2 angel's capacity (6)
僕も適当にクッションでも枕にして床で寝てもよかったのだけれど、すっかり目が冴えてしまっていたので、デスクでパソコンに向かって時間を潰す。
この部屋のカーテンは遮光カーテンではないため、日中はカーテンを閉めていても光が室内に入ってくる。朝陽が昇って陽光が差しているのに気付いた僕は、部屋の明かりを消した。節電節電。
再びパソコンに向かう。
しばらく暇潰しに没頭して気が付いた時には結構な時間が経過していたらしく、室内は随分と明るくなっていた。
ベッドのほうを見ると、まだヒュキアは眠ったままのようだった。
その明るい色の髪を、陽の光が照らし出す。
日々の生活の中で時として、ほんの数分とか数秒の出来事が、それを経験している間は永遠に近いほど長い時間に感じられる、という瞬間が訪れることが有る。
今が、そうだった。
陽光と朝の静寂が精緻な均衡を作り出し、僅かにでも僕が動いたりしたら、この時間は台無しになってしまう。そんな気がして、僕はじっと息を潜めて彼女を眺めていた。
子供の頃、大人に隠れて野良犬や野良猫に給食の残りのパンなんかを与えていた経験の有る人は多いだろう。僕の場合は猫だった。真っ白い仔猫だ。
猫を飼っていると、小さくてふわふわした塊が傍にいて、(自分の気が向いて相手の機嫌も悪くなければ)そのふわふわに触れられるということに、ちょっと感動する。
ヒュキアの寝顔を見ていて、そんな感覚を思い出した。彼女の髪も、仔猫の毛のようにふわふわしている。
触ったりしたら、噛みつかれたり引っ掻かれたりするだけでは済まないだろうけれど。
不意にぶーんという唸るような低い音が聞こえて、我に返る。冷蔵庫が冷却活動を開始したらしかった。
僕は魔法を解かれたような気分で、改めてヒュキアを見た。
彼女の耳たぶには左右でデザインの違うピアスが付けられている。何かの本で、『どこか遠くの国には女の子が生まれると魔除けのために幼いうちに耳にピアスの穴を開ける風習が有る』という文章を読んだことが有った。本当にピアスが魔除けになるのかどうかは僕には判らないけれど、少なくとも、『生まれた子供に悪いことが起こりませんように』という大人たちの願いや祈りみたいなものは込められることになるだろう。もしかすると魔除けというのは本来そうした意味を持っているのかもしれない。
ヒュキアにも、そんなふうに幸運を祈ってくれる誰かがいたのだろうか。
「その考え方はとてもロマンティックだけれど」
突然ヒュキアが声を上げた。同時にぱちりと目を開いている。
「私の先生は魔除けに関しては別の解釈をしていたわ。」
「起きてたのか」
「今、起きたところ。……装身具に魔除けの効果が有ると謂われる場合の『魔』というのは『魔が差す』の『魔』のことだというのが園部先生の意見よ。魔が差すというのがどういった状態なのか、日本語に詳しくない私にはよく分からないのだけれど、少なくとも、アクセサリーの意匠や光沢が他者の注意を惹き付けるのは事実ね。注意を惹き付けるということは、別のところから注意を逸らすということでもある。現に貴方は今、私のピアスに気を取られていて、眠っている私に対してどうこうしようとは思い至らなかったでしょう」
「ちょっと待ってくれ」
色々と異存が有る。
「分かっているわ。冗談よ。貴方がそんなことをするような人だとは思っていない。」
僕は先刻から気になっていた疑問を口に出すことにした。
「君は、この二週間、ずっと隣の部屋に住んでいたんだよな?」
「ええ。」
「一度も部屋の外には出なかった?」
「昨日までは、一度も。」
「さっき君は、姿が見えなくても音や振動から他者の思考を読み取ることができるって言ってたよな。じゃあ、隣の部屋に居る僕の考えていることを、この二週間ずっと読み続けていたということなのか?」
ヒュキアはゆっくりと布団を押しのけながら、僕のベッドから上半身を起こした。
「ええ。その通りよ。真菅。」
やっぱりそうなのか。
「眠っている間は誰かの思考を読むことはできないから、睡眠中は含まれないけれど。でも」
彼女の緑色の目が、僕の目を真っ直ぐに見つめる。
「貴方が毎晩、貴方の部屋で何をしているのかを、私は知っているわ。」
予想はできていた答えだった。僕が自分の部屋で、誰にも見聞きされていないと信じて疑わずにいた行動や思考を、全てではないまでも彼女は把握している。
考えてみれば不思議な話だ。アパートの隣の部屋といえば、壁一枚を隔てて数メートルの距離に収まってしまう。そんな至近距離で見知らぬ他人同士が生活している。ことによると、間に壁が有るというだけで、一メートルも離れていない場所に誰かが居るかもしれない。不自然といえば不自然な状況だ。それなのに平均的な日本人は、そんなことは常日頃は意識せずに生活していられる。それが普通だと思っていられるし、自分の部屋の中ではプライバシーが保たれると思っていられる。それを変だと感じるのがおかしいのか変だと感じないのがおかしいのかは、僕には判らなかった。
ふと我に返ると、時刻は昼近くになっていた。
忘れていた。姪森さんと連絡を取らなければ。




