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末摘花の庭  作者: 梨香
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末摘花の庭

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


「ここに人が住んでいるのか?」


 朽ちて傾いた門を見て、光輝は呟いた。京都の六条の路地奥に佇んでいる屋敷は、人の住んでいる気配を感じない。


 敷地だけは、旧宮家と称しているだけあり広そうだ。しかし、昔は白壁に屋根を置いた立派な壁だった形跡しか残ってない残骸から、中の荒れ果てた庭を眺めて、無駄足だったかと溜め息をつく。


 その荒れ果てた庭で、ガサガサと音がした。


「野良犬でもいるのか?」と光輝が、崩れた壁の残骸から顔を覗かすと、古びた麦藁帽子を被った女が、手拭いで額の汗を拭き「何か御用ですか?」と冷たく言い放った。


「私は源と申す者です。常陸様を訪ねて来たのですが、お取り継ぎをお願いします」


 こんな荒れ果てた家でも、旧宮家だけあって使用人を雇っているのだろうと、光輝は丁寧に取り次ぎを頼んだ。


「お引き取り下さい。こちらには用はございません」


 無礼な使用人は、チラリと光輝を見ると、草引きに戻る。



「ご主人様に取り継いで頂きたいのですが」


 カチンときた光輝は、崩れた壁を跨いで庭に入る。無礼な使用人の後ろには少し草が抜かれた庭と、引き抜かれた草の山があった。


「聞こえへんかったんどすか? お帰り下さいと申しましたやろ?」


 軍手をつけた手を止めて、すくっと立ったモンペ姿の女は、背が光輝の胸辺りまでしかないのに高圧的な態度だった。



『本人だ!』電話で何度も断られた口調で、使用人ではなく常陸末子だと気づいた。京都の女はこれだから嫌いだと、光輝は排他的な態度に苛立ちを隠せない。


「貴女が常陸様なのですね。失礼を致しました」


 しかし、今回は光輝の願いを聞き届けて貰いたくて、東京からわざわざ出向いてきたのだ。グッと我慢して礼儀正しい態度でお辞儀をする。


「ほんまに失礼な御方や。勝手に庭に入って来はるなんて! お話は、電話でお断りさせて頂きましたやろ」


 下手に出たら、無礼な女はさっさと帰れと言い出した。光輝は、大きく深呼吸して怒りをおさめる。


「電話では話にならないから、こうして出向いて来たのです。お話だけでも、聞いて頂けませんでしょうか?」


 末子は、無礼な男をじろじろと睨み付けた。慇懃無礼とは、この男の為にある言葉だと内心で毒づく。それに、まだ若そうなのに高価そうなスーツを、普段着のように着こなしている。


『金持の坊っちゃんと話している暇なんかあらへん! まぁ、でも目の保養にはなるなぁ』


 傲慢な態度が鼻につくが、顔立ちはとても美しい。その美しさに免じて、警察には電話をしないことにする。


「何度も申し上げましたが、あの茶器は父の遺品です。どなたさんにも譲る気持ちはありしまへん。遠くからお出でになり申し訳ありまへんが、お引き取り願います」


 慇懃無礼なら京都人も負けてはない。麦藁帽子を取って頭を下げる。光輝は、麦藁帽子を取った末子の汗と泥にまみれた顔に衝撃を受けた。


『こんな不細工な女を見たことがない!』


 髪の毛は汗にまみれてぐしゃぐしゃだし、眉も薄いのに何故か真ん中で繋がっている。平安時代なら美人と言われたのだろうか? 一重まぶたの糸引眼だ。それより一番の目立っているのは、女にしては異様に長い鼻だ。しかも、鼻の先にはメンチョが赤く腫れている。


「また、日を改めて参ります。これは、本日の突然の訪問のお詫びに」


 末子が断る隙も与えず、手に東京土産の羊羮を押し付けて光輝は立ち去った。




「光輝様、如何でしたか?」


 奥まった路地を抜けた道に、黒塗りの高級車が止まっている。当然のようにドアを開けて貰い、光輝は後部座席に乗り込む。黙ったまま、顎を少し上げて出車を促す。


 運転手役を引き受けた森惟光は、何代も源家に遣えている部下であると同時に幼馴染みでもある。黙っているが、何か様子が変だと首を捻る。


「プッ!」


 突然、光輝が吹き出したので、惟光は何事だろうと不審に思うが、余計な事は口を挟んだりしない。


「あんな女がいるだなんて……それに、今どきモンペなんて!」


 容姿端麗、頭脳明晰、その上、家柄も良く、金持ちの御曹司に生まれついた光輝の周りには、常に恋人、そして妻の座を狙う女達が取りまいている。容姿端麗な女達の最新のファッションに身を包んだ姿しか見慣れていない光輝は、先ほど見た常陸末子の服装と顔立ちを思い出して笑いが込み上げてきたのだ。




「少しぐらいの不細工な女なら忘れてしまえるが、彼処までくると却って忘れ難いものだなぁ」


 惟光は、また悪い癖が出たと溜め息をつく。何もかも揃った光輝だが、一つ欠点がある。女癖が悪いのだ。


「惟光、何か言ったか?」


 溜め息を聞き咎められて、惟光は「なんでもございません」と首を横に振る。



「少し京都に滞在しようと思う。ホテルを手配してくれ」


 日帰りの予定だったので、荷物も何も持ってきてはいない。しかし、そんな事は問題では無いのだ。惟光は、光輝の服など一時間も有れば統べて手配できる。


「あのう、大事な会議が……」


 冷たい視線を背中に受けて、惟光は首を竦める。光輝は、自分の決断に反対されることに慣れてない。それに、専務の兄とは犬猿の仲なのだ。無能な兄との確執に疲れて、茶器を求めに京都までやってきたのだ。


「茶器を手に入れるまでは、東京へは帰らない」


「ゲゲゲ……マジですか?」と、幼馴染みの顔に戻って心配する惟光に、さっさとホテルに行けと命じる。


 この時の光輝は、銀座の美術商で垣間見た茶器に一目惚れして、無能な兄への反抗心から京都に滞在することにしたに過ぎなかった。それが、運命を変える出逢いだとは思いもよらなかった。



*************************



「また来はったんどすか?」


 相変わらず、麦藁帽子を被って草引きをしていた末子は、目の前の高級な靴を見て顔を上げた。しかし、小柄な身体には思えぬ素早さで立ち去ると、奥のこれまた朽ち果てかけている屋敷の縁側から光輝が置いていった羊羮の紙袋を持って来た。


「これ持って、お帰りやす!」


 呆気に取られた光輝だが、もちろん受け取ったりはしない。


「あの茶器を譲って下さるまで、毎日お願いに参ります」


 そう宣言すると、くるりと背を向けて去る。


「毎日来られても売ったりはしまへん! 二度と来んといて! 羊羮、持って帰って下さい」


 後ろから追いかけられ、腕をつかまれる。


「一度、渡した物を、引き取る気はありません。無用なら、お捨て下さい」


 そう傲慢に言いきった光輝は、ガツンと木に立て掛けてあった庭箒で頭を殴られる。


「何をするのですか!」父親にも、仲の良くない兄にすら殴られたことが無い光輝は、本当に驚いた。顔を真っ赤にした末子が、細い目を見開いて怒っている。


「食べ物を捨てるやなんて、簡単に言う男はんは嫌いや! この羊羮はわてが大事に食べてあげます。そんな男に大事な茶器を譲るわけがありまへん! 二度と家に来んといて下さい」


 傲慢な光輝だが、素直に言葉が心に落ちた。


「失礼しました。私の心得違いです」


 頭を下げられると、末子も箒で頭を殴ったのはまずかったかもと反省する。そんな気持ちを読み取った光輝は、ぐんぐん攻めていく。恋愛のテクニックは、取引にも通じる。


「あっ、頭がズキズキする」と大袈裟に頭を抱えて座り込む。


「えっ、大丈夫ですか? ありゃ、これは大変や! たんこぶができてるわぁ。すんまへん、ちょっと此方に……」




 心配そうに、手を引いて縁側に座らせる。またしても、素早く昼でも暗い屋敷の中に消えると、氷嚢を持って帰ってくる。


「これで冷やしてみて下さい。なんやったら、病院へでも?」


 おろおろしている末子の顔は、薄い眉毛が下がって本当に笑える。昨日の鼻先のメンチョが、より赤く膨らんでいるのを見ていると吹き出しそうになる。それを必死で堪えている光輝の顔が、痛みを我慢しているように見えて、末子は心配する。


「少し、ここで休ませて頂けますか?」


 普段は知らない人を屋敷に入れたりしない末子だが、自分の短気で殴り付けた弱味もある。


「そんな軒先ではなく、こちらへ」と、座敷へ通す。




 古びた屋敷だが、数少ない調度品は流石に見事だと、光輝は感嘆する。


 少し古びた座蒲団に座り、頭を冷していると、麦藁帽子を脱ぎ、顔を洗い、髪をとかした末子が、手土産の羊羮とお茶を持ってきた。庭で見た時よりは、マシだが、不細工さは変わりない。


 しかし、羊羮をのせた小皿を差し出す手の優雅な動きに、光輝は見惚れる。


「お持たせで、悪うございますが……」


 そして、目の前に置かれた小振りの茶器に、ハッと息を止める。淡い青色の茶器には、5㎜ほどの金の模様が飛んでいる。


「これを普段に使われているのですか!」


 光輝が銀座の美術商で一目惚れした茶器は、平安時代に遣唐使が持ちかえった物だ。ひび割れて、それを悲しんだ帝が唐へ同じ物をと願ったのだが、今の職人では無理だと金継ぎをされて返されたという曰くのある品だ。


「器は使うもんやと、父が申しておりました。貴方がこの器を手に入れたとしても、棚に飾って見せびらかすだけではおへんか? そんなんは、他の器でお願いします」


 懇意の美術商に頼まれて、展示会に出したのが厄介事の始まりだと、末子は溜め息をつく。しかし、少しずつ蔵の物を売っての筍生活をしているので、是非と言われて渋々承知せざるをえなかったのだ。



挿絵(By みてみん)



「遅かったですねぇ」と、惟光は心配そうに声をかける。


 光輝は、あの歴史的な茶器でお茶を出され、圧倒されて引き上げて来たのだ。 


「ハッ! 末摘花にやられた!」


 車に乗り込んで、まんまと追い払われたと光輝は、腹を立てる。こうなったら、後には退けない。




 ホテルには、パソコンのメールも電話も無視する光輝に業を煮やさした兄から、メッセージが山ほど届いていたが、全て見ずにゴミ箱に捨てる。


「自分を敵視するクセに、居ないと困るだなんて!」


 普段なら、そう毒づく光輝だが、今はあの茶器を手に入れる方法は無いか? それしか眼中に無い。


「惟光、庭仕事の服と道具を用意しろ。あっ、お前の分もだぞ」


 何を考えておられるのかと、惟光は不審そうな顔をしたが、さっさと行ってこいと命じられて、ガーデニング用の服と道具を買ってきた。



*************************



「えっ、変わった格好どすなぁ?」


 現れた光輝の格好を見て、末子はプッと吹き出した。ツィードのニッカポッカなど何処で売っていたのだろうと笑う。


『初めて笑顔を見せた! 狙いどおりだ』と内心でほくそ笑むが、惟光を大袈裟に叱る。


「惟光! 笑われたではないか!」


 叱られた惟光も、ニッカポッカに鳥打ち帽という日本ではお目にかかれない服装だ。


「いやぁ、英国紳士が庭仕事をする服装を調べたのですが……」


 庭仕事と聞いて、末子は驚く。


「まさか、草引きを手伝ったら、茶器が手に入ると思われたんどすか? おあいにく様どしたなぁ、お引き取り下さい」


 しかし、光輝は、このまま帰ったのでは、ただ恥をかいただけで終ってしまうと引き下がらない。


「そんな賎しい考えなど持っていませんよ。末子さんが庭仕事ばかりで、お話を聞いて下さらないから、お手伝いしようと考えたのです。こいつは、私の幼馴染みの森惟光と言います。何でも言いつけてやって下さい」


『えっ! 私が草引きですか?』と惟光は驚いたが、光輝も草を引き出したので、渋々従う。


「ちょっと! それは、雑草ではありません。夏には綺麗な花が咲くのです。その花で布も染められるのですよ」


 都会育ちの二人は、末子に叱られながら、草引きをする。





「惟光! マッサージを予約しろ!」


 ぼろぼろになった光輝に、惟光も馴れない草引きで疲れきっているので返事もしない。


「なぁ、惟光も一緒にマッサージをしようよ」子どもの頃の口調になって、甘えてきた光輝に、仕方ないなぁと溜め息をつく。


 二人で並んで、疲れた筋肉を解して貰う。


「いつまで続くのか?」と思いながら、惟光は眠りに落ちた。



*************************


「えっ、今日も草引きですか?」


 驚く惟光に、昼の弁当の手配を言いつけて、今日は光輝一人で朝から常陸邸へ向かう。


「まぁ、朝っぱらから!」


 鼻の先のメンチョは潰れたみたいだと、赤い跡になっているのが気になる。末子がゴミ袋を取りに屋敷の中に入った隙を狙って、惟光にメンチョの薬を買ってくるようにとメールする。着信メールのランプは無視して、草を引き始める。



「やはり、男手があると早いどすなぁ」


 庭の3分の2は綺麗になったと末子は喜ぶ。しかし、光輝は、なるべく末子の顔を見ないようにしている。鼻の先に惟光が買ってきた軟膏をつけ絆創膏を張っているので、笑ってしまいそうだからだ。


 惟光に、買って来させた有名料亭のお弁当を、末子と光輝は食べる。


「やはり、紅葉さんのお弁当は、美味しゅうおすなぁ」


 紅葉さん? と、光輝は不思議な顔をする。


「そんな料亭の名前では無かったと思いますが?」


 はし袋の名前『竜田』とは違うと、首を捻る。


「あの『千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは』に引っ掛けて、紅葉さんと父と呼んでおりましたんや」


 悲しげに眉毛が下がる。何故か、光輝の心が痛んだ。


「末子さんには、父上以外にお身内は?」


 その質問で、亡き父を忍んでいた末子は、キッと心のバリアを引き上げた。


『この人は、親切そうに草引きを手伝ったり、お弁当をご馳走してくれはるけど、父の遺品を狙ってるんや!』


 禿げ鷹のような身内から、必死で屋敷を守っている末子なのだ。光輝も、その豹変振りで、何か問題があるのだと察した。



***************************



「惟光、常陸家の親戚関係を調査してくれ」


 スポーツで鍛えた光輝は、段々と草引きに慣れてきた。それどころか、自分に色目を使わない不細工な女との時間が楽しくなってきたのだ。


「本当に、そろそろ東京へお帰りにならないと、会長からも電話が……」


 睨まれて黙るが、このままでは大変な事になると惟光は心配する。





「何を考えてはるんやろ?」


 末子も、茶器狙いだとはわかっているものの、若い美男子が毎日家に草引きに押し掛けられたら、心が落ち着かない。しかし、寝室の三面鏡で自分の顔を眺め、パタンと扉を閉じる。大学を出た頃には、何件かお見合いの話もあったのだ。


『いくら旧宮家の姫君と言われても、あの容貌では……ほんまに源氏物語の末摘花みたいどすなぁ』と、仲人は面子を潰され、家に立ち寄らなくなり、縁遠くなった。


 幼い頃から、容姿についてはコンプレックスを抱いて育った末子だが、父だけは『見目より心』と、下手な慰めなどせず、真っ直ぐな愛情をくれた。その父の世話をしていているうちに、婚期は末子の上を通りすぎた。


「お前の性根は真っ直ぐや。きっとええ事があるはずや」と言い残して亡くなった父に、末子は苦笑する。自分も世間知らずだが、父はもっと世間知らずだったのだ。


「お父様は、あの人とは、真反対の人やったなぁ」


 光輝は、名前の通り光り輝いていると、溜め息をつく。昼でも暗い屋敷で、そっと生きていた父や自分とは別世界の住民だ。末子は、明日も来るのか? 自分は来て欲しいと望んでいるのか? と思い悩みながらも、朝からずっと働いていたので、すぐに眠りについた。



*************************


「まさか、深草の少将みたいに百日通うつもりではないやろなぁ?」


 そう言いつつも、一人ぼっちで草引きをするよりは、光輝がいる方が楽しいと感じている自分に気づいて動揺する。その動揺を誤魔化そうと、いつも以上に草引きに勤しむ。


『まるで野生の動物を手懐ける気分だ』と、少し近づいては、警戒して逃げられる、その繰り返しだと苦笑する。


「百日通えば、考え直して頂けますか?」


 末子は、天下の美女の小野小町に恋した深草の少将が百日満願の前の日に亡くなったのを不吉に感じ、首を横に振る。


「あの茶器は、屋敷や調度品の全てを売り払っても、手元に残しておくつもりどす。せやから、こんな事をされても困ります」


 見るだけでも気持ちが明るくなる男が来なくなるのは寂しいが、このまま引きずるのも良くないと、末子は何十回目かの断りを口にする。




「こんにちは! 末子さん、いてはりますか?」


 門で呼ぶ声がするが、末子は頑な表情で無視して草引きを続ける。光輝は、出なくて良いのですか? と小さな声で尋ねる。


「ええんです……」と答えたものの、不審そうな光輝の目に負けて、立ち上がる。


「ああ、そないな所にいはったんやなぁ。いはるなら、早く返事をしてくれはったらええのに」


 大胆な柄の着物を着た中年の女は、未だ五月なのに暑いなぁと、末子の許しも得ずに玄関から屋敷にあがる。



「相変わらず辛気くさい家やなぁ。こんな不便な家に一人で住むなんて、可哀想やわ。あの話、考えてくれはった?」


 庭で草引きを続けていた光輝にも内容は筒抜けの大声だ。末子の返事は聞こえなくても、中年の女の声だけでわかる。



『マンションを建てようと、説得しているようだが、頑固な末子さんが、承諾するわけがない』


 どんどん説得というより、恫喝に近づいてきた。


「あんたのお父さんと、そっくりやわ! 時代に取り残されて、野垂れ死にしても、知りまへんで!」


 光輝は、いつも自分に対するように、追い返さない末子にイライラしていたが、父親を貶されては黙っていない。


「父に似ていて、幸せやと思うてます。どうぞ、私のことはほっておいて下さい」


「目上の者に対して、えらい礼儀知らずですなぁ。お父さんも、草葉の陰で泣いてはりますわ」と、憎まれ口を叩いて屋敷を立ち去った。




 しかし、末子は見送りに出た玄関に茫然と座ったままだ。


「塩でも撒いたら良いのですよ」と、光輝は訝しく思って声をかける。


「山科のおば様は、父の従姉妹になるんです。あないに急ぎはるには理由があるんやなかろうか? この屋敷をマンションにすれば、なにがしの謝礼が貰えるから必死なんやろけど……」


 光輝には理解不能だと肩を竦める。


「余りセンスは良くないが、あの着物は高価な物でしょう」


 しかし、末子は首を横に振った。


「あれは、前からの着物です。それに履物が……古くなったのを履くようなおば様では無いのです」



*************************


 世間知らず末子が、騙されるのを黙って見ている気にはならない。光輝は、山科のおばさんの調査も惟光に命じる。


「前は羽振りが良かったみたいですが、息子の代になって家が傾いていますね。常陸邸をマンションにして、その口添えの謝礼を貰おうとしているのでしょう」


 末子が金銭的に困れば、あの茶器が手に入りやすくなるのだが、光輝は全くそんなことは考えなかった。惟光に命じて、マンションを建てようとしている建設業者に圧力を掛け、白紙撤回させる。その上、山科の馬鹿息子の職まで世話させる。




「光輝様……本当に東京へ帰らないと……」


 毎日、末子と庭の掃除をしているのを訝しく思う。いくら茶器に惚れたからといって、今までの光輝とは余りに掛け離れた行動だ。常陸邸に通いはじめて、二週間が過ぎた時、業を煮やさした兄が京都に遣ってきた。


「不細工な女に入れ揚げていると聞いたぞ。東京にも何人も恋人がいるだろう? さっさと帰れと、お父さんも言っている」


 父親が光輝を甘やかすのが前から気に入らなかった兄は、これ幸いに文句を言いに来たのだ。


「お兄さん、京都までご足労でしたね。私は、当分帰るつもりはありませんので、これをお父さんにお渡し下さい」


 仕事はどうするのだ! と叱りつけようとしていた兄は、差し出された辞表を見て驚く。


「お前は、何を考えているのだ!」と腕をつかまれたが、ソッと振り払う。


「お兄さんと私が、一緒に働けないのは明白では無いですか。だから、私は京都で暮らします。惟光は、役に立つ男ですから側に置いて遣って下さい」


 唖然としている兄を振り切って、光輝は常陸邸へと急ぐ。あの末子と、ゆったりとした時間を過ごしたいという願いしか、光輝の心の中には無かった。



*************************


「また来はったんやなぁ」素っ気ない態度だが、遅くなったので、もう来ないのかと心配していたのがわかった。何故なら、草が少ししか引いてない。


「末子さん、器はもう諦めました。私には普段使いにする勇気がありませんから」


 器を譲ってくれと言われなくなったらホッとすると思っていた末子は、もう光輝と会えなくなるのだと悲しくなる自分に動揺する。


「そうですか……そりゃ、清々しますわ」


 うつ向いて、草を引く手を光輝が両手で包む。


「それは雑草ではありませんよ。末摘花だと教えて下さったではないですか」


 涙で目が霞んでいた末子は、間近に見た光輝の顔に驚く。


「あのう、近すぎます!」


 なかなか手強い末子だが、プレイボーイの光輝に掛かってはいちころだ。


「近くて良いのですよ。これからキスするのですから」


 末摘花の庭で、光輝と末子の恋が始まった。





「まぁ、職無し、家無しなのですか?」


 呆れる末子に「屋敷の隅にでも、住ませて下さい」と光輝は頼む。身内と違う男の人と住むのは初めての末子が戸惑っていると「私も住ませて下さい!」と惟光が、光輝の荷物を纏めて運んできた。


「惟光、お前は……」


 辞めてきましたと清々しい顔で笑う惟光には敵わない。


「二人纏めてお世話になります!」


 一人暮らしをしていた末子は、一気に三人暮らしになった。光輝に好意は持っていたが、いきなり同居はと戸惑っていた末子だが、惟光が加わり気楽に居候させたのだ。




*************************



「この末摘花で布を染めるのですか?」


 二人で仲良く茜色の花を摘んでいるのを眺めていた惟光は、やれやれ落ちついて下されば良いのだがと呟いた。


 惟光の心配は無用だった。ゆったりとした時間の流れのまま、二人の恋は熟成し、庭の植物が眠りにつく冬に結婚した。


「もう、そろそろ帰って来い!」と騒いでいた兄は、結婚を見届けた惟光が復職して、黙った。次々とスケジュールを埋められて、京都でスローライフを送っている弟のことなど思い出す暇も無かったのだ。



「あの壁をなおさなきゃいけませんね」


 光輝は、庭で犬を散歩させている人を見て、末子に笑いかけた。


「でも、そんな修理費は……」


 お金なら腐る程、株で儲けている光輝だが、無粋な真似はしない。


「調べて、自分で修理しますよ。幸い、夏期休暇の時期ですから、惟光にも手伝わしましょう」


 忙しそうなのにと遠慮する末子だが、夏のボーナスですよと、取り合わない。離れずの惟光は、兄の側近を勤めても、心は光輝の傍にある。





 京都の六条の路地の奥にひっそりと佇む屋敷では、恋に落ちた光の君と末摘花の姫君が、ゆっくりとした時間を過ごしている。時々、その静かな生活に賑やかな惟光が参加しては、東京へ帰っていく。


 綺麗に手入れされた庭を眺めながら、可愛い玉のような赤ちゃんを末子はあやす。視線の先には見事な花を咲かせた末摘花の手入れをしている光輝がいる。


「お父様、ええ事がありましたわ」そう、末子は呟いた。

 

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