3 angel's square (7)
「まさか芸術家とはな」
「裏の顔が有るのかもしれないわ。」
「しかし名前を知ってたんなら最初から言ってくれれば、ネット検索ぐらい僕にだってできたのに。」
「思い至らなかったわ。」
そういう常識にはヒュキアは疎そうだ。
「パソコンとか使ったことって有るの?」
「パソコン自体は使ったことは有るわ。研究施設内のネットワークにも接続していないスタンドアローンしか触らせてもらえなかったけれど。私はインターネットには詳しくないの。」
姪森さんが僕のほうに手を振って店を出て行ったので、僕はヒュキアに顔を向けた。
「で、ここに連絡するのか?」
「それ以外に無いでしょうね」
「いきなり事情を話して人違いだったら痛いな。何か口実を作らないと。」
「私の協力者なら、私の名前を言っただけで通じるはず。」
他には滅多に無さそうな名前だもんな、ヒュキアって。
「そういえば君の名前って、アルファベットだと綴りはどうなるの?」
「H、J、U、Q、U、I、A。」
「え?何だって?」
僕は書く物が無いかとテーブルの上を見回した。有った。店のアンケート用紙の記入用ボールペン。紙ナプキンにそのボールペンを添えて、ヒュキアに差し出す。
「ここに書いてみて」
ヒュキアは僕に言われた通り、名前を書き記す。
Hjuquia。
これは本当にネット検索しても見つからなさそうな名前だ。
ケーキが運ばれてきた。僕は慌てて紙ナプキンとボールペンをヒュキアから取り上げる。なんとなく。
落とし物を探したりボウリングで遊んだりしていて結構お腹が空いていたみたいで、ヒュキアは無言でアップルパイを食べる。
「美味しい?」
僕が訊くと、ヒュキアは難しげな顔つきをした。
「美味しいわ。今までに食べたことの有るものとは違った味だけれど。」
欧米の人って、テレビで見ていても、食べ物の味に関する質問に対して真面目な顔をして答える傾向が有る気がする。インタビューに対して笑顔で『美味しい』と答えなければならないという強迫観念は、ひょっとして日本人に特有のものなのだろうか。
僕は携帯電話を取り出し、とりあえず姪森さんに書いてもらった雛胤丹膳とやらの連絡先を手入力した。続けてメール作成に入る。件名は『Hjuquia』。本文は『アパートの鍵とポケットベルを紛失。現在地はアパートの最寄駅。』。
「これで送っていいか?」
ヒュキアに携帯電話の画面を見せる。彼女は口の中がアップルパイで一杯だったらしく、黙って頷いた。
送信ボタンを押す。メールだと非通知設定ができないのが難点だが、逆に云えば、これで向こうから僕に連絡が入る可能性ができる。
あくまでその芸術家の事務所とヒュキアの協力者に何らかの関係が有ればの話だけれど。
僕がケーキを食べ始めようとフォークを手に取ると、着信が来た。メールだ。返信か、早いな。件名は『Re:Hjuquia』。文面は『至急そこから離れろ』。
何だって?
僕の頭が真っ白になるのと同時に、店の外で途轍もなく大きな破壊音がした。
ヒュキアがスキーケースを手にして走り出す。
一拍遅れて、僕も後を追った。お勘定は姪森さんが済ませてくれている。
しまった。ケーキを食べ損ねた。




