関係があったのではと、薄気味が悪い気がして、面会謝絶のまま放置していた。しかし、イタリアへ行くと聞いて、会っておきたくなった。
「こら! 光輝!」
折角、スキャンダルを揉み消したのにと父親は怒るが、一度だけと頼まれると弱い。
あれだけ刈り込んだ薔薇なのに、秋になったら花を見事に咲かせていると、薔子は柔らかな花弁に触れて、枯れなくて良かったと微笑む。あの狂乱の夜の報いは、自分だけが背負えば良いと考えるようになったのだ。
「光源氏に恋して、夕顔を呪い殺す六条御息所みたいな真似をするところだったわ……」
夕子という女が、無事だったと胸を撫で下ろし、口封じのパリ留学を喜んで受けたと聞いて、複雑な気持ちになった。でも、それで良かったのだと苦笑する。
「薔子さん……」
薔薇の咲き誇る庭を優雅に愛でている姿を見ると、やはり美しい人だと光輝は感嘆する。しかし、薔子は、若い恋人ではなく、親戚の訪問者との別れを惜しむ態度を崩さない。引かれると、追いかけたくなるのは男の性なのか、必死でひき止める。
「イタリアへなんか行かないで下さい!」
追いすがる光輝に、薔子も心が乱れる。
「もう、私たちは終わったのよ」と口には出すが、こうして目の前に光輝がいると、胸はざわめく。
「嘘をついても、私にはわかりますよ」
光輝は、薔子を抱き締めた。
「薔子さん! 一緒にイタリアに行くと約束してくれたじゃない! 光輝さんなんて、大嫌い!」
何を持って行くか、相談に乗って貰おうと屋敷を訪れた秋子は、門が開いていたので庭へ回って来たのだ。従兄の光輝が、薔子と抱き合っている。二人がつき合っているということは噂は本当だったのだ!
「秋子さん! 違うのよ!」
母親の顔になって秋子を追いかけて行った薔子に取り残された光輝は、一つの恋が終わったのだと悟った。
目の前の咲き誇る薔薇を苦々しく思い、一輪手折る。
「痛い……薔薇にも意地があるのか?」
指から出た血を舐めて、拾得物である薔薇を胸のポケットに差すと、屋敷から立ち去った。二度と、薔薇の咲き誇る庭には来るつもりはなかった。
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五年後、大学を卒業した光輝は、父の会社に就職し、頭の固い兄と喧嘩ばかりしながら過ごしていた。
「秋子……コンクールで賞を貰ったと聞いているよ。おめでとう」
突然、訪ねていた従姉妹にイタリア留学の成果がでたと祝福していたが、暗い顔なのが気になる。
「光輝さん、薔子さんと会ってあげて! あの頃は、私は未だ子どもだったから、光輝さんと薔子さんの仲を許せなかったの。でも……お願いよ!」
泣き出した秋子を宥めて、事情を尋ねた光輝は、二度と訪れることは無いだろうと思っていた屋敷を訪問した。
「どなたかしら?」
相変わらず、薔薇が咲き誇る庭で、車椅子に座った薔子が声を掛ける。
「薔子さん、ご無沙汰しております。私です」
脳腫瘍で、視力をかなり失った薔子は、ソッと光輝の顔を撫でて微笑む。
「まぁ、前よりも男前になったわね。目があまり見えないのが残念だわ」
命の刻限を告げられても、凛とした態度を崩さない薔子を、光輝は心より尊敬した。
「失う物があると、得る物もあるのね。前なら、心静かに貴方に会えなかったでしょう。でも、一つだけ約束して下さいね」
そんな頼みを、光輝が断れるわけがなかった。
「ええ、お約束します」
「安心しましたわ。これで、夫の元へ心おきなく参れます」
目が見えなくなって、薔薇の香りもより鮮明になったと静かに微笑んでいた薔子は、秋の訪れを待たずに亡くなった。
葬儀では、子どもとして薔子を立派に弔った秋子だったが、終わると光輝の胸で泣きじゃくった。光輝は、素晴らしい女性に成長した秋子に心が騒いだが、薔子との最後の約束を守って手を出さず、年長の従兄としての態度で接した。
「それにしても、あんなにもきつく約束させなくても良いでは無いですか……酷い人だ……」
名残の薔薇が咲き乱れる庭で、美しい初めての恋人に怨みを呟いた。
『秋子には幸せになって欲しいの。だから、絶対に手を出しては駄目よ。貴方には相応しい相手が見つかるわ』
プレイボーイの名前を欲しいままにしている光輝は、この後、運命の出逢いをするのだが、逝ってしまった恋人との思い出の庭で立ち尽くすのみだった。
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「光輝さん? お茶が冷めてしまいますよ」
妻の末子に声を掛けられ、光輝は美味しいお茶を飲む。お茶も美味しいが、その器は国宝物だ。
『この茶器で、お茶を飲むとはね……』
光輝は、普段使いにする勇気が無いと何度か断ったが、末子は夫に使って欲しいと自分の意思を曲げない。
座敷で泣き出した赤ん坊をあやしている末子に、光輝は目を細めるが、真っ赤な薔薇が目に飛び込む。
この選択を薔子さんが知ったらどう思うだろうかと、少し苦笑する。
『しあわせになりなさい……』
ふと、薔薇の薫りと邸に染み付いた伽羅の薫りが混ざり合いエキゾチックな薔子の香水に似た薫りがした。
「他の女の方を考えてはるやろ!」
赤ん坊を抱いて縁側に来た末子が、キュッと光輝の腕を抓る。
「痛い!」
こんな人気の無い屋敷で暮らしているが、末子は意外と敏感だ。この幸福を手放したくない光輝は、野分けで倒れた桔梗や女郎花の枝に添え木を当てたりと、ご機嫌取りに励む。