2 angel's capacity (4)
「スピーゲルマン博士は普段は研究所に居ることが多いのだけれど、今は一時的に来日しているの。その間、研究施設の警備に当たっていた人材の一部が父の護衛として同行する。つまり、施設のセキュリティが多少は甘くなる。その機を狙って私は脱走を試みた。手引きしてくれた人が外部にいて、日本に来るための手段も全て用意してくれたわ。」
「そりゃ親切な奴がいたものだな」
「単純に、利害が一致したというだけの話よ。」
「なるほど。」
聞くからに敵が多そうだもんな、その博士とやら。
「実際、敵対勢力は数知れないわ。だからといって、それらの勢力が私に味方してくれるかといえば、そうでもないところが厄介なのだけれど。どちらかというと攻撃対象にされかねない。その人物のような協力者は得難いのよ。」
まぁそうだろうな。
「その協力者とは会ったことが有るのか?」
「本人に会ったことは無いわ。通信機器を介してや、仲介者を通してしか連絡を取っていない。向こうから一方的に指示や伝達が有って、私はそれに従う。こちらから連絡を取る手段は今のところ与えられていない。その人物は私が国内で潜伏するための部屋を用意してくれたから、私はこの二週間、部屋で待機を続けていた。今日……と言うよりは昨日と言ったほうがいいのかしら。昨日になって、フトウに行けという連絡が入ったのだけれど、私にはフトウという言葉の意味が分からなかった。それで様子を窺っている間に貴方を見つけ、その後で久留間崎からの襲撃を受けた。」
ヒュキアの最初の台詞は、そういう意味だったのか。フトウというのは埠頭のことだろう。彼女の日本語の語彙に無かったとしても仕方が無さそうな単語だ。
「じゃあこれから、どうするつもりなんだ」
「再び何らかの指示が有るのを待つわ。向こうが通信手段を考えてコンタクトを取ってくるでしょう。こちらの状況を伝えるための策は用意する必要が有るけれど、今はほとぼりが冷めるまで動かないほうがいいはずよ。」
ほとぼりが冷めるまでというのは、博士の護衛とかいう連中が諦めるまでなのだろうか。
「そうね。探すのが困難なほど遠くまで私が逃げたと彼らが判断する程度には。……ところで私、眠くなってしまったの。」
気が付けば話し込んでいる間に深夜を通り越して早朝に近い時間になっていた。先程コーヒーを飲んだとはいえ、カフェインの効果よりも睡眠欲のほうが勝ってもおかしくない。
「少し眠らせてもらってもいいかしら?」
「ああ。構わないけど」
やっぱり僕は部屋から出て行ったほうがいいのだろうか。ネットカフェか二十四時間営業のファミレスにでも行くか。
「それは気にしないで。」
そう言って、ヒュキアは僕のベッドの上に座った。
「いや。眠るって、そこで寝るのか?」
「ええ。」
お前が気にしろよ。会ったばかりの男の寝床で眠ることに抵抗を覚えない女の子がいるのか。やっぱり文化が違うのか。育った環境が違うからなのか。
僕が悶々と考えている間に、彼女は既に僕の布団に潜り込んでしまっている。まるで躊躇というものを覚えていないらしき挙動である。自分の家にでもいるかのような態度だ。まさかこれは、このままいきなり同居生活展開とかじゃないだろうな。
そんなことを思っていると、彼女はベッドの上で上半身を起こした姿勢で言った。
「真菅。貴方は私のことを会ったばかりの人間だと思っているようだけれど、私にとってはそうではないの。なぜなら、私が日本に来てから過ごしていたのは、この部屋の隣の部屋だから。」
「いやお隣は表札に佐藤さんって」
「部屋は用意してもらったと言ったはずよ。おそらく偽名で借りてあるのでしょう」
「偽名にしては芸が無さすぎるだろう佐藤さんって」
確かに僕は入居してこのかた隣人の姿を見たことは無いけれど。それにしても。
「隣の部屋に住んでるんだったら僕の部屋に来なくても、そっちに帰ればいいだろう」
「部屋の鍵を落としてしまったの。戻っても中には入れない。」
いきなり同居生活展開ではなく、いきなりお隣さん展開だった。
「最初からそれを話してくれれば何か方法が有っただろうに……」
大家さんに説明して鍵を開けてもらうとか。ベランダ伝いに隣の部屋に入るとか。
「私が隣の部屋で起居している事情を第三者に不審がられないように説明するのは困難。身分を証明する手段は無いし、有ったとしても居住者として契約している人物と私との関係を示す方法は無い。貴方が私の部屋の鍵を開けてもらう理由を他人に説明するのも、おそらくは至難。」
「そうだけど」
「そして、私の部屋の窓にはロックを掛けてある。」
「今は窓ガラスを割って入るくらいのことは仕方無いくらいの緊急事態だろ?」
「窓ガラスって人間の力で割ることができるものなの?」
ヒュキアは驚いたように瞬きをした。というより、本当に驚いているらしい。
「……君の育った施設では窓ガラスは全て防弾仕様か何かだったんだね」
お前の怪力ならアパートのアルミサッシくらい枠ごと外せるんじゃないか?
僕の考えていることを知ってか知らずか、彼女は神妙に頷く。
「加えて、個室には鉄格子が嵌まっていたわ。」
それはもはや個室というより独房だろう。どうやって脱走したのか気になってきた。




