1 angel's angle (2)
そのままのお姫様抱っこの体勢で、多分マラソン選手くらいのスピードで五分ほど夜の路地を走った後(幸いなことに人通りが少ない時間帯だったので目撃者はいなかった)、彼女が立ち止まった。
「追いつかれた。」
そう一人ごちて周辺を見回し、ちょうど街灯の明かりが届かない暗がりを見つけると、そこに僕を降ろして座らせた。
「ここに居て。」
「なんで君が僕に命令する権利が有るんだ?」
「いいから動かないでいて。真菅八宏。」
僕は咄嗟に喉を詰まらせた。
真菅、八宏。それは僕の名前だった。
足早に遠ざかる彼女の背中に向かって疑問を投げつける。
「なんで僕の名前を知ってる!?」
彼女はその問いには応えず、腰を落として構えたかと思うと、跳躍した。
そして一瞬前まで彼女がいた地面に、何かが斜めに降り注いできた。
カカカッ、と音を立ててアスファルトに刺さるようにして降ってきたのは、数本の細いナイフだった。食事用にフォークと一緒に使うナイフではなく、もっと鋭利で物騒な種類のものだ。
ナイフは勿論アスファルトには刺さらずに、からんからんからん、と路上に散らばる。それと同時に彼女は近くの路面に降り立ち、ナイフが飛んできた方向を見据えた。
「初撃で仕留めるつもりだったが……流石は我らの最高戦力と言うべきだな。」
そんな声とともに、眼鏡にスーツ姿という平均的なサラリーマン風の男が、街灯の下に現れた。
「いや。お前が我々に逆らうつもりなら、『元』最高戦力ということになるか。」
「私は今も昔も、貴方たちの道具ではないわ。」
彼女は屈んで足元のナイフを一本、拾い上げた。それを逆手に握った状態で自分の首元まで持ち上げる。エメラルドグリーンの眼を僅かに細めるようにした。
「そして、これからも。」
疾走。跳躍。激突。応酬。
かんかんかんかん、と刃物が打ち合わされる音が響く。
上段。中段。身を躱し、刺突し、弾かれる。
スーツの男は左右の手に一本ずつ、二本のナイフを所持していた。見るからに彼女のほうが不利だったが、そんなハンディキャップは存在しないかのように見事にリズミカルに、まるで踊るように二人は接近戦を続けていた。
僕には全く状況が解らない。
彼女が何者で、攻撃を仕掛けてきた男が何者なのか。
どうして平和な日本の片田舎と云っていい町中で、いきなり白兵戦が始まるのか。
彼女が動くたびに明るい色の髪が広がって白い項が見え隠れし、フレアスカートが翻っては生足が露わになる。左右でデザインの異なるピアスが煌いて、繊細な造作のサンダルが軽快な音を立てる。その様子は息を呑むほど美しかった。そんな僕の感想こそが、今は場違いなのだろうけれど。
目が慣れてくると、彼女が男の攻撃を全て一本のナイフで凌ぎきっていることに気が付いた。ナイフでの近接戦闘なのにである。対して、男のほうはスーツのところどころを斬り裂かれていた。
その上、男は手にしたナイフを取り落とすたびに新たにスーツから別のナイフを取り出しているのに比して、彼女は最初に拾った一本だけを使い続けていた。
やがて男は仕込んだナイフが尽きたらしく(周囲には十数本のナイフが転がっていた。そんなに刃物を所持していて重くはなかったのだろうか?)、右手の一本だけで応戦していたが、それにも限界が訪れたようだった。
きいん、と甲高い音を響き渡らせて最後の一本が弾き上げられ、地に落ちる。
彼女は膝立ちになった男の喉元にナイフをぴたりと突き付け、息を荒げることもなく口を開いた。
「ここで私を見たことを誰にも他言しないと誓いなさい。」
男が僅かに頷くと、彼女は逆手に持ったナイフを振りかぶり。
柄の部分で男の側頭を殴打した。
男が昏倒する。
彼女は倒れた男の傍らに屈み、気絶しているのを素早く確認して言った。
「この場を離れましょう。」
早歩きで進む彼女を追い掛けつつ、僕は質問する。
「あのナイフ男は何なんだ?」
「私の……追っている相手のボディガードの一人。」
「我らの最高戦力だった、とか言ってたよな。ってことは、お前があのナイフメガネの所属する組織から離反したのか」
「彼らにしてみれば、そういうことになるわね。私は最初から利用されていただけなのだけれど。」
「それにしても、『最高戦力』に単独で仕掛けてきたりするものなのか?」
「彼は偶然に私を発見した。仲間との合流を待っている間に私を見失うのは確実。それならば足止めするなり手傷の一つも負わせるなりしておくのが彼が取るべき最善の手段だった。そんなところかしら。」
「いや、それは変だ。君があれほど強いことを知っているなら、何人かで連携を取って行動するはずだろう?」
「その疑問に対して今すぐに貴方の納得のいく説明することはできない。単純に、彼が私の戦闘能力を過小評価していただけという線も有り得るし。とはいえ実際のところ彼は既に仲間に連絡は取ってあったでしょうね。戦闘が長引けば新手が現れていたかもしれない。」
「じゃあなんであのナイフスーツに、自分のことを他言しないように脅したりしたんだ?」
「あれは相手の油断を誘うための言葉の綾。どのみち、私との約束を守る義務なんて彼には無いもの。」
確かに言われてみればそうだった。
「待てよ。それなら、今この時にも発見されて襲われる可能性が有るってことか?」
「そうね。だから」
「だから?」
「今夜はあなたの部屋に匿わせてもらうことにするわ。」
「ってここ、僕のうちじゃないか!!なんで知ってるんだよ!?」
そのタイミングで僕らが立ち止まった場所は、僕が独り暮らしをしているアパートの前だったのだ。