1 angel's angle (3)
部屋に入ってすぐ、お腹が空いたという彼女のために僕はキッチンに立った。そりゃまぁ多少は図々しい発言と受け取れなくもないけれど、あれだけの運動量をこなしたのだから空腹を覚えるのは当然だろう。加えて彼女は逃亡中の身で、自力で食料を得るのが困難な状況である。
しかし、うちの台所にはカップラーメンとカップうどんとカップ焼きそばとインスタントラーメンくらいしか無い。僕はそれを彼女に食べさせることに躊躇を覚えた。なぜなら最近、学食で近くに座った女子が『男の部屋に遊びに行ったら食事にインスタントラーメンを出された。女の子にインスタントラーメンを食べさせるなんて信じられない』という旨の話をしているのを聞いたばかりだったのだ。(ちなみに会話の相手は僕ではない。たまたま小耳に挟んだというだけのことだ。)
室内に居る彼女の様子を窺う。ベッドとパソコンデスクとローテーブルだけで一杯になっている六畳一間の床に、ベッドを背にする形で膝を抱えて座っていた。
明るいところで改めて見ると、彼女はなんとなく無気力な、それでいて妙に堂々とした、まるで王族のような雰囲気を醸し出していた。僕は王族なんてテレビぐらいでしか見たことが無いけれど、イメージとして。或いは猫に似た顔つきだ。猫は猫でもペルシャ猫が野良猫になったような、そんな感じ。
冷蔵庫の扉を開けると、殆ど何も無いに等しい空間に餃子の皮が一袋、入っていた。インスタントラーメンを作る時に五枚くらい一緒に茹でて具にすると、美味しいしボリュームもアップするから買ってあったのだ。
僕はその餃子の皮を冷蔵庫から取り出した。袋から出して束のまま俎板の上に載せ、包丁で縦四等分に細長く切る。
コップ二杯分くらいの水を鍋に入れて火に掛ける。沸騰したら中華スープの素(粉末タイプ)を鍋に入れて、さっき切った餃子の皮を、なるべく一枚ずつバラバラになるようにヒラヒラと入れていく。くっついて塊になるのを防ぐためだ。餃子の皮が茹で上がって少し透き通った感じになったら、塩ひとつまみと胡椒を加えて完成。火を止めて、器に移す。本当は葱か韮が有れば良かったのだけど、生憎と切らしていた。
「味が薄かったら言ってくれ。醤油を足すから。」
そう言って部屋の中央に有るローテーブルの上に置くと、彼女は妙に真剣な顔付きで這い寄ってきて、ラーメン鉢の前に正座した。僕は以前コンビニで心太を買ったときに貰った割り箸を見つけ出し、添えるように置いた。
彼女は数秒間それを黙って見つめると、いただきますも言わずに割り箸を割って、食べ始める。
黙々と完食。スープも残さず飲み干している。
そして、ごちそうさまも言わずに目を閉じてラーメン鉢に向かって心なしか頭を下げるような仕草をした。
見ていて気持ちのいい食べっぷりとは、このことだ。結局いただきますもごちそうさまも彼女は言わなかったけれど、僕は全く不快ではなかった。
正座したままの姿勢で、彼女は顔を上げて僕を見る。
「美味しかったわ。何かのヌードル、よね?」
「ああ。中国四千年の秘伝の麺だ。」
餃子の皮と即席スープの素だけど。まぁ中国は広いから似たような麺類は存在するだろう多分。そういえば、漢字で饂飩と書いてワンタンとも読めるらしい。だとすれば案外、うどんのルーツはこんな感じの食べ物なのかもしれない。
僕の冗談は通じなかったらしく、彼女は小首を傾げた。気まずさを取り繕うために僕はラーメン鉢と割り箸を手に取ってキッチンの流しに運ぶ。
キッチンから戻ると彼女は正座したままの姿勢で、改めて僕を見据えた。
「自己紹介が遅くなったわ。私の名前はヒュキア。」
唐突な名乗りに僕は拍子抜けして、間抜けな応えをした。
「ヒュキア……何さん?」
「姓は無いわ。」
「いくら外国人でも、苗字が無いってことは無いだろう」
「厳密には外国人ではないわ。日本人でもないけれど。私には国籍は無いの。」
僕は二の句を継げなかった。一体どういうことなのか。
「私が生まれたのは、ある小さな島。波と霧とで常に外界から隔絶されていて、島の存在を認識している者は極めて少数。聞いた話では、あの近辺は有名な危険水域らしいわ。」
「それって魔の三角水域とかいうやつですか」
バミューダか。バミューダトライアングルなのか。
「固有名詞は知らない。ご想像にお任せするわ。私は父親によって、幼い時にその島から連れ出された。そして合衆国の施設で育てられたの。」
「っていうことはアメリカ人なんじゃ……」
「いいえ。私は市民権を有していない。謂わば存在していない人間のようなもの。父をはじめとする組織の人間には、そのほうが都合が良かったの。」
「いつから日本に?入国審査とか有るだろう。パスポートはどうしたんだ」
「日本には二週間前から。パスポートは偽造。」
偽造パスポート。どんどん危ない話になってきた。いや、さっきの戦闘シーンのほうが危ない話だけれど。
「それにしては日本語が流暢すぎやしないか?」
「私の個人教育を担当していた先生の一人が日本人だったの。彼女とは主に日本語でやり取りをしていたから。子供の頃から。」
この娘は一体どんな教育を受けていたのだろうか。今の会話を総合すると、どこまでも常識の範疇を超えているのは間違い無い。
「ちょっと待っていてくれ。電話を掛けないといけない用が有るのを思い出した。」
僕は玄関から飛び出してドアを閉め、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。