4 angel's right (7)
「私はあの部屋に住み始めて数日間、いえ、研究所を出てからずっと、周囲の人々から流れ込んでくる思考に悩まされ続けていたの。自分なりに対策を取って能力をコントロールはしていたのだけれど、それでも、日本に来てからの『普通の人』たちの理解し難さには時々耐えられない気分だった。でも、しばらくして気付いたの。隣の部屋に居る貴方の思考が、私にはとても居心地がいいことに。貴方は周囲に居る『自分を普通だと思っている人たち』と折り合いを付ける努力を日常的に行っていた。どういうふうに考えれば周りの人と衝突せずに済むのかを、いつも考えていた。貴方があの部屋でそういうことを考えている間、私は心が穏やかになれるような気がした。」
「だから僕に声を掛けたのか」
「そうよ。真菅。」
ヒュキアは僕のほうを向いた。
「私は貴方に感謝している。貴方にとって私が会ったばかりの人間でも、私にとっては貴方は恩人なの。」
「恩人って……たまたま部屋が隣だったっていうだけだろう。僕は君に何もしていない。」
「そんなことは無いわ。貴方がいなければ、私は協力者である雛胤丹膳と連絡を取ることもできなかった。一人では何もできなかったわ。」
「それは、そうかもしれないけど、単なる行きがかり上だ。」
「それでも、私には有り難かったの。貴方がいなければ、彼は私に会おうとはしなかったでしょう。」
「まぁ、そうかな」
ヒュキアの能力を恐れて一方的な連絡手段 (ポケベル) しか与えなかったのなら、間接的に僕とヒュキアとの会話が事態を進展させたことにはなるだろう。
「彼らが私に隠していることなんて、幾らでも有るわ。ラゾ・ギドニスがあそこで暴れるに至った経緯にも関わっていたみたいだし。」
「そうなのか?」
「昨夜はそうした話題は意図的に避けていたようだから、全容は把握できていないけれど。」
確かに昨夜は僕が聞いた限りでは、ヒュキアの目的だとか雛胤丹膳の意向だとかいった話には最低限しか触れていなかった。彼女に思考を読まれてはまずい秘密が向こうに有ったからか。ふにゃふにゃしているくせに、抜け目のない男だ。
「だから真菅、私はあなたに言わなければならない。」
ヒュキアは立ち上がって僕を見つめた。
「ありがとう。」
「いや、そんなに改まらなくても。」
「言いたかっただけなの。」
「それは……どういたしまして。」
僕は居心地が悪くなって立ち上がった。ポケットから財布を出し、硬貨を取り出して賽銭箱に放り投げる。からんからんからん、と鈴を鳴らした。
ぱんぱん、と柏手を打って、目を閉じる。
目を開いてヒュキアのほうを振り返った。
「神社に来たときは、こうして願い事をするのが習わしなんだ。僕はお賽銭は神社の利用料というか場所代みたいなもので、願い事は後付けだと思ってるけど。」
座って話す場所を確保するために喫茶店やファーストフード店に入るのに比べたら、安いもんだ。
「君も何かお願いをしたら?」
「お願い?」
「神社でお賽銭を投げて願い事をすると、神様が叶えてくれるっていう話になってるんだ。」
「神様が……」
「あ、神社っていうのは神様を祀っている場所なんだ。それは知ってた?」
「ええ。知識としては。でも、願い事を叶えてくれるなんて話は知らなかったわ。」
「なんていうか民間信仰みたいなものだよね、現代の。確証は無いのに、なんとなくそういうことになってるんだ。」
「不思議ね。」
「不思議だ。でも、願って損をすることは無いから、君も何かお願いしておけば?」
ヒュキアは黙ってこくんと頷いた。僕の手から硬貨を受け取ると、ころんと賽銭箱に入れて、縄を引っ張るようにして鈴を鳴らす。両手を合わせて軽く頭を下げた。
彼女が何を願ったのかは、僕の知るところではない。




