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少年は眼前に広がる夜景になんらの感慨も持たず佇んでいた。
頭に浮かぶのは両親の顔。しかしそれも淡くぼやけ、星も見えない都会の夜に同化するように消えていく。
耳は過去の音を再生する。それは決して心地良いものではなく、自分を蔑み嘲る数え切れない男女の声。その声が何も無くなった頭の中を回る。囲まれた頭蓋の中を、ありもしない出口を探すように。
鼻腔には血が固まり、取り込む酸素の量を著しく制限している。だがその方が気が楽だった。自分に纏わりつく、淀んだ空気を吸わずに済むから。
切れた唇は青黒くなった顔の中で、唯一と言って良いかもしれない血の通った色をしている。動かす度に痛みが走るがそれも気にならない。もう一言、それだけ口に出せれば十分だった。
虚ろな眼をぎゅっと閉じ、再び開くと夜闇に瞬く街の灯りが滲み、じんわりと四方八方に流れる。
極限まで耐えに耐えた四年間は高所から踏み出す一瞬に変わり、水平から垂直へと転じた視線は、行く末を確認する事も無く意識とともに消失するだろう。
御免なさい、の呟きが響いたのは頭の中か口の中か。
この世に残す最後のものとして、たとえ誰にも届かず空気に溶けてゆくだけだとしても、声に出てればいいな、と刹那の瞬間に思った。
気がつけば砂利に突っ伏していた。
あれ?下はコンクリートのハズだったのにと思ったと同時に、意識を迎えるように落ち着いた声が聞こえた。
「シュウ君だね?お疲れ様。ああ、安心していいよ。君の魂は君が願ったとおりの結果を迎えたから」
死に損なったかな……痛いのはもう嫌だな……と言う思考を読んだかの様に、声は修の不安を打ち消し、父が頭を撫でてくれたような、母が体を抱き締めてくれたような、そんな安らぎで体を起こす修を支えてくれた。
「願ったとおりって……じゃあ、ここは?」
「君らが言うあの世だね。正確には境目を渡った所、私は案内役だよ」
「案内……」
「そ、案内役。なんだけど……君には少し話をする必要があってね。こっちに着いて来てくれるかな?」
死ねたんだ、と言う安堵以外は混乱しかなかったが、言いなりであった生前の習慣なのか、はいという返事とともに穏やかな面持ちの青年とも壮年ともつかぬ案内役と名乗る彼の後に続く。
唐突に現れたどこか見覚えのある平屋建ての家に入ると、居間に通され座布団を勧められた。
「あらためてお疲れ様でした。誰も望まない形であったとはいえ、区切りをつけた君の意思は尊重します」
「あ、の……」
「うん?」
「ここが思ったとおりの場所だとすれば、僕は罪人として裁かれるのでしょうか?」
自ら命を手放したと言う罪悪感と、幼い頃に祖父母に聞いた天国と地獄の二択が修の頭に浮かび上がる。
「安心して良いよ。如何な終焉を選んだにせよここは裁きの場ではないから。まずはその辺りについて話をしようか」
その後は混乱して質問があっちこっちする修に、怒ることも呆れることも無く辛抱強く彼は説明してくれた。
ざっくり言うと、悪事といわれる行為によって魂は歪み、罪の軽重で歪みが変わる。悪辣なものは大きく歪み、他人との関係性の中での小さな嘘等は小さく歪む。ここは生きてきた事で多少なりとも歪んでしまった魂を、正常な状態に戻し次の生に繋げる場所である事。歪みの少ない魂は安らぎを得て、緩やかに時を過ごす過程で自然と歪みの無い魂に戻る事。逆に大きく歪んだ魂にはそれ相応の荒療治のための矯正場所、手段がある事。
「その為の役目を持つ存在が私達なんだ。魂を見て、歪みを判別し、案内して、適正な場所で時を過ごさせる。そういう存在だ」
「それは神様や仏様と言う存在では?」
「ないね。私たちは全知でも全能でもない。奇跡も起こせないし救いももたらせない。なによりも、私達は役目を『与えられた』存在だ」
心が落ち着いた修の質問に微笑みと答えが返ってきた。
「僕は何処で過ごせば良いのでしょうか?」
自分を省みるに、おそらく歪みは少しではない。劣等感、無力感、罪悪感、何もできない非力な自分なのに恨みつらみは人一倍だ。
自殺の動機にしても長年のいじめに耐えかねた事が第一であるにせよ、これで騒動になって奴らに世間が罰を下す事を期待してもいたのだ。
「そんなに卑下する事はないよ。確かに君の魂は歪んではいるけれど、大きくは無い」
俯く修に優しい声音が降り注ぐ。
「問題はね、君の魂に妙なクセがついている事なんだ」
「クセ?」
「うん、君の魂は幾度かの輪廻を経て今回……もう前回かな?修と言う個人に成ったんだけどね」
いつの間にかそこにあった茶をすすり、ふうと一息ついて彼が続ける。
「……毎回決まって似た状況で似た終焉に行き着くんだ。すなわち、周囲からの冷遇と自決」
と、いうことは……生まれ変わっても……僕は。
「そんな事にはさせないよ。似たような状況の魂も偶にいる。そういったクセを正す手伝いも私達の役目だしね」
「どうすれば!僕は何をすれば良いんですか!」
嫌だった。唯々諾々と襲いくる理不尽に耐えるしかない自分が。
申し訳なかった。不甲斐ない自分が両親の望んだ命に宿った事が。
「まずは、ここで過ごそう。そこのテレビに映るものを見ながら」
「はぁ……」
「それと君に頼みがある。君が手放した身体、ある魂のクセを治すために使わせてくれないかな?」
「へ?そりゃ構いませんけど……ぐっちゃぐちゃでは?十八階ですよ?」
「いやー、奇跡ってあるんだねぇ」
出会ってから一番良い笑顔で彼はそう言った。