4 angel's right (4)
翌朝、僕はすんでのところで寝坊するところだったが、なんとか目を覚ますことができた。よくよく振り返ってみると、一昨日から昨日の夜にかけての二日間、一睡もしていなかった。泥のように眠ってしまったのも当然だろう。
昨夜は雛胤丹膳の事務所から自動車でアパートまで送り届けてもらった。運転手は例のサングラスの女性だ。終始無言で、気詰まりなことこの上無かった。
授業に出るために身支度をする。
昨日は一日サボりだったけど、よんどころない事情が有ったのだから仕方が無い。しかし二日連続というのも具合が悪いだろう。
玄関を出る時、ヒュキアのサンダルが一足、沓脱ぎのところに揃えて置いてあるのが目に留まった。彼女が最初に会ったときに履いていたものだ。ぼんやりと、『一緒に住んでいた恋人が去ってしまった後の気持ちって、こんなふうなのかな』と想像しながら(違うだろうけれど)、玄関ドアを出て鍵を閉めた。
通り際に隣の部屋のドアを見る。一昨日までと何も変わったところは無い。相変わらず表札には『佐藤』と書かれている。何事も無かったかのように。
いけない。寝坊しなかったとはいえ、のんびりしていたら遅刻してしまう。僕は心もち早足にアパートを後にした。
「で、どうだったんだ?」
講義室に行くと、二人の男子学生が待ち構えていた。汲沢と畝傍だ。
妙に世間擦れしているほうが汲沢で、未だに高校生みたいなのが畝傍である。
畝傍がにやけた表情を隠しもせずに言う。
「昨日はデートだったんだろ?真菅っち」
その呼び方は高校生じみているから止めろと言っているのに。
「どうもこうも、散々だったよ。」
「まぁ初めてじゃなぁ」
汲沢が訳知り顔に瞑目している。
どうやら一昨日の電話と昨日の無断欠席から、二人は何らかの共通認識を得ているらしかった。誤解だけど。
平和だ。日常だ。昨日の出来事がまるで夢のようだ。
本当のところを説明はできないし他の嘘を考えるのは面倒なので、僕は不機嫌そうな声音を作った。
「なんで初めてって決めつけるんだ。」
「夕飯は豪華ディナーだったりしたのかよ」
畝傍が無駄に目を輝かせている。
「ああ。よく分かったな」
昨夜の夕飯は雛胤丹膳の奢り(本人は必要経費だと言っていた)で高級レストランのディナーだった。空腹だった僕もヒュキアも、パンをお代わりしながら黙々と口に運んだものだ。
「ちゃんとプレゼントとかしたのか?」
汲沢が片目だけ開いてこちらを見遣る。
「……スキー用のバッグを買ってやった。」
しまった。タイミングを逃してスキーバッグの代金を雛胤に請求するのを忘れていた。
汲沢と畝傍はちょっと引いたような反応をした。うん?
「お前がそういうタイプだとは思わなかったよ。」
「お前がなぁ……」
二人は何か勘違いをしているようだった。
「違う!ブランドバッグじゃない!!」
僕がそう叫ぶのと同時に美好臥魚が教室に入ってきた。美好臥魚というのは一昨日の夜に僕が電話を掛けて怒らせた、携帯電話に勝手に連絡先を登録してきた女子である。フルネームを登録してあったから、フルネームで記憶している。
美好は僕の姿を認めると、あからさまに視線を逸らせた。
汲沢が腕組みをする。
「昨日より更に機嫌が悪そうだな。」
畝傍が僕の机の上に頬杖をつく。
「あいつ、明らかに真菅っち狙いだったもんなぁ」
「別に僕狙いってことは無いだろう」
「これだもんな。」
畝傍が肩を竦め、汲沢が僕の肩をぽんと叩く。
「フォローしとけよ。これからの平穏無事な生活のためにも。」
実に平和だった。




