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久しぶりに馬車からマストフの音色が響く。冬の景色に友達との別れを経験した奏者が奏でるのは相応の曲かと思ったのだが、聞こえてくるのは澄んだ冬の空気に広がる空のような、そんな曲だった。馬車の振動は緩やかになっている。眼を閉じて曲のリズムに身を委ねれば、雲の上を歩くような、そんな気分になれるだろう。
マイアさんはミュゼスの高台で、長く重ねた時に区切りをつけたのもあってか、御付の少ない旅にはしゃいでいた。諌めるべきトワイスさんまで一緒になって騒がしいのはどうかと思うけど。部下の二人の内の一人、街中で僕に付いて賊の顔を確認していた騎士さんは調べのために街に残り、もう一人、ヒューエンさんだけが同行となった。
通常ならば考えられない護衛の数だ。あの模擬試合の後で僕達の容姿を確かめるように眺めたアレセイル・ウェンフォージ伯爵様が、委細をマイアさんに任せたのだ。唯一つだけ、条件として出されたのは、護衛に関する契約条項を僕の署名と誓約に間違いないという一文と共に直筆で書面に残す、というものだった。ギルド、というものがないとこういうところが面倒くさいよな、と書く場所を指差されながら書類を作成した。
武芸者と名乗り、旅をする。路銀の稼ぎ方としては護衛という仕事は至極当然なものなので、断るのも難しいと最初から覚悟はしていたが……
「ふむ、こういう握り方か……これは慣れてないと中指の座りが悪すぎるな」
「真っ直ぐ打ち込まないと簡単に折れるわね……加えて鉢割よりも正確な打突、確かに鍛えてからじゃないと怖くて使えないわ」
「握り方もそうですが、要諦は急所を正確に知る事です。例えばここ」
と、トワイスさんの鼻の下を指で軽く押す。
「ここを点で打突出来れば前歯は折れ、凄まじい激痛に襲われます。その他にも鳩尾、喉仏、こめかみ等も効果的ですね」
「日々の鍛錬に加えて人体を知る事……シュウ殿、急所は幾つほどあるのですか?」
ヒューエンさんからも質問が来る。真面目な騎士だ。揉み合いの中で武器を無くした場合の攻撃手段、ということで始めた話にすぐに食いついてきた。
「全ては知りませんが、相当な数かと。ただ、人、というより生き物の体は弱点を隠すように出来ています。四肢の内側、裏側には太い血の道が通っていますし、間接付近には筋肉と骨をつなぐ腱があります。点穴で断裂させるというのは難しいかもしれませんが、強い衝撃を与えてやれば得物を取り落とす事もあるでしょう」
「肘を打つと痺れるようにか?」
「ええ、まさにそれです。他には……ヒューエンさん、軽く拳を握ってみてください」
そう言って、握った拳の手首を取り、強く握り締める。拳を開いてみてくださいと言うと懸命に開こうとしていたが、どんなに力を籠めても指が僅かに緩むだけしか動かないのを不思議そうにしている。
「これは打突とは直接関係はありませんが、このように外からの力で自由を奪われるのが人体です。水浴びの時にでも御自分の体を確認してみるのも勉強になりますよ」
「成程……シュウ殿は師としても優秀な方のようだ」
教師なんて条件は無かったはずなのに、と僕は心中で溜息をついていた。軽い話でこれなのだから早朝稽古など推して知るべし、である。
公国内では刀を出す場面もあったが、王国内では南の村のような非常事態で無い限り、カムロ式装備は鞄の中、と皆で決めた。第一の脅威は南の公国だろうけど、カムロだって隣接国だ。しかも僕達の進路は東。西に向かうなら国を捨てたと嘘も通ろうが、向かう先が東なら内情を調べた帰り道、如何な言い訳も通用しない。よって、どんなに口が堅かろうとマイアさん達に気取られるわけにはいかない。カムロに向かう者と行動を共にしていると知れれば闇討ちの必要など無くなる。陛下の耳に『国を裏切る貴族がおります』そう囁くだけで事は済む。
だから僕は白刃と黒刃、シノは細身の両刃直剣、リュワは鉈、ニムは洋弓、それで日々をやり過ごす。それは良いのだが。二日目の早朝稽古にはそこに護衛隊正式配備のブロードソードが二振り加わった。ヒューエンさんは自分と異なる僕達の動きを参考にしつつ自己流に修正して、と真面目に訓練しているけど……
「ゆくぞ!わが剣技の冴えを見よ!」
「ちょっ、と、果たし、合いじゃ、ないんですよ!」
初老とは思えない力と剣撃で打ち込んでくるトワイスさん。高笑いのボリュームと共にどんどん鋭さを増す剣筋。放っておくといつまでも打ち込んできそうなので、白刃を峰に反して向う脛を軽く打つ。豪傑でさえ悶絶したその急所の痛みに蹲ったトワイスさんの首筋に黒刃を当てて御退場願った。マイアさんはリュワとニムがそれぞれ訓練しているのを手を叩いて応援している。
それが終われば食事をして出発だ。リースとルガーはリュワとニムの紹介を受けてマイアさんと仲良くなったらしい。優しく馬車を引いている。移動中はその馬車からお呼びがかかることもある。
「シュウ様、この曲のここ、一つだけ押さえる場所が遠いんですの」
「ああ、そういう時は、ほら、この音はこの弦でも出るでしょ?」
「そうなのですけど、弦を二つ飛び越えるのが上手く出来ないんですの」
上達しているとはいえ、スリーフィンガーで自由自在とはまだいかないニム。子供の手では指の開きも限界がある。
「練習あるのみだね、と言いたいところだけど……こういう弾き方もあるんだ」
そういってマストフを受け取って構える。時々こうやって教える時に技能上昇の効果の助けもあり、僕もある程度弾けるようになっていた。常は弦を弾く右手の指がフィンガーボード上を跳ねる。タッピングという奏法は、トレドさんから貰った本には載っていなかったようで、ニムの眼が輝いている。まぁ、見た目派手だしね。新しい技法を見てその練習に没頭し始めたニムに、基本は左で抑えて右で弾くものだからね、とアドバイスをすると、マイアさんが感心したように口を開いた。
「武芸者とはもっと殺伐とした者かと思っておりましたわ」
「はは、僕達は変わり者でして」
「良い事ではありませんか。何よりも旅の道連れとしては多芸なシュウさんは理想的ですわ。シノさんもお料理上手ですし、リュワ君とニムちゃんは幸せね」
「そうであれば良いのですが……出発の時の涙を見てしまうと、その意味を知っているとしても揺らいでしまいますね」
「ふふ、大丈夫。……幸せだわ」
その言葉は僕達だけに向けられたのではないんじゃないか、と思えた。言い聞かせるように、噛み締めるように、しかしとても自然に出てきたその言葉は、ずっと出口を探していたんじゃないだろうか。時には何かが邪魔をしていたのかもしれない。時には言葉が出たがらなかったのかもしれない。いつ、どこで生まれたのか定かではないその言葉は、長い時を果ての無い心の中をめぐり、ようやく世界に出てきたのかもしれない。届ける相手はもうその世界にはいないのかもしれないけれど、入れ替わるように現れたその言葉は、マイアさんと相手が長い時をかけて育んできたものなんだろう。
そう思えた僕の口からも、自然に言葉が出る。
「……良いですね。僕達もそうなりたい」
「ふふふ、男の腕の見せ所ね」
「そんなに長い間、見せ続けなくてはならないんですか?」
「ずっと力瘤を作っておく必要は無いの。それを望む女性は相手にしないほうがいいわ。シノちゃんなら大丈夫。例えシュウ君が太って二の腕がたるんでしまっても、隠さない限りはずっと見続けていてくれるわ」
僕の腕……柵を掴み乗り越えた腕。ザックの人生を見ている間中、自分の膝を抱え込んでいた腕。頼りない腕。傷跡だってある。デセットさんを背負った時に付いているだろう。血の染みだってある。他人の血だけじゃない、何より始まりは僕の血だったんだから。
でも、師匠は褒めてくれた。何度転がされても木刀だけは手放さなかった腕。ドリスさんの威圧感にも震えず石板に堂々と置けた腕。リュワが嬉しい時、巻きつきじゃれ付いてくれた腕。あの村でシノの前に立った時、シノの為に怒りに震えた腕。エイクスの樹の根元で、ニムから追悼の魔力を受け取った腕。ザックが握手を求めてくれた腕。
「隠さないように……」
「シュウ君なら心配ないわ。あの時、久し振りにときめいたもの!」
「あの時?」
「『貴き御婦人の守護にお許しを!』」
何も武器を帯びていない腰に手を伸ばし、胸を張り顎を引いてそう言うマイアさん。僕、無手の上に上半身裸でしたけど?!
「リュワ君も、最初に出会った時に似たような事言ってくれたのよ?御師匠様の薫陶の賜物ね」
「あの、そういう言い方をされると」
御者台に座る人物が半ばからかうように非難の言葉を投げてくる。
「へぇ、博打、酒ときて次は女遊びに手を出すのかしら。シュウ?」
やはり、オチはこうなるのか……ニム、緊迫感を盛り上げるような曲はやめてください。