3 angel's square (2)
結局、ヒュキアは再び僕の部屋からベランダ伝いに隣の部屋に入って(勿論、誰にも目撃されないように注意してである)、身支度を済ませてくるとのことだった。シャワーでも浴びるのかもしれない。
その間に、僕もトイレに行っておいたりする。しかしこういうの、音や気配みたいなのが全てヒュキアには察知されてしまっているのか。決して心穏やかではない。
しかし、僕の(というか、周囲のあらゆる人間の)生活音が聞こえてしまっている彼女本人にとってはどうなのだろう。想像するに、感覚としては最早お医者さんや看護師さんみたいな境地に達してしまっているのではなかろうか。
ヒュキアが隣室の玄関から外に出て、僕の部屋のドアをノックした。玄関チャイムを鳴らすという文化に慣れていないのだろう。僕はドアを開けて迎え入れる。彼女が履いていたサンダルは玄関に置きっぱなしだったから、靴はどうするのだろうとぼんやり思っていたのだが、ヒュキアはきちんと別の靴(やっぱり似たような編み上げサンダルみたいなの)を装備していた。
「そっちの部屋の施錠はしなくていいのか?」
「私には問題が有るとは思えないわ。」
仮に侵入者がいたとしても、特に盗られるものも無いということなのだろう。
「じゃあ姪森さんに会う前に、鍵とその、ポケベルを探してみよう。昨日の君の移動ルートは分かる?」
「概ねは。」
「じゃあ出かけよう。」
「ええ。」
ヒュキアはそう応えて土足のまま僕の部屋に上がる。僕は止めようかとも思ったが、サンダルは新品っぽかったし黙っていた。
彼女は壁に立て掛けてあった槍のような物体を手に取る。
「その銛を持って行くのか?」
というかその銛は何なんだ。
「これは祖父のものなの。島を出るときに、ボートと一緒に提供してくれたのよ。」
「祖父って、島の村長だったっていう人だよな。お前は村の人たちから迫害されてたって言ってなかったか?」
どうもコンテクストが読めない。
「祖父は長としては私と母を村外れに追いやるしかなかったけれど、本心では自分の娘と孫娘に対して複雑な気持ちを抱いていたの。だから父が島に再来したとき、夜のうちにこっそり私と父を逃がしてくれたのよ。そしてこの銛を私にくれた。お守りだって言って。」
やっぱり銛なのか。
灰茶色の木で出来た柄の、穂先付近と柄尻部分は金属で補強されている。穂先は乳白色をしていた。
何の素材で出来ているのだろう。
「鯨の骨で作られたものよ。」
「骨角器なのかよ⁉」
「金属部分は島を出た後で私が頼んでカスタマイズしてもらったの。」
ヒュキアの生まれた島の文化は一体どの程度のレベルだったのだろうか。
「安心して。銃刀法には違反していないから。」
「なんでお前は日本の法律にそんなに詳しいんだ?」
「税関では美術品として許可を取ってあるから大丈夫。」
「銃刀法に違反してないならその設定は要らないはずだろう⁉」
それにしても、外を出歩くにはその銛は目立ちすぎる。
「置いて行けないのか」
「また昨日みたいなことになったら困るもの。」
「昨日みたいなって、部屋の鍵を落としたり?」
「それも有るけれど、万一、私の読みが外れて博士の護衛からの襲撃が有った場合、これが無ければ私の戦闘能力は半減する。」
僕は昨夜のヒュキアとナイフ男の戦いを思い出した(ナイフ男は久留間崎という名前だったか確か)。あれで半減状態だったのか。
「むしろ僕だけで行ったほうがいいような気がしてきたけど……仕方無いか。」
鍵とポケベルを探さなきゃいけないしな。
ヒュキアが昨日アパートを出てから辿った道のりを全て追跡したのでは姪森さんとの待ち合わせに間に合わないので、僕は彼女に持ち物を落とした場所に心当たりは無いか尋ねた。
「蓋然性の問題として有り得るのは、久留間崎との戦いの時ね。」
『ナイフ男との戦い』とか『久留間崎との戦い』とか、何か『ワーテルローの戦い』とかみたいだな。『桶狭間の戦い』とか。
「君が僕を抱えて走っていた間とか、あいつから離れてアパートに向かう途中ってことは?」
「それなら鍵にせよポケットベルにせよ、私が落下時の音に気付かないとは考え難いわ。貴方に会った時点まででも状況は同じ。近くで地面に何かが落ちる音に集中しきれなかった時が有ったとしたら、あの戦闘の最中だけ。」
「なら、あの場所を探そう。」
近所の住宅街での出来事だ。大体の場所は僕も憶えていた。
そこに行って周辺を捜索したが、鍵とポケベルは見つからない。
どこか他の場所で落としたのか、それとも誰かが拾って交番にでも届けたのか。他の場所で落としたとしても、既に拾得物として交番に届けられている可能性は高い。ひとまず最寄りの交番に行ってみよう。
銛を所持したヒュキアを連れて交番に一緒に入るのはいかにも不審だったので(銛を持っていなくても只でさえ彼女は目立つ容姿をしている)、お巡りさんには僕一人で相談に行くことにした。ヒュキアには適当に目の届かないところに待機しておいてもらう。
交番に向かっている途中で気が付いた。どうして僕はこんなにも彼女に協力的になっているのか。ここまでする必要は無いはずだ。これが所謂、乗りかかった舟というやつなのだろうか。
まぁ、これで落し物が見つかれば、晴れて僕の責任も無くなる(そもそも僕には何の責任も無いのだが)。後は彼女が一人で自分の好きにすればいい。




